** カロル **




 毎回誰かしら止めてくれるので、死ぬをやめるんだとアンジェーは言う。今日も四階建てのアパルトマンの屋上にいる彼を見つけた。
 普通に道を歩いていると、誰かが死にかけていても意外とみんな気がつかないものだ。一人が「あっ!」とでも言えば、みんな騒ぎ始めるのだろうが。俺の役目は、その最初の一人になることである。
「おーい、アンジェー! 今日こそ死ぬのかぁ!」
 大声で怒鳴りつける。道行く人々がぎょっとして振り向いた。上の方で小さな彼は、両腕をぐるぐる回しながら元気いっぱいに返事する。
「君が見つけてくれたからもうやんなぁーい!」





 彼はこの界隈では有名な自殺未遂男だ。俺の他にも幾人か、常連の引き留め役がいるらしい。
 月に三度は建物の屋上(どうやって登るのだろう?)の端に立ち、通行人の肝を潰させるのだった。
 彼を初めて止めたのは一年前くらいだったと思う。それから少なくとも五回は彼の賭けに付き合っている。縁があるというのか、俺が上を見ながら歩くことが多いからだろう。
「たまには人が全く通りかからないこともあるだろう? どうするんだ、そういう時は」
 ある時、地上を歩いている彼と偶然会ったので二人でカフェに入った。高所にいないときの彼は至極大人しく、むしろしょげ返っているかのようで、パリのスミでひっそりと暮らしている所在のない人に見えた。
「そういうときにはね、おひさまに見つけてもらうんだな」
 幽霊のように――――彼は実際、骸骨のように痩せて顔色が悪かった、生気のない笑みを見せながら、アンジェーはカップを斜めにする。
「…結構生きていられるものだよねえ。人とおひさまのおかげでさ」
 屋上で逡巡している時間は長くて十分だと彼は言う。その僅かな間に、誰かがいつも見つけてくれるから跳ばないで済んでいるらしい。
 俺は彼に自殺の真似事はやめろとは言えなかった。 あまりにも儚い地上の彼と、天に近い時の生彩の差を知れば知るほどに、そうとは言えなくなった。
 それに、幾度か引っ張られた警察で、そんなことはいくらでも言われているだろう。俺は余裕のあるときに出来るだけたくさん彼を見つけてやろうと、ますます上を仰いでいるだけだった。そのおかげでやたらと青空を見る回数が増えた。
「まあ見返り無しというわけでもねえな」
それに気がついたとき、俺はこう呟いたものだ。
 さてこのままずっと彼の遊びに付き合って、一体何処まで続くだろうか…。










「ジダーン!」
 かわいいサンタの飾りの着いたお下げが、真っ赤なコートの上で踊った。
 アンヌはいつも鉄砲玉のようにかけてくる。そして子供の頃と同じように、全体重を体当たりさせるほどの勢いで、俺に抱きついてくるのだ。 十を越す頃から俺も本気で身構えるようになった。でないと吹っ飛ばされかねない。
「わっぷ。また背が伸びたね、アンヌ」
 段々キスするのが楽ちんになってくる。父親譲りの強い眉毛が、もっとも大人っぽさを感じさせた。
 田舎でもパリでも、親類との関係は決してよくない俺だが、どういうわけか従兄弟シャルル・レスコーの娘アンヌとだけは昔から変に仲がいい。歩き始めた頃から俺の側を離れようとしなかったのだから実に笑い話だ。
 無論シャルルは青筋立てて怒っていた。未だにアンヌが何かするたび、あの頃俺と引き離しておかなかったから、悪い影響が出たんだ、とご立腹らしい。
「ひどいんだよ。結局ジダンの載ってた号の『ノワール』返してくれなかったんだから。こんなもの下らないって言ってさ。パパなんて大嫌い」
 と、十三歳の彼女はカフェの中で唇を突き出した。
「あげくにあたしがジダンと会おうとすると、頭ごなしに怒鳴りつけるの。いい加減にしてよね。プレゼント渡すだけなのに」
かばんの中から小さな紙包みを取り出した。
「はい。お誕生日おめでとう。ちょっと早いんだけど」
 俺はクリスマスが誕生日だ。
「ああ、どうもありがとう。開けていい?」
「どうぞ」
 中から出てきたのはきちんと箱に詰められた、なんだか爆発的な柄の靴下だった。
「こりゃまた、エキセントリックな…」
「こないだ、いいお店見つけたの。エスニックでもうサイコー。今度一緒に行こうよ。気に入った?」
「じわじわと好きになっていくよ。アンヌらしい贈り物だね、ありがとう」
アンヌはにっこりと笑った。
「喜んでもらって嬉しいよ。よかったぁ」
 …何もかもに恵まれた少女。
暮らしと風貌と、生来の自由、反骨心、向上心、そして溢れんばかりの愛情。
 これは将来が大変だと俺は笑う。彼女はたくさんの目がその後を追う大人になるだろう。多くの人の中心にあって微笑む女性になるだろう。素晴らしい。
 俺はこの少女の幸福を見ているのが好きだ。いつも力強く駆けてくるその真率に触れると、自然と微笑んでしまう。見ているだけで幸福だなどという文言を、若い頃は決して信じていなかったが、三十も過ぎれば実際にそういうこともあるのだと最近思う。






 二人で歩く商店街はクリスマス一色だった。どこかからクリスマス・ソングのオルゴールが聞こえてくる。
「ジダンはクリスマスどうするの?」
「友達同士でパーティすると思うな。…多分」
 俺はいつもそういう企画に最後になって乗っかる質である。準備のことなど与り知らない。
「劇団の人達とォ? いいなあ、あたしもそっち出たいなあ…」
「家でパーティするでしょ」
「だって来るの弁護士とか医者とか政治家とかだよ。うっつくしいフランス語でさ。一体何が楽しいっての?」
「同世代の子がいるだろう」
「ああ、あんな人たちもっとやってられないよ。みんないい子ぶって、下手くそな詩ィひねったりバイオリン、ギーギー鳴らしたり」
「それは恐ろしい」
と、俺は真顔で言う。
「でしょ? 抜け出しちゃおうかなぁ、あんなの…」
 そうしたら、またシャルルが俺のせいだって怒るんだろうな…。
 笑いながらそんなことを考えていると、ふと上げた目線の先、道路の向かいの建物の屋上に立つ黒い人影が目に入った。
 アンジェーだ。いつものように、いつもはたるんだ背筋をぴんと伸ばして、屋根の端に立っている。
 条件反射的に、俺は声をかけようとした。その時、いつの間にか花屋の軒先で足を止めていたアンヌが、
「ジダン! 見て、これかわいい!」
と俺を呼んだ。
 振り向くと彼女はピンク色のミニバラの花束を抱えて、微笑んでいた。
天使のように。
  つられてこっちも微笑みかけた次の瞬間、その顔色がさっと転じた。ぎょっとした俺の前で、花束を取り落とすとアンヌが力一杯金切り声を上げた。
「きゃああああ―――――――ッ!!」




 どん。
背骨にくぐもる音が響いて、取り残されていた俺の体は一度跳ねた。
 バラは路上に転がって、一瞬にして色褪せていた。




 振り返る前から、何が起こったのかどこかで知っていた。建物の前に体が一つ転がっていた。早くも人が集まり初めている。
「……」
 俺は呆然と、そこに死した肉体を見ていた。道路に滲み始めた血から、白い湯気が立ち上っていた。
「ジダン! ジダン!」
アンヌが俺の腕にかじりつく。
「跳んじゃったよ、あの人跳んじゃったよぉ!」
 その言葉に、腑抜けたように頷く。
そうだ。彼は跳んだのだ。そして自殺は未遂でなくなった。そんなことは明白だ。…だが。
「…なぜ……」
 はっとして空を見上げた。その責任を追うように空を見たが――――太陽の姿は何処にもなかった。
 今日は午後からずっと、曇りだったのだ。
 ひ弱な男の屍の上に、クリスマスを祝する歌が虚しく降り注いでいた。
俺はこのメロディを知っている。



We wish your Merry Christmas
We wish your Merry Christmas
We wish your Merry Christmas
and A Happy New Year!…










 あんな人もいるんだね。
とアンヌは言った。
 こんなにぎわいの季節に、あんな死に方をしてしまうような、あんなにもちっぽけな人が、いるんだね…。知らなかった…。
 彼女はまだ青い顔をしていたが、大丈夫だと言って、それよりも門限が気になると言って、家へ帰っていった。
 だが、ダイビングの様子は記憶に焼き付いているだろう。しばらくの間、メールで緊密に連絡を取らなくては…。
 アンジェー。お前やったぜ。
暗い表情で家路につきながら、俺は死んだ男へ言った。
 お前はあんなにもきらきらした少女の人生にとりついた。彼女に、自分が恵まれた一端であるという知恵を埋め込み、その瞳に翳りを作って無知の幸福を奪った。
 これから数年間、いや、もしかすると何十年もの間、お前の死は彼女の中で今まで受けたこともなかった程の真摯な思考の対象となり、まるで身内の死のように、彼女の暖かい胸の中でくり返しくり返し反芻されるだろう。
 そういう人間もいるのだ。劇的に死ぬことによってしか、他人からの懐思を獲得することができないそんな「ちっぽけな」人間も。太陽にすら見捨てられて、かたや微笑むだけで周囲の目が吸い付けられる持てる人種もいるというのに。
 やったじゃないか、アンジェー。
お前はとうとう世の不公平に一矢報いたぞ。命と引き替えに、思いがけないほど勝利したぞ。
 …しかしそれを知っていても、且ついつしか汚されていくものだと知ってはいても、アンヌを揺さぶったアンジェーが俺は憎い。
 どうしてよりにもよってあんな優しい子の十三にとりついたのだ。無垢は回復されない。目の前で彼女の悲鳴を聞いた、俺には何とも言えない心苦しさがあった。
 シャルルの言うことは本当かもしれない。俺といるせいで、見ないでいいものまで見るかもしれないから…。 
 俺は感情の虜になって、無闇と娘を保護しようとする父親の愚昧を少し囓った。
 街は数時間前に死んだ男のことなどもう知らないで、時の流れのように絶えることなく動いている。
 俺はそれに紛れ、川を越しながら、俺と同じ日に産まれて人のために磔になったというあの男の気持ちが、その強さが、哀しいほどに少しも、分からない。



Fin.

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