** チャイナガール **




 シャルルの仕事部屋は法律事務所の受付がある四階の一つ下で、上で受付をした後、わざわざ一階下りなくてはならなかった。最初から三階へ呼びつければいいのに、と俺は美人受付嬢の背中にぶつくさ言う。
 すれ違う人間達が俺をじろじろ見ていった。背広と法律と成功の一間に、無精ひげと破けたジーンズの、こんな人間が相応しくないのは先刻承知だが…。
 立派な俺の従兄弟シャルル・レスコーは弁護士事務所のボスだ。俺とは五つしか離れていないが収入には既に南極と北極くらいの開きがある。いや、俺も昔よりはまあましになったので、グリーンランドくらいには近づいたかな。
 部屋に入ると、俺に椅子も勧めないで、シャルルは話を切り出した。
「普段はこういう雑誌は手に取らないんだがね」
手入れの行き届いた爪が、眼鏡みたいにきっと光る。
「アンヌ(彼の娘)が持ってきて、ここに君の記事が出ていると―――」
 座ったまま差しだすので、俺は歩いていってそれを受け取った。手袋を二つソファに投げ込んで紙面に目を当てる。
 中堅の芸術雑誌「ノワール」だ。前回の舞台を取材に来て、確か雑誌も送ってくれたはずだが、忙しくてぱらぱらとしか見ていなかった。
「で?」
 俺は渡された雑誌の安い紙を弄びながら聞いた。世間話をするために、彼が俺を呼ぶわけがない。何か文句があるに違いないのだ。
「困るんだよ、そういうのは」
 彼が言ったのはインタビューのページのことだった。俺と記者の問答が見開きに展開され、真ん中に俺の写真が二つ載っている。




N やはり創作の場合は自分の体験が重要なモティーフになりますか?
J そうですね。自分の経験したこと以外について知るためにも、どれだけ自分自身について知っているかということは重要だと思います。
N では今回の舞台「フランソワァズ」も、自己の体験を基に?
J (首を傾げる)そこまで直接的な意味で経験を反映させているかは疑問ですが、まあ影響があるのは当然のことです。
N あなたは自身は、主人公フランソワーズのように、人種差別的な扱いを受けたことがありますか?
J もし私が純粋な白人であっても、必ずどこかで受けたでしょう。差別から逃げることの出来る人間はいません。





「何がいけない?」
俺は顔を上げる。シャルルは両手を開いてみせた。
「分からないのか?」
「芝居について通り一遍の話じゃないか。あんたが目くじら立てるようなことは何もないと思うけど」
 雑誌を彼の前に放り投げた。そして背を向けるように、机の右の角に腰を下ろす。
「何がいけないのでしょうか? 大先生」
 さぞ法廷では人気のあることだろう。優しくよく通る声がこう言った。
「このインタビューを読むとまるで私たち一族が君を迫害してきたかのように映るじゃないか」
 振り向いて、俺はシャルルの青い目を見た。金色のまつげ、白い肌…。 お前は運がいい。
笑いが出た。お前は運がいいよ。
「深読みだよ、それは」
「そもそもどうしてこんな芝居を作った? 当てつけのつもりか?」
「当てつけ?」
「何故過ぎたことをわざわざ掘り起こそうとする。
 皆があの悲劇を忘れて前向きに生きようと懸命にがんばってきた。その努力を傷つける行為だぞ、これは」
 知らぬ間に机から下りていた。
どうも忍耐が早々と音を上げかけているらしい。
「だから偶然だよ。誰もこの芝居が俺自身の記録だなんて言っていないじゃないか」
「だがそう映ることは否めない」
「もしそう映るのならそれは――――」
俺はまぶたを閉じる。
「あんた方に引け目があるからだろうさ」
 美しい従兄弟殿は立ち上がった。
「私達には君や君の母親を差別する心など有りはしなかった。私達は寛大であり、公平だった」
 死刑囚に向かって引き金を引くとき、人はきっとこんな顔をしているのだろう。そして俺の表情は撃たれる方のそれだ。
「それなのに私達に心を開かず、すねこんだのは君達の方だ。
 あの女といい君といい、そのひねくれた考え方はどうにかならないのかね。…悪趣味極まりない」
「…それが言いたかったのか」
 俺は両手を上着のポケットに突っ込んだ。
「私達のせいではない、と」
「私は心配しているんだよ、ジダン。君があの女のようになりはしないかと。せめて君だけでももっと素直に生きたらどうだね」
努めて冷静に、首を振る。
「素直というのが、在るものを無しというあんた達の知恵のことなら、俺はごめんだ。あんた方の幸福を俺が邪魔しているのなら済まないが、俺は真実の道を行く」
「君の道が真実へ向かっているというのかね?」
ふ、とシャルルの鼻が笑った。
「冗談じゃない。君の作っているものなんぞ、徒に汚いものをほじくり返して喜ぶ一種の悪ふざけに過ぎない。露出狂と同じだよ」
 ため息が出ると同時に、肩が震えた。
「…言いたいことはそれで全部か」
「いいや。…二度とこんな芝居を作らないでもらおう。君を名誉毀損で訴えるぞ」





 バン! と叩きつけるように扉を閉めた。
押さえつけ続けた怒りが最後の緩みにつけ込んで爆発してしまったのだ。
「……」
 扉に拳をつけて、俺はなんとか平静を取り戻そうとする。額がひりひりした。
 その時、
「…あの……」
蚊の鳴くような声に驚いて面を上げる。そこにひどく背の低いアジア系の少女がいた。
 まだ十六、七だろう―――きっと福祉事業の一環で雇っている移民の子だ。
 彼女は危なっかしいお盆の上に、紅茶を二つ運んできたのだった。
「…ああ……」
意味もなく笑う。
「いや、もう帰るから、お茶はいいよ」
 手を伸ばして、その黒い髪の毛を撫ぜた。
「…レスコーさんに運んであげて」
 そして俺はようやく扉から離れ、エレベーターの方へ歩き出した。少女の不思議そうな視線を背中に感じながら。
 清潔なエレベータの絨毯の上には誰もいなかった。俺はゼロ階のボタンをやたらに押し、早く、少しでも早くこの塵一つない建物から出ていきたくてほぞを噛んでいた。
 ――――母はヴェトナム人だった。
インドシナでの戦災を避け、流出した先のパリで、父と出会い結婚した。
 そして父の仕事の都合で田舎へ帰ったその日から、彼女の孤立が始まった。あの街にはパリのようにヴェトナム人コミュニティなど存在しない。 加えて、有色の肌への沈黙と軽蔑(その現実は数年後俺が辿ることになる)。言葉すら不自由だった母は、父の帰ってくるまで誰とも会わないでひたすら家に留まっていたという。 
 やがて俺を妊娠した母は、父の浮気に気がついた。
やっぱり俺、白人がいいや。
どこかで言ったという父の言葉も耳に入った。
 チャイナガール。
その頃彼女はそう呼ばれていた。チャイナガールと。
 彼女は、俺が一歳までは生きていた。
けれどそれが限界だった。
 ビスケーの波に呑まれて死体は結局上がらなかった。
遺書は焼き捨てられた。
「子供によくない影響を与える」
というのが祖母の言った理由だった。
――――何もなかったというのか。
 ドン、と拳でボタンを殴る。
異国の海に身を投げた二十一の心が、
生まれつきねじれきっていたと、
何もなかったというのか。
あれは夢だったというのか。
――――そして俺にすら忘れろと、
声を出すなと、そういうのか。






 ドームの奥から轟音を立てて、電車が乗り込んでくる。ベンチに座り込んだまま、既に三本を見送っていた。それでもまだ増えては流れ、増えては流れ行く人々を眺め続ける。
 人の途切れた一瞬だった。ふと、線路に何か白っぽいものが転がっているのが目に入った。
…何だろう――――。
 胸にわだかまる靄とは関係のない好奇心がもぞもぞと動いて、俺は目を凝らす。
 するとそれは…、ネズミの死体だった。
枕木と枕木の間に転がっていた。胴体だけ。首はちょんぎれて、どこにも見あたらなかった。
「……」
 ベンチの背に体重を戻しながら、…どうして俺はこういうものを見つけてしまうのだろう。ネズミの冷えた小さな体を目の当たりにした途端、突然胸一杯の怒りが悲しみに成り変わった。
 どうして俺は、こういうものを見つけてしまうのだろう。どうして地下鉄でうらぶれて死んだネズミの死体など、見つけて――――
 シャルル。
俺も君みたいになりたかったよ。
 目の前に見えるものだけを無条件に信じ、世の中にそれだけしか無い幸福な男になりたかったよ。大学を出て出世をして、家庭を築き、子供を育てて…。
 でも俺の目はどの場面においても、きっとネズミへ走ってしまうんだ。そしてそれを、じっと見つめてしまう。
 …ひねくれているから? そうかもしれない。けれどまず俺が自身を認識しようと思ったら、どうしても裏へ回るしかなかった。
 俺にはどうして母がいないのか?
どうして祖父祖母は俺よりも妹を愛するのか?
どうしてこんなに生きにくいのか?
 それらの問いの答えは、日の当たる場所にはなかったよ、シャルル、君らの住んでいるところにはなかった。
 好きで複雑になったんじゃない。ひねくれたわけじゃない。そうならざるを得なかった。喜んでない。
 事実俺は、世界に死んだネズミを見つける度、ああまた見つけてしまった、また見てしまったと――――。
 悲しみに裾を引っ張られるようにして、俺は冴え冴えとしたところへ戻ってきた。そして従兄弟のオフィスに手袋を忘れてきたことに気がついてあっと思った。





 エレベーターでまた三階へ上り、ドアの腹をノックする。
「シャルル?」
 呼びかける声にも応答はない。だが鍵はかかっていなかった。顔を合わせるのが面倒くさい。手袋だけ拝借してお暇しよう。そう考えて中へ入った。


 少女がソファから起きあがったところだった。
貧弱な体に安物の綿シャツを掻きあせるようにして俺を見た。俺と同じ黒い瞳だった。
――――どうしてなんだろう、
と俺はまた思う。
どうして。
 探し求めた手袋はテーブルの上、紅茶と共に冷えて固まっていた。



Fin.

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