** どうなんでしょう **




 最近、俺とフェイの間には相互無視の約束が出来ている。「無視」だなんて言葉が物騒か。つまりはお互いにある部分、見ない振りをしているということだ。
 とは言え別段、表だって約束をしたということではない。どちらが先に始めたとも言い難いが、ただ自然と事は運ばれ、そういうところに落ち着いたのだ。
 無論俺達は、普段と何ら変わることなく仕事をしている。いや、これは順番が逆だ。俺達はノルマルを保つために、それへの愛着のために、協約を結んでいるのだから。




 大学の仲間に依頼を受けて、二十歳の時、初めて戯曲を書いた。自分の生い立ちをベースにした、今まで言いたかった痛み、ぶちまけたかった怒りを、あらん限りつぎ込んだ力一杯の処女作だった。
 ある程度の成功に俺は簡単に気をよくしていたので、打ち上げに参加していたフェイから、
「問題がある」
と言われた時には正直カチンときた。
 フェイは劇団の役者の知り合いで、特に演劇経験があるわけでもなかった。自分だって素人だったくせに、そんな相手から戯曲にけちをつけられて俺は不愉快だったのだ。
「演劇の文法を使いこなせていないことは仕方がないと思うよ、まだまだこれからだから。でも、あのテーマの設定の仕方はいけない」
 その言葉にも驚いた。まさかフェイのような人間からそんなことを言われるなんて思っていなかったのだ。
 戯曲のテーマは人種差別だった。無いということになっている差別がいかに静かに生き延びているのか。劇の中で若い俺は俺を虐げた人々を非難し、告発していたのだ。
「…君は辛い目を見ていないのかも知れないが、少なくとも俺には人種差別は大きな問題なんだ」
 やっとのことで冷静に返答した俺に、フェイは首を振った。
「もちろん、問題じゃないといいたいんじゃない。僕だってそれはよく分かっている。そのテーマで劇を作ること自体は悪いことじゃない。でもそれではどこまでも昇っていけないんだ。
 …差別は問題として大きすぎる。その本質を理解するには時間が必要だ。有り体に言えば普通の人間には、どうにもならない問題なんだよ」
「どうにもならないといって避けて通るのは嫌だ」
「ではどうする? 自身が受けた差別への怒りをテーマに、この先も十本、二十本書くのか?
 …そりゃあ、書けるかも知れないよね、君には確かに経験と、才能があるから」
 後になって、これがフェイの常套手段なのだと知った。彼は自分の最も言いたいことを言う前に、一語褒め言葉を差し挟み、相手の注意を惹きつけるのだ。
「でもね、ジダン。その後に、もしも世界から差別が完全に撤廃されたらどうする?
 それはパラダイスの到来だ。白も黒も黄色も赤も、みんなが抱き合って踊るだろう。素晴らしい。みんな幸福にうっとりとなって、世界はペストから解放される。
 …けれどその中で君は一人、表現すべきテーマを失って虚ろになるだろう。
 なぜだかは分からないけれど、そのような大きな問題に、理解ではなく感情を糧に取り組んでいたらいつの間にか、人はそれなしではいられなくなってしまうんだ。
 差別撤廃を理想に書けば書くほど程、実は撤廃の日など来ない方がいいって気がしてくる。
 無論、テーマの変更は可能だよ。今日は人種差別、明日は核問題、明後日は環境破壊。日本庭園の踏み石のように渡っていけばいい。
 でも結果は同じだ。…結局それは、何の解決にもならないうえに、それを使って自己表現を、…悪くすると金儲けをする人間になってしまう。最初は確かにそれをなくそうと思っていたのに…。
おかしいだろう?」
「…おかしいな」
 仕方なく、だがしかめ面のまま、俺は認めた。
「僕は君の才能に期待しているよ。十年後もまた君の芝居を見たいと思う。だからテーマの設定について考え直した方がいい。
 僕達が表現すべきテーマはもっと身近に転がっている。例えば隣の家の鉢植えの赤さ、例えば階段を上るときの足のだるさ、例えば愛する人の汚れた爪、大嫌いな相手の煎れたおいしいお茶。そんなものさ。
 人種差別や環境破壊や核問題はね、本当は道具であってテーマじゃないんだ。つまり今回の芝居は、大きな包丁は振り上げているけれど、切るべきまな板の上には恨み以外、何も載っていなかった」
 ふいににっこりして、彼は言った。
「…君はただ、足掻いていたね」
その足掻き方が暖かくて、僕は気に入ったよ。



 彼を呼んできた役者が後になって、フェイが文学の教授から「万能型」と評価されていると教えてくれた。芸術素人はこちらの方だったのだ。
 俺は次に会った時、彼に自分の補佐を頼んだ。快く承知してくれた彼と仲良くなるに連れて、彼が悩みを持っていることも分かった。
「僕は評価はまあ出来る方なんだけど…」
と、頭を掻く。
「どうも産み出すことは出来ないらしい。その才能はないらしいんだな。だから補佐役になって満足だよ。ずっと真実一つテーマにして行こう」
 そして事実、俺達は二人で探し続けてきた。
隣家の赤い鉢植え、階段を上るときの疲れる足、汚れた爪を持った愛しい人、おいしいお茶を煎れられる大嫌いな人――――
つまり、俺達の真実を。
 いくつもの作品を共有し、力を併せて立ち上げる中で俺は彼に依存し、彼は俺に依存した。人生が癒着してどこからが自分の領域だか分からなくなり、互いに相手が何を見て何を考えているのか、どうしたいのかが簡単に知れるようになった。
 そして失いたくないものが出来上がったとき、人は真実を前に尻込みを始める。最初は確かに真実をつかむためにその相手と一緒にいたのに…。
おかしいだろう?





 フェイが客席に座り、いつものように稽古を眺めている。まだ脚本を持ったまま、各場面ずつ進む稽古の間中、その鮮烈なほど黒い眼差しの表層には、どうしようもなくマリーが映る。
 俺は隣に座り、彼が何を見、何を望んでいるのか肌で知りながらただ、心のまぶたを下ろしている。彼は何も見ていやしないのだと。
 恐らくフェイも、俺が知っていることを知っているだろう。だから普段は彼女がすぐ目の前で微笑んでいても、わざと目を逸らして冷めた表情でいるのだ。優しい彼が見せる誠意なのだ。
 いつか発露する日も来るだろう。俺の隣にフェイがいなくなる、或いはマリーがいなくなる晩もあるだろう。だがそれまではきっと、俺達はこの相互無視の約束を守り続けるのだろう。
 …どうなんでしょう。
真実を損なっても、それでもノルマルを愛するこの自分の心は一体…、どこへ行き着くんだろうか。





「今ならシャルルと仲良く出来そうな気がする〜」
 地下鉄の駅からアパルトマンまでマリーと並んで歩きながら、俺は言った。そんなことを言ったのは、ちょっとアルコールが入っていて気分が良かったせいかもしれない。
「結局、人間流転を拒否し始めたらダメってこったね。分かるぞ、シャルル〜。すごく分かる」
「うん」
マリーが頷いた。
「…私も彼のこと分かるかも知れないよ」
遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。
「今ならね」
何もかも知っている聡明な瞳が、俺を見る。
 こういう会話を経た後、手をつなぐ俺達ってどうなんでしょう。依って立つ原初のポリシーを手放して、事実なんかどうでもいいじゃないかって気になっている俺の未来は、芸術家としてどうなんでしょう。
 ああ、遠くでサイレンが鳴っている。
けれどそんな音で、朦朧とした俺の視界がはっきりするはずも、ない。



Fin.

>> back >






01.02.11