** 惚れ惚れとする **





 ミミが(今の)彼氏の(前の)彼女をぶったたいて警察に捕まった。詳しいことは知らないが、なんでもアパルトマンでばったり鉢合わせして、セオリー通りに口喧嘩が始まったらしい。
 前の彼女とやらにとって運が悪かったのは、ミミがすぐ物を投げる短気な女であるということを知らなかったことと、ミミがちょうどビデオカセットのいっぱい詰まっている戸棚の前に立っていたことだ。
「相手、顔を縫ったって?」
 フェイが、カフェのテーブルに頬づえをついて目を線にしている。怒るとこの人は目が線になるのだ。
「たったの二針だよ。それに、顔じゃなくて耳の上のところだ」
「どっちにしろ傷害には違いないじゃないか。ったく、やってくれるね。まるで赤毛のアンだ」
 劇団の事務手続きや劇団員の管理はフェイの仕事だから、彼はもう悪態ばかりついている。無理もないだろう。彼はテアトル・シリスを薬中やモラトリアムのねぐらにしたくないと言って、創立以来ずっと努力を重ねてきたのだから。
「…しかしこうなった以上、彼女にもある程度覚悟してもらわないと」
 俺は顔を上げた。多分、いじめられる子供みたいな面持ちをしていただろう。彼がそう言い出すのをずっと懼れていたので。
「…覚悟?」
「分かっているだろう。退団してもらうんだよ。ここできちんとけじめを付けておかないと、若手が緩む。 規範が有名無実化するんだよ。一旦そうなったら、もう二度と今の水準には戻れない」
「フェイ、しかし…」
言いかけた俺を遮り、彼は念を押した。
「冷静に考えてみてくれ。彼女が今シリスにいるメリットはなんだ?
 …そりゃあ彼女は古株だよ。でも女優として、演劇人として彼女はそんなに有能か? 彼女が何か君の役に立ってる?」
「いいや」
 俺は首を振る。フェイ相手に嘘はつけない。
「そうだろう? …これは飽くまでも予想だけど、どうせミミはこの先演劇では食っていけない。そんな才能じゃない。二、三年の内に必ず劇団を辞めて、他に生活の道を探し始めていただろう。
 …だから、少し早くなっただけなんだ。俺は元々、彼女がシリスで二十一世紀迎えられるとも思っていなかった」
 かわいい顔に似合わない手厳しい意見だ。彼は大学で知り合った頃とほとんど変わっていない。女性のような手触りのよいアジア更紗の下に、狂いのない精巧な機械がぎっしり詰まっているのだ。
 彼の言うことは正しい。それでも、黙ったまま眉毛をかく俺に、ため息一つついてフェイは腕を組んだ。どちら様も子供で困ったものだと。
「嫌なのか……」
それほどの女かね、と呟く。
「…別れても手放せないってか?」
「手放すとか手放さないとか、そういうことじゃないよ」
「そういうことじゃない? …どうだかね。そういうことだろう?
 …ねえ、マリー」
 フェイは俺から顔を反らし、今まで隣の席に座りながら、ぼんやりとシガレットをふかすばかりでまるで会話に加わらないでいた、マリーを呼んだ。
 傍目から見たら彼女は連れでないと思われていたかもしれない。じっと目を注いでいた交差点の喧噪からやっと離れて、彼女はフェイの顔を見た。
「君は、ミミが辞めることに賛成だろう?」
 俺は口元を右手で覆ったまま、彼女の方を努めて見ないようにした。そうでないと、彼女のことだ、遠慮をするかも知れない…。
 マリーは少しばかり考えていたようだったが、やがて煙草を唇から離し、首を振った。
「ううん」
 びっくりして振り向いた俺の顔に一瞥くれて、彼女は付け加える。
「私はミミに辞めて欲しくないわ」




 「やれやれ、君もか…」
大当てが外れて、フェイは肩を竦める。しかし、尚一層疑問はつのったらしい。不可能なくらいまで目を細めて、
「なんで?」
と尋ねる。
「なんで君まで彼女の肩持つんだ? 分からないな。だって君は彼女とは全然別のタイプだし、あまり仲良くできる相性じゃないじゃないか。
 それに…、こんなこと言いたかないけど、ジダンのこともある。そりゃ君の態度は立派かもしれないよ。…でも、僕には納得できない」
 俺に言うよりも随分つっこんだ言葉が出た。年下ということもあるし、言いやすいのだろう。
 マリーはテーブルについていた腕を下ろして、灰皿に白い灰を落とした。それから口を開く。
「…さあね。どうしてかしら」
 下向いた彼女の、マスカラの乗ったまつげが、鼻に影を落としていた。
「…確かにミミは馬鹿よね。普通そんな真似しないわ。前の彼女に物を投げつけたってことは、私がミミにカセット投げるってことよね」
 あまりに想像できない絵図だ。俺は首を振った。
「…嫉妬したにせよ腹が立ったにせよ、そんなに丸出しにすること無いわよね。鬱憤晴らしの方法なんか他に幾らでもあるんだもの。こんな警察沙汰にならないような喧嘩の仕方だって幾らでも…。
 …だから、言うなれば彼女は馬鹿よね。
もっとうまいやり方があるはずなのに、カーッとなるとそういうこと吹っ飛んじゃう」
 よく分析出来ている。俺は思わず目を閉じた。
「…大部分の人達は、日々問題を起こさないように、スマートにやってるわ。それが大人になるって言うことだし、生きていく技術って実際そういうことよね。
 だってこんなに人がいるんだもの。少しくらいの不整合は見ない振りをしないと。一々拘って苛ついてなんかいられないわ。いつも喧嘩ばかりしていたら何一つ決まらないし、実りは少ない。
 でも彼女にはそれが分からない。 …今回のコレが示すとおり、彼女はわがままで、トラブルメイカーよ」
「その通り」
 だが、頷いたフェイの声には疑問が滲んでいる。そこまで分かっていて何故、ミミを好きになれるのだ。
「むしろ彼女をかわいそうだって思うわけ?」
 その言葉にマリーは少々不愉快そうに煙を吐いた。
「違うわ、フェイ。 違う。
 …あなたはこんなことを思ったことない?
気がついたら私、ここ五年くらい、地団駄踏んで怒ったことがないわ。腹の底から怒鳴ったこともないし、誰かを死ぬほど憎いと思った覚えもない。
 …それは多分、私が大人になったからなのだろう。いいことに違いない。みんなそう言うもの…。
…でも」
マリーの落ち着いた青い瞳がフェイを見る。
「本当にそう?」
 彼女の美貌は無垢なものではない。叩き上げられた文明の工芸品だ。理性の人フェイの丸い揺らぎがたい黒が、うっかり虚無に触れてしまってどきりとした時のように、瞬きをする。
「…もしかして私は、単に怒りという感情がどんなものだったのか忘れてしまったのではないのかしら。ごまかすうちにその本質を見失ってしまっただけなのでは?
 だってこの先私は本当に怒れるの? 三十になって、四十になって、六十になって、怒り狂う自分を想像できる? …ノン。私はきっと未来までも冴え冴えとしているだろう。
 …この自分の心臓はもう二度と、我を忘れるほどの怒りを抱くことはできまい。例えば、…嫉妬に狂って誰かに物を投げつけてしまうくらい力強いエネルギーは、どこにも残っていないように思える。
 …ではもしかしてこれは進歩ではなく…喪失ではないの?」
 誰も答えなかった。ただ交差点の信号が赤になって、エンジン音が響き出す。
「…あなたが言ったように私、ミミをうっとおしいと思うときが多いわ。ガキくさいって。
 でも、同じくらい強く、どうしようもなく、彼女に見とれてしまうこともあるの。…本能むき出しで飾らない彼女の真っ直ぐな…、はた迷惑なその自我に、憧れてしまう日もあるのよ」
 人差し指と親指の間で挟んだシガレットを灰皿に押しつける。それからちょっと、と断って彼女は席を立った。店の中に入っていったから、お手洗いだろう。
 後に残された男二人は何となく無言のまま、もみくちゃにされた彼女の煙草を見つめていた。
 しばらくした後、
「…ふん…」
フェイが呟いて、それに指を伸ばした。
 フィルターの周りには彼女のピンク色の口紅が鮮やかだ。偽物の顔料。化学物質の塊。
 女の子って変なの、と子供の頃思っていたことを思い出す。これらに何らの疑問も感じなくなって、一体どれほどが経つだろう。
「あんなことを、確かハバマスが言ってたよな…」
 フェイの呟きに、俺は首を振った。
「言ったのはマリーだ。ハバマスじゃない」
立ち上がる。
「…迎えに行ってくるよ」
 煙草の箱から一本くわえたフェイに目で問いかけたが、彼は黙って肩をそびやかしただけだった。
行けよ。
 頷いて歩き出した俺は、店の扉の前で中から帰ってきたマリーとぶつかった。
「…喋りすぎたかしら?」
 そう言う彼女の頬に、屈み込んでキスをする。涙に濡れたところなんか見たこともない冷静な瞳だ。
「…いいや」
 俺は落っこちたマフラーを直しながら言った。
「…君も、俺も、全く同じ片思いを…ミミにしているんだと分かって…、何というか…」
眼鏡の奥で、俺は情けない笑みを浮かべる。
「なんとも切ない思いがしたよ」





 警視庁の前で、…ちょうどノートルダームを背景にする形で待っていると携帯に伝えると、五分程でミミがやって来た。
 だがいざ俺の顔を見るなりそこに立ち止まってしまい、心苦しそうにマフラーに顔を埋める。
「……」
 仕方がないのでそこまで歩いていって、黙ったまま彼女の頭に右手を乗せる。ミミは俺の胸に額をつけると、消え入るような声で、
「バカやって、ごめんなさい…」
と謝るのだ。反省に打ちひしがれたガキの口調で。
「……」
 盛大にため息をついて、俺は彼女の肩に手を回した。そして二人の待つラタンのカフェへ歩き出す。風が冷たいのに、ミミは泣き出して鼻をぐすぐすやっていた。
 ―――…どうしようもねえな。
俺は眉毛を八の字にする。
「…ほんと、お前は大バカだよ」
 プチ・ポン(橋)を渡るとき、薄灰色にたれ込める天を仰ぎながら俺は言った。
「…でも、ここまでバカになれるお前はえらいよ…」





 ミミが(今の)彼氏の(前の)彼女をぶったたいて警察に捕まった。
 その果てしない愚かさ加減に、一筋に堕ちていく手段を忘れてしまった「スマート」な俺達は苛立ち、忌まわしさを覚え、そして最後に、惚れ惚れとする。



Fin.

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01.01.31