** エピロォグ **




 誕生日プレゼントを探しに昨日、彼女の大変気に入っている店へ行ったら、マニュキュアの新色がたくさん出ていた。
 俺はピンク色の海の中に星形のラメがたくさん泳いでいるのを手にとって、レジへと差し出した。
 外へ出るともう夜なのにちっとも暗くなかった。街灯が上から下へと示すとおりに、セーヌへ歩き出した。春の嵐が前髪を跳ね上げる。
 俺の胸の裡は今までになく自由であり、俺の両足は本当に、飛ぶように動いた。
それは最後の片づけの前夜だった。










「結局君は、見つけつくして飽きたのだ」
 責めるような声で彼が言う。体を浸した暗闇と同じ黒い瞳が、純粋な悲しみに曇っていた。
「そうなのかもしれない。そうじゃないのかもしれない」
 こういう台詞を吐くと無用に冷たく聞こえるフランス語で俺は答える。俺は実際、どっちでもよかったのだ。
「…この世に僕ほど君を理解できる人間はいないんだぞ」
 続けて彼は言った。
そうだろう。
そうだろうと俺も思う。
 彼と別れると言うことは、半身をもがれることと同義だという比喩を大袈裟だと思わない。きっと彼のような友人は、同志は、仲間は、二人とこの世にいないのだろう。フェイという名の男が、世界に独りしか存在しない限り、その響きと熱を持った人間が再び目の前に現れるなどという夢は見ない。
 だがそれでも、俺は言う。
「それでも俺達は言葉を失ったじゃないか」
多くの人間達が辿るちゃちな罠に俺達もまた、はまったわけだ。
「…かつて理解し合っていたという事実が生む油断の中で、お互いを見失っていったじゃないか。
 気がついても何かしら難しくて君がその幻想から抜け出せないと言うのなら、俺が終わらせる。
 そして俺達は本当の姿に―――――つまり二人の別人に、戻ろう」
 フェイは長い間黙っていた。その女のような柔らかい頬が青白く光っていた。
「どうして」
終いに彼は低い声で言った。
「どうして別れなければならないんだ」










 無数の握手と無数の挨拶の後、ようやく人の引けた舞台に俺は一人で残っていた。何もかもが片づけられて、昨日には大道具でいっぱいだった袖にも、何も、本当に何もなくなっている。
 俺は無意識のうちに靴音を消しながら、何か取りこぼしがないか、忘れものが残っていないかあちこちを確認する。
 舞台は静寂そのもので、三日前装置にぶつけて青くなった右腕の痣だって、まるで夢のようだった。










 全ての舞台が終わった日。
拍手が止まらないので俺は三回舞台へ出た。
 突然競争率の跳ね上がったチケットを手に入れてくれた、或いは十数枚なんとか用意された当日券に朝から並んでくれた観客達を前に、俺は頭を下げ続けた。
 今やめるのは馬鹿げている。
動員数を告げると劇場の支配人はそう言って嘆息したものだ。
「雑誌も君を攻撃しているよ」
 俺は熱狂する彼等に本当に感謝をしたけれど、四度目を問う涙に濡れた劇団員達の眼差しには首を振った。
 袖で腕を組み、まるで辛い目でも見るように寂しい気持ちで観客達が諦めるのを待った。
 背中に劇団員達の視線が刺さるのが分かった。
残酷な男だと思われていたのかもしれない。








 袖口にずらりと並んだ照明盤のボタンを、一つ一つ押していった。
 客席後部。客席中部。最前部。側面の小さな照明。舞台を照らす蛍光灯。
 消える。
一つ一つがなくなるかのように消えていく。
 最後の一つを指で弾くと、ぱっと袖の照明が消え、自分すらかき消えるような気がした。








「ごめんなさいね、いいと思ったの」
 マリーは俯いて、まるで優しい父に告白をする子供のようだった。
「…あなたのことも、フェイのことも、私のことも、一緒くたになって、渾然一体となって、みんなが幸せで、誰一人孤独でなくて、家族みたいになって、いいと思ったの」
 俺も腹など立たなかった。おとぎ話を聞いて幸福になった遠い夜のように、胸にしんみりとした気持ちになったけれど。
「今でもそれでいいと思っているの。
 …私、きっと馬鹿になったのね。それであなたの役に立てなくなったんだわ」
「俺は約束は忘れていないよ」
彼女は軽く目を見張った。
「…だから別のどこかで、舞台のためにまた、会おう」
 しばらくした後、マリーはほっとほころぶように微笑んで、頷いた。
 ああ、俺はこの良くできた女のこんな一面が好きだった。
 約束は永遠を意識してするものだ。
それなのに人間は終わりのない関係、日曜のない一週間を愛せない。
 残酷なエピローグを聞き始めた瞬間から、全てに対する愛着は唐突に湧いてくるのだ。
 だからジダン。愛する人達と約束なんかしないのがいい。
自分以外とは決して、約束なんかしないのがいい。








 管理人室のドアを開けて、中にいる、もう馴染みになった舞台監督にキーを返した。
「またいつでも来なよ、ジダン」
 口ひげを揺らす彼と握手をする。
「俺とこの舞台はいつでもお前を待ってるぞ」
「ありがとう」
小さな荷物を一つだけ持って、俺は外へ出た。




 世界はすっかり夜に染まって、深呼吸したくなるような森閑とした縦だった。
 見上げる都会の空に星は見えないが、失望することなどはない。
俺は星の在処を知っているのだ。
 そうとも。
感傷主義を嗤え。形式主義を嗤え。
星は今、無数の女達の爪で光っているじゃないか。手に届かない中空の彼方でではなく、カフェの中で、カーテンの隅で、誰かの腕の中で。
 星はどこにも行きはしない――――。
どこにも行きはしないのだ。
 形を変え、色を変えてもあの輝かしい星々は必ずどこかに灯っている。だからこそ俺は向かい風を受けながらもどこまでも晴れ晴れと、安心して両手を振って、歩いていけるのだ。




 バス停の近くに、ほっそりとした影が一つ立っていた。今日十四になったばかりの彼女は背筋をぴんと伸ばし、まるで世界を相手に戦いを挑む人のようにそこで待っていた。
 ポケットの中で爪先にプレゼントの小袋が当たる。手はしかしそこで止まった。
 俺達はおかしな距離を保ったまま立ちつくし、互いに無言で見つめ合った。



 本当に奔放なのはこの夜風だけなんだろう。自由になったその瞬間からもう、新たな喪失と束縛は始まっている――――。
 けれど恐れることはない。
ゆっくりと、俺は昔馴染みの元気な笑みを取り戻していった。
好きなだけぶつかり、思う様喪失しろ。
彼女と同じ年頃の少年のように。







星はどこにも行きはしないのだ。








Jidan Series Fin
Thankyou so much for all !



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01.05.26