** 妹にさよなら **




「ジダン、あたしのこと愛してる?」
と、妹が聞く。
 俺はじんわりと微笑んで、
「当たり前じゃないか」
と答える。
「お前のことを愛しているよ」
 妹。
幼き時を同じに過ごし、やがて道が別れようともどうしても肉親である妹。田舎町に住み、今や若き主婦となった妹。
 お前を愛していないはずなどないじゃないか。お前は昔は、そんなことを俺に聞きはしなかった。
 ごとり、と音がする。振り向くと、開け放たれたリビングのドアの側に立つ、ピエールと目があった。彼は妹の夫で、まじめな労働者だ。地元の自動車工場に勤めている。
 そのいかつい肉体と、いささか言葉の足りない鋭い目が、何か文句でもあるかのように、我々を見た。
「なあに?」
と妹が言ったが、彼は答えず、玄関へ消えた。
 居間には時計の針ばかりがこちこちと音を立てて、妹が小さくため息をつく。その横顔が疲れきっていた。
「なにもあんな風に黙っていることないじゃないの。そう思わない?」
彼女は言う。
「そうだね」
と、俺は答える。
「もう少し思いを口にしてもいいかも知れない」
「…そうなのよ」
 無理やりに笑って、彼女は指を組み合わせた。
「ジダンの恋人がうらやましいわ」
「なんで」
「彼女は少なくとも言葉が足りないって言う理由で、イライラさせられたりしないでしょう」
「そうかもしれないけど俺達は、いささか頭で付き合いすぎるようだよ」
「その方がずっと長続きするわよ、きっと」
 ミニ・バンがガレージを出ていくやかましい音がした。確かに、このように間接的な音で責められたのでは、繊細な彼女の神経はたまるまい。
「…私ちょっと疲れているの」
 妹は右手で頬を押さえる。
「いいよ」
吃驚したみたいに、彼女は顔を上げた。目があったので、俺はにっこり微笑んだ。
「疲れていてもいいんだよ」
 妹も微笑んだ。幸福に細くなる視界に、きっと彼女自身も驚いたに違いない。あまりに、久しぶりだったので。
「ありがとう…」
 妹はそう言って下を向くと、祈りを捧げる乙女のように掌と掌を合わせ、唇に当てた。





 ひゅうひゅうと口笛の鳴るビスケーの潮風が吹き付ける丘の上、墓地は寒々とうずくまっていた。
 祖母の墓は質素ながらも趣味のいい造りで、ここにも妹の手際の良さが刻まれている。俺が帰るというので、逃げ出すように親戚の家へ行った両親や、彼女の夫の一家にはこんな真似は出来まい。
 俺は帰省してから毎日夕方に散歩をしていたが、必ず一度は祖母の新しい住みかの前へやって来た。そうやってしげしげ眺めるほど、彼女の優しさに触れる気がした。
 コートのポケットに手を突っ込んで歩き始めた時、墓場の出口に大きな影が立っているのに気がついた。あのくたびれた緑色のジャンパーは、…ピエールだ。
「やあ、ピエール。仕事は終わりかい」
 彼の方は愛想がない。ただ、それも持って回った嫌みな無愛想ではなく、山だしな素直な感情表現だ。
「…あんたに聞きたいことがある」
「なんだい?」
「…キジ鳩亭で、話そう」
「いいね、寒くなってくるからね」
 言っているそばからつむじ風が吹いて、俺と義弟の間に横たわる不自然なすき間をすり抜けていった。




 「あるところで聞いたんだが」
と、ピエールは放りっぱなしの語尾でウィスキー臭い息を吐く。この臆病な坊やはアルコールの勢いをかっているのだ。
「あんたは、前の母親の子どもだってのは、本当かい」
「どういうことかな」
 俺が笑うなどと思わなかったらしい。ピエールは一方的な罪悪感を背負い込んで目を逸らした。
「…ふん、別にどうってこともないさ。…ただ、あいつとは、母親が違うのかい」
「父親は一緒だ。俺達は兄妹だよ」
「そんなことは知ってる」
 だが納得はしていないのだろう、ピエール?
俺は性格も悪く、笑った。
「だが…、あんたはその…、あいつを…。ええくそ」
 そこから先、彼に言えるとは思えない。恐らく考えることにすら罪悪感があるだろう。あまりにも正直で、あまりにもねじけていない嫉妬は、高速は走れどもカーブを曲がりきれないのだ。
「もう一杯いるか? 飲めよ」
 俺はウィスキーのおかわりを頼む。どんどんと義弟に飲ませる。悪魔のような笑みを浮かべ、赤い舌の自分の残虐を知らぬことではない。
 本当はお前のような男に―――、俺の妹は相応しくないんだ。
 とうとう前後不肖になって、ピエールが叫んだ。
「俺はお前が大嫌いだ!」
周りの面々がびっくりして振り向いた。俺は目配せするような笑みを酒場中に振りまいて、彼等に見ない振りをしてもらう。
「お前とあいつが一緒にいるのを見るとムカムカする!」
どん、と真っ赤な拳を俺の前に叩きつけた。
「そうかそうか。そりゃあ毎日悪かったな」
「消えちまえ! お前なんぞさっさとパリにかえっちまえ! くそったれの三文役者が!」
「色々と誤解は在るようだが、悪意だけはちゃんと伝わってきたぞ、ピエール」
 俺は眉を歪め、嘲笑する。
「知恵よ、呪われ給え。俺が何も知らないオイディプスならその酒臭いお前の鼻、いくらでもあかしてやるのにな」
 相手に俺の言葉の意味は通じなかった。ただ、酔った頭にも俺と口喧嘩する不利は知れたらしい。
 身体ばかりが大きく哀れなおつむのピエールは、ぶつくさ言いながら「キジ鳩亭」を出ていった。俺は残ったグラス一杯を二十分もかけて空にすると、勘定を頼む。
「ピエールの奴、大丈夫かね」
 おやじが本気半分に言った。真っ白な前掛けに財布をしまいながら、彼の消えていったドアの方をなんとなしに見やる。
「最近、毎日のように飲んでるんだぜ。一人でまずそうに二時間も三時間もさ」
 俺は眼鏡の下から指を入れて、少々暖かくなった目元を一度さする。
「依存しているくせして酒がまずいなんて贅沢な野郎だ」
 とことん俺は意地悪だった。呆れたような親父の視線を背中に受けながら、生ぬるい酒場を出る。
 ピエールの姿は見あたらない。俺は肩をそびやかし、波の音が響く貧弱な草原を突っ切って、家へと戻った。



 家に戻ると…、妹がソファで飲んでいた。
「…おかえり、ジダン」
俺は返事もしないでゆっくりとテーブルに近寄ると、ブランデーの瓶の首をつかむ。まさか一気に飲んだわけでもないだろうが、中身は四分の一まで減っていた。
「…体に悪いよ」
 彼女は髪の毛を顔に巻き付けるようにして肘を着いていたが、俺の言葉に顔を上げる。
「体を大事にしてどうするの?」
 妹。
美しく聡明で壊れやすい奇跡のような妹。
「誰も私のことなんか心配してくれないわ…」
子どもの頃と同じ瞳をして、けれど大人の涙を流す妹。
「心配しているよ」
 瓶を後ろの電話台の上に遠ざける。それから俺は、上着を脱いで彼女の隣に座った。
 ゆら、と偶然を装うようにして、妹の頭が肩に触れた。黙ってその右肩に手を回す。
「…ピエールがね…」
ひどく泣いた後のような、掠れた声で妹が言った。
「…最近、すごく遅く帰ってきて…」
鼻をすする。
「なんの話も出来ないの…。なにひとつよ。…カーテンを買い換えたいのに…、柄の相談も…。新しい保険契約のことも…、……子どものことも…」
 相変わらず、居間には時計の秒針が嫌がらせのように響いていた。
 お前は、時計の針が、止まってしまっていた方が良かったかい? 永遠に、幼いままが良かったかい?
「……私、子どもが欲しいの……」
と、彼女が言った。
「でも、彼は分かってくれないの…。お金がかかるとか…、そんなことばかり…! 何も分かってくれないのよ……!」
 目元を覆った手から、涙が流れ出す。
「確かに彼は…、そんなこと分からないかもしれないね…」
 涙でふやけた声で、妹は言う。
「ジダン、わたし…。私、…失敗したの…?」
 美しい虹彩。俺の血に流れていない、水色のまなざし。
「失敗…、したのかもしれないね…」
ぎゅ、と妹の頭を抱き締めた。
「けれど俺は、ここにいるよ…」
 全てを知ったオイディプス。両目をえぐり出し。けれど孤独な夜には今一度、母と寝てみたくなったりするのだろうか?
 妹がもぞ、と両腕の中で動く。
妹。
―――妹。
 この世でもっとも近しい女。
もっとも近い肉体を持つ女。
…だから、お前を愛していないなんてはずがないじゃないか。
 びく、と妹の手が動いた。
俺はゆっくりと彼女を離す。予想はついていた。
「ピエール…」
 月明かりを浴びて蒼白のピエールは、居間の入り口で凍り付いたように彫刻になっていたが、やがてぎごちない関節を軋ませながら、階段の方へ消えた。
「…あたし…」
 額を押さえながら、彼女が呻いた。
「気分が悪いわ…」
「寝るんだ」
 立ち上がって、俺は毛布を彼女の肩に掛けた。それからふらつく彼女を二階へ誘導して、部屋に送り届ける。
 夜明けまで後、二三時間程度だった。
俺は少し迷ったが服を着替え、冷たい寝床へすべり込んだ。










 錆を吹き出す駅のベンチの金具は、座る度にぎしぎしと音を立てる。俺は鞄を足下に置いて、ベンチに一人で座る妹を見下ろしていた。
 列車が来るまでもう十分ほどある―――。
あの晩からずっと口数の少ない妹だが、今日は朝から、いつにも増して無口だ。
 日が昇ってもちっとも暖かくならない秋の風が、俺のコートの裾を持って、パリへパリへと引っ張っていた。
「…ずっと考えていたのよ」
 あと五分、と言うところで、妹は口を開いた。
「…もしも、あたしをパリに連れていってと言ったら…、ジダン、どうする?」
「………」
 俺たちはしばらくお互いを見つめ合っていた。決断を前にした恋人達のように。やがて俺は、微笑みを浮かべる。
「…いっちゃおうか? ここを棄てて、お前も」
「私のことを愛しているの?」
「愛しているよ」
俺は即座に答えた。迷いもなく。
「……」
 妹は苦い顔で瞳を閉じた。その頬に触れようとした俺の手をしかし、ぱちん、と弾き返す。
 そして、彼女はきっと視線を上げ、俺を睨み付けた。
「結局あなたは、いつも調子のいいことを言っているだけなのよ」
ばさばさばさ、と風が前髪を揺らした。
「その場その場で言葉を操って…、現実を煙に巻いているだけなのよ…! 私は」
鞄を持ち上げ、俺に突き出す。
「そんなあなたを信じて、一緒にパリに行くことなど出来ないわ」
 聡明で優しく繊細で、俺の自慢の賢しい―――


 そうだよ。
堪えきれない微笑が持ち上がってくる。
 いつかバレると思ってた。
お前の兄貴はいい加減で不誠実で、少し言葉が達者なだけのろくでなしだ。お前の現実をぶつける価値など、どこにもない男なんだ。
「…お前が血を流しながら話し合うべき男は、毎晩キジ鳩亭で、心からお前のことだけを考えながら飲めない酒を飲んでいるよ」
 喋ると唇が寒かった。だが、俺は多分このためだけに帰ってきたのだろう。言い切らなければならなかった。
「…お前がカーテンの柄や、保険や、赤ん坊のことを話す相手はそいつだけだよ。世界中に他に、誰もいない。
 …キジ鳩亭に、行きなさい。そして、彼の来るのを待つんだ」
 妹は躊躇を見せた。俺がもう一度頷くと、彼女は両手のふさがった俺の首に、力一杯抱きつく。
「さよなら、兄さん」
俺は逆巻く血の流れに目を閉じる。
 妹。
俺にもっとも近しい他人、妹。
お前を思うときにだけ、俺は欲望を離れる。
 劣情無しに抱き締められる唯一人の女、妹―――――。
 たぶん俺は世界で一番、純粋な愛情をお前に持っているよ。



 風に吹かれて踊るように見える彼女の後ろ姿を見送った。そして俺を故郷の風景から切り離すように、巨大な列車はやって来た。
「ジダン、また来いよ!」
 馴染みの駅員に手を振って、俺は列車のドアを閉める。
そのまま通路の壁に寄りかかった。
 動き出した窓の外、懐かしい景色の一切が真横へ伸び始める。俺は腕を組んでから、そっと吐息をついた。
 麗しく忌々しい、休暇は終わったのである。




Fin.

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