** いただきます **




 ミミはいつもの通り前触れもなく部屋の中に入ってきた。二回…、三回目からだったか、彼女は勝手に俺の部屋の合い鍵を持っていって、それ以来悪びれもせずに無遠慮に入ってくる。
 やけに急いた感じの足音に俺の方も慣れているので、振り向かないでも彼女だと分かった。
「勝手にバイト休んでんだもん、無駄足踏んじゃったよ」
 これは文句だが、責められる筋合いではない。
「一昨日からカンヅメなんだよ、仕方ないだろ」
「メールの一本もくれてりゃあたしの足が痛まずにすんだのよ?!」
「あ、それもらった」
 かしゃかしゃ、と俺はキーボードを叩き続ける。
「…あたしの足が、痛まずにすんだのよ…と」
 彼女は無視に弱い。次の瞬間、飛んできたショルダーバッグに、ディズプレイが斜めを向いた。
 俺は仕方なしに振り向いた。ミミは紫色のキャミソールに、股の浅いジーンズをはいていた。あの踵の高いパンプスが飛んでこなかっただけ、今晩は運がいい。
「続きを書かせて、くれないんでしょうか?」
 ミミは細い腕を忌々しげに組んだ。肉食獣の顎をぐっとひいて、俺と俺の後ろで瞬いているブラウン管をにらみつける。
「明日までに上げないと、次回公演はお流れなんだよ」
「謝ってよ」
 まるで話を聞いていない。
「勝手に人の部屋に入ってきてバッグ投げつけて、謝るのはあんたの方でしょ」
細い踵が絨毯を蹴った。
「謝れ!」
 けば立った哀れな俺の絨毯。合成繊維だけど高かったのに。
「ごめんなさい」
俺は頭を下げる。首の運動に近い。
「それで謝ってるつもり、どういう育ちよ!」
ぷい、とミミは身を翻した。
 取り敢えず離してくれたので、黙ってパソコンの画面へと視線を戻す。多分彼女は冷蔵庫へ行ったのだろう。お気に入りのパインヨーグルトは切れている。さて、どういうふうに飛び出してくるのか。
「あんた人間の生活しなさいよ! 冷蔵庫が空っぽじゃないの!」
台所から罵詈雑言が聞こえる。
「もう、食べられそうなもの何もないわ! ムカツクったら。使えない男!」
「俺はここ三日間君たちのために台本を書いてるんだ。そのお陰で買い物にも出られないの」
「言い訳しないでよ、どれだけ忙しくたって、あんたここ三日間トイレに行かなかったわけじゃないでしょ。単にサボってただけなの」
 それももらおう、と俺は喉の奥で呟いた。どれほど忙しくても…、トイレに行かない人がいるかしら…。
 ミミはしぶとく奥の方へ残っていたビールを見つけだしたらしい。それにピンク色のルージュをつけながら居間の方へ戻ってきた。
 椅子の右の肘置きに腿を乗せ、白く光るディスプレイをのぞき込んでくる。
「今回のは真面目らしいじゃない」
 機嫌はまあ普通になったらしい。ハイネケンの力は大したものだ。
「俺のはいつも真面目です」
「テーマは?」
「愛」
「だっさーい」
 ビールが苦いのか、幻滅したのか、彼女は露骨に顔をしかめた。彼女が立ったので、椅子が揺れる。
「だっさーい、かねえ…」
 手を休めないで呟いた。全く人の心に突き刺さる物言いに関しては彼女は天下一品だ。
「…でも、まあいいかもね」
 振り向くと、彼女は横を向いてビール缶をあおっていた。白い喉仏が音を立てて上下して、首までの金髪が電気にあたって光っている。
「そういうくっさいのが、ウケるんじゃない。結構、客って馬鹿だし。
 そっか、テアトル・シリスの次回作テーマは、愛っすか」




 俺は黙って作業へと戻った。後ろがいやに静かだと思っていたら、そのうちばっさばっさと衣擦れの音が聞こえ出す。
 俺はまた振り向いた。さっきから十行も前へ進んでいない。
「何してんの」
 ミミは、俺が二日もご無沙汰しているベッドの上にどっかと座り、ジーンズを脱いでるところだった。真っ白な下半身にショーツとペディの青がお揃いだ。
「食べるものもないし飲むもののこれで最後の一本だったし」
と、床の上でへしゃげているハイネケンを顎で指す。
「だから用事をさっさとすましちゃおうと思って」
「…用事?」
「何よ、いつもの通りじゃない。ね、はやくしよ」
 少しだけ首を傾けた。
「…今日はマジで山場なんだよ、ミミ。明日おいで」
「やーよ。あたし明日はバイト」
「じゃ、明後日でいいだろう」
「その一日の間にマリーやジュジュがやって来たらどうすんのよ。こういうの、早い者勝ちなんだからね」
 ディスプレイに目を移す。ブラックアウトしていた。
それで鏡みたいにミミの姿が映っていた。
 キーを叩いて画面を点しながら、俺は言う。
「ミミ、今回はね、俺と寝ても君に主役は回せないよ」



 ちょっと沈黙があった。
だが、ミミはすぐに勢いを取り戻す。彼女には実績があるのだ。いきなりこんな事を言われても、ひっくり返せると思って無理もない。
「何言ってんの。何であたしじゃダメなわけ?」
眉毛をかく。
「今回のヒロインは愛の分かる人じゃないとダメだからね」
 ぴしぴしっと、薄い氷の割れるように背後の雰囲気が不穏になってくる。
 そして、今度こそヒールが飛んできた。ディスプレイを庇った左手の甲に、スパンコールの痕が押しつけられる。唇を噛んだ。
「何偉そうに言ってんのよ! あたしはやるわよ! ずっとやってきたんじゃないの!」
 立ち上がってパンプスを拾い、ベッドの上に膝をついて立っている彼女を見る。
「今回は君では役不足だ。分かってるだろ、最近アンケートでも劇評でもマリーの方が評価されてる」
「そ、そうよ知ってるわよ!
 だからこそあたしががんばって盛り返さなくちゃいけないんじゃない! あたしが主役じゃないとダメなんじゃない!」
「ダメだ」
 断言してしまってから、俺は自分があんまり冷たい声が出せるので自分でびっくりしてしまった。
「…俺達は今、採算の合うラインぎりぎりまで来てる。もう甘えは許されない。ここから先は、今までのようにいい加減なやり方では済まないんだ、ミミ」
「いい加減て何よ」
「例えば君みたいな才能の乏しい女優がベッドで役を取るなんていう慣習はもうやめにしなくては…」
 靴はもう一つあった。
すんでの所で避けた俺の頭の斜め後ろで、ブラインドがその直撃を受けた。
「何よ! 恥知らず! 今まではずっとそうやってきたくせに! 今年の四月までは主役がやりたきゃそこへ寝ろって、そう言っといて八月になったらすっかり掌を変えてもうそういうのはやめよう?!」
「俺は一度も要求なん…」
ミミの激昂が先を遮った。
「分かった! マリーが昨日来たんでしょ! そんであんたは乗り換えたのよ、テアトル期待の、新人マリー・ブランちゃんに! あんなブス!」
 俺はため息をついた。
「来てないし、そもそも、俺は君に一度も」
「要求してなかったっての? 事実あたしを四度も主役につけてその度に抱いてたくせに? いかにバカな言い逃れしてんのか自分で分かってんの?!」
 ミミはベッドから降りて俺と向かい合った。仁王立ちして、ぴしりとシーツを指す。
「さあ、くどくどと言ってないでさっさとするのよ。あたし明日は早いんだから。そしていつもの通りに振る舞うの。これからもずっとよ、分かった?!」
 激しい顔をした、青い目のミミを見下ろして、俺はまた唇を噛んでいた。それから次に走る痛みのことを想像しながら、ゆっくりと首を横に振った。
「ダメだ」
 ぱしいん! と、音が天井に乾いて跳ね返った。片足でなんとかバランスを取って、よろけずに済んだ。
 ミミはズボンを小脇に抱え、部屋を出ていった。廊下ででも身につけるのだろう。
「わけ分かんないわよ!」
 怒りに震える声が階下からふらふらする扉に響く。
「今までのはなんだったってのよ!! バカ野郎!」
 俺がドアのところで見送っていると、腹のところに何か力一杯投げつけられた。高い金属の音を発して床に落ちる。
 銀色に光るそれは、スペア・キーだった。



 やっと静かになった部屋の中で俺は机に向かう。また省エネモードになっているディスプレイを起こして、仕事を続けようとする。
 左手に収めたキーの先が殴られた頬に当たって痛かった。
四度も主役につけて、その度に。
わけ分かんないわよ。
「そうね」
 かしゃ、かしゃと俺は打つ。
「―――だからあんたにこの本は無理なんだ」
キーが段々と、頬の熱で暖まっていった。
「主役は愛の分かる人じゃないと―――」



「あッ」
 がば、とパソコンへ屈み込む。
「今の台詞、いただきます」




Fin.

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