** 神の手、その悪意ある ***
街角で濡れたような目をした外つ国の老人から、アナタハ神ヲ信ジマスカ? と聞かれた。 本番一週間前という今日、俺は毎度のことながら焦っていた。芝居は今から幕開き当日までが山である。このせまい時間帯の中に、山のような仕事量が殺到して一日を24時間以上に引き伸ばすのだ。 劇団員もみな殺気立ち、役者と言わずスタッフと言わず終日ぴりぴりしている。無論、俺もだ。 だがまさにその嵐こそが、成功への重要な踏み石でもある。この時期にうまく立ち上がるかどうかで、芝居はその良し悪しが決まるのだ。 だから演出はいかに余裕がなくとも見た目だけは冷静に、さらに役者達のつんのめりを正確に把握し、建設的な結果へと導かねばならない。 ――――が。 「ジュジュ」 貴重な一日を空回りに費やした後、苦みばしった声で俺は彼女の名を呼んだ。さっさと帰ろうとしていた彼女は、変に落ち着き払った顔で振り返る。 それは、呼び止められた理由が分からないでぽかんとしている人間の顔ではない。何もかもを知っていてとぼけている、ずるい大人の目つきだった。 「何?」 「……」 いつからこいつはこんな小賢しい女になったのだろう。俺は彼女の前に立つと、台本を落とさないようにゆっくりと腕を組んだ。 「…ちょっと、話し合っておいた方がいいように思うけど」 彼女は俺の天辺からつま先までをじろりと一瞥した後、唇だけを動かして言った。 「そうかしら」 「…分かってるだろ。こんな稽古を続けられたんじゃ困る」 俺も大分疲れていて、忍耐力が落ちている。暴走しそうになる自分を押しとどめるように、額に手をやった。 「…本番まであと何日だと思ってるんだ? 一人の気分に振り回されているような暇は俺達にはないんだぞ」 「いいわ。じゃ、話し合いましょ」 あっさりと返事をされて、ますます不愉快だった。嫌だと言われるのも立腹だが、彼女には、一日怠惰だった自分を後ろめたく思うような神経はないらしい。 彼女は俺をおいてさっさと歩き出した。舞台から一旦抜けて、廊下へ出ると、中央にある小さな階段を上がり始める。どうやら音響調光卓へ入るつもりらしい。 俺は防音が効きすぎて、押さえつけられているような感触を覚えるその部屋の空気があまり好きでないのだが、仕方がない。確かに遠慮なくやり合うためには、その部屋は悪くはない。 中は誰もいなかった。ジュジュは俺よりかなり先に入って電気をつけると、軋む回転椅子に足を組んで忌々しい演出の入ってくるのを待っていた。 「…重要な公演の重要な役だ。分かっているんだろう」 俺はちょっと歩いた間にやや冷静さを取り戻していた。静かに切り出すと、ジュジュは肩をそびやかした。 「まあね」 気のない返事に、俺は黙る。落とした視線の先には、彼女の組まれた二本の足があった。 …上質なストッキング。外反母趾にならない、オーダーメイドの皮靴。―――この辺りは相変わらずだ。金に困らず、食うに困らず、情熱は常に善き健康と人生とに費やされる。真っ直ぐに。 その趣味は厄介だ。しかし、彼女は何ら複雑な人間ではなく、今まで遠回しにはぶてたり、拗ねたりすることはほとんどなかった。 こんなふうな、時間のかかる各個のフォローが必要な人間ではなかったはずだが…。 「…体の具合でも、悪いのか?」 俺の問いに、彼女は喉をのけ反らせて大笑いを始めた。 「…ご愁傷様」 やがて、呆気にとられる俺に涙に濡らした眼差しを向けると、彼女はようやく返事をする。 「私は見事な健康体よ。いつもの通りね。 そして今回の公演が劇団にとってどれほど重要なものかも分かってるわ。大舞台ですものね」 彼女の言うとおり、今回のはテアトル・シリスのメジャー・デビューとでも言うべき公演である。ここも今まで使っていた劇場よりもキャパは広いし設備が良い。公演日数もチケット数も増え、一度に動く金の規模が飛躍している。 だからこそ、みんないつにもましてイライラしているのだ。慣れない大きな劇場で行う、緊張の公演。稽古の段階で徐々に体を馴染ませて行くとは言え、本番の幕が閉じるまでこの焦りは消えないだろう。 ところが、ジュジュの最近の態度は―――――そういった苦難から理解できるような類ではない。 寧ろ一人だけその潮流から離れ、冷たく覚めた物腰で機械的でやる気がなかった。 台詞を読むことは義務だから仕方がない。だが自分がいい芝居を作れようが作れまいがそんなことは、どっちでもいいという、そんな感じなのだ。 「…『ルイーズ』が真剣に花を守ってくれないと、芝居全体が緩んでしまう」 彼女の役ルイーズは一人貧弱な花壇を営む孤独な女である。花壇とは言ってもその中味はほとんど雑草で、立派な花壇を作り上げている他の登場人物は彼女に雑草を抜き、立派な種を植えるべきだと諭す。 「彼女は雑草の花を見つめ続けることを選んだ女だ。それはそちらの方が真実であるからに他ならない。ここが観客に伝わらないと、この芝居をする意義自体が分からなくなってしまう。ところが君は…」 「どのみち」 横を向いたまま黙っていたジュジュが、ふいに口を挟んだ。突然に低い、暗い声だった。 「この芝居の意義なんてもう失われているのよ」 彼女が口を噤むと、小部屋の中はしんと静まり返った。これだからこの場所は嫌いなんだ。舞台には高い天井に吸い込まれていくような開放感があるのに、この箱部屋では沈黙に押しつぶされるような気がする。 「…どういう意味だ?」 ジュジュは俺の質問には直接答えず、右手首を翻すと時計を見た。 「そろそろね。…ジダン。ドアの側に立って、窓から廊下を見てご覧なさいよ。言っておくけどドアを、開けたりしては駄目よ」 訳が分からなかった。 だから逆らおうなどという気も起きなかった。 飲み込めないまま、椅子から数歩の、扉の前に立つ。丁度目の高さのところに小窓があった。おなじみの特殊なフィルムが張ってあって、こちらからは外が見えるが外からは銀色に照り映えているだけだ。 当然、廊下はがらんとしていた。稽古が終わって、みんなそれぞれの用事のために劇場を立ち去っているのだ。 何ものもないことに俺は寧ろほっとしながら、後ろにる不可解な女に文句を言おうと振り返った。 「おい、別に何も――――」 その瞬間、目の端に何かが掠めて俺は視線を外へ引き戻した。 廊下の一番奥だった。俺は反射的にドアの端まで行って、もっと広い角度でそれを見ようとする。 二人の人間が壁際に立っていた。一人は壁に背をつけ、もう一人はその前を塞ぐように立っている。彼等の視線は絡み合い、話している内容など無論聞こえはしないが、何事か低い声で囁き合っていた。 親密に組み合わされた二つの掌。 そのどちらにも、見覚えがある――― 俺は恋愛映画のシーンを見せられているようだった。だから、次に何が起こるかよく分かった。そしてそれを見届けないために、ドアから離れた。 痺れた頭で椅子の方へ歩くと、ジュジュの責めるような目が俺を捕らえた。 「―――知ってたんでしょ」 立ちすくんだとき、遙か遠くの方で何か水鳥の羽音のようなものがしたように思った。 「そして見ない振りをしていたんでしょう。 いつも変わらずフェイは親友、マリーは恋人よね。その二人があなたを裏切っていてもあなたは何も言わないのよね。いろんなことが、おじゃんになるから。 …その小賢しさで、あなたは一体私に何を言うというの。お金を払ってやってきたお客に『真実の庭を守れ』とでも言うつもりなの? 私の気持ちが分かる? 公演を大事に思っていたからこそ、ここに残って練習をしてたのよ。そして私が見たものと言えば何?」 ジュジュは立ち上がった。初めて苦しげな顔をしていた。 「…昔、あなたは私の無知を咎めて責めたでしょ。ところがその当のあなたが、今度は知らない振り…。今もそう、視線を逸らしたわね。 あなたは無知に逃げ込んで安堵して、自分を欺き続けている。そのくせ毎日取り澄ました顔して理想を説きつつ、私たちにだめ出しするんだもの。 もう…」 くしゃ、と彼女の頬が笑いに歪む。 「おかしくっておかしくって……! これを舞台にかけた方が絶対受けがいいわよ、ジダン!」 ◆
街角で濡れたような目をした外つ国の老人から、アナタハ神ヲ信ジマスカ? と聞かれた。 ◆
それでも、初日の幕は開いた。 芝居を何本も打ってきた経験があるから、道は誤らなかった。 俺は努めて何も考えないようにしながら、技術的に芝居を組み立て続けた。これ程効率よく芝居を創り上げたのは初めてかも知れないな、とフェイが漏らしたくらいだ。 だから皮肉なことに、芝居の完成度は妙に高かった。俺は音響照明、細部に至るまで完璧に考えつくし、あらゆる手をつくしてぎりぎりまで最善を追求した。 …だから、許してくれよ。 袖で腕を組みながら俺は考えていた。舞台は最後の一場を迎え、マリーが長台詞を蕩々と聞かせている。後ろではジュジュが、庭を抱え込んでぐったりと死んでいた(そういう役なのだ)。 その青白い頬を見ながら口元を覆う。 ―――ジュジュ。 きちんとやったよ。精一杯。これまでになかったくらい。 分かっただろう。だから君も、結局舞台に立ってくれたんだろう。 …今度から、今度からはこんな事態にならないようにする。だから今回は…、許してくれ。 …それにしても、どうしてジュジュにばれたのだろう。他の劇団員でも誰でもよかったのに、なぜよりにもよって彼女だったのだろう。 思えば怠惰はいつも、もっとも知られたくない人間にばれる。 ひどく昔、義母に自慰を見つかったときの恥ずかしさを思い出した。あの時も、どうしてよりにもよって、と思ったものだ。 目を閉じると、老人の問いが蘇った。 ――――アナタハ神ヲ信ジマスカ? 応。 だが私は慈善の神ではなく、掌の上に世界を載せた神の悪意を信ずる。足を引っかける意地悪いその御手に躓いたときに初めて、俺は自分より大きなものが存在しているのを知るのだ。 …なんてお粗末な信仰告白なんだろう。 自嘲して目を閉じた瞬間、一斉に夕立でも始まったかのような音に、俺はびくっとなる。 それは――――拍手。 拍手だった。 地が割れんばかり、お義理ではない本物の拍手だった。 俺は役者達に続いて最後に舞台へ挨拶に出る。人々が自分に向かって作り出してくれる心地よい洪水の中で、あの日からずっと開いたままだった自分の傷が癒されていくのを感じた。 カーテンコールをこんなに楽しく感じたもの、これが初めてだったかも知れない…… 客は引けた。 ほっとほころんだ雰囲気の中で、明日の準備と後かたづけが行われる。その時、フェイがやって来て俺の袖を引いた。 「ジダン、楽屋にアンヌちゃんが来てるよ」 彼は細い目でにこにこして、 「今、マリーが相手してるけど。いやー、しばらく見ないうちに大きくなったねえ」 「お前は親戚のおやじか」 機嫌良くつっこんで、俺は楽屋口に下りる。 アンヌは、いつもよりもやや大人っぽい格好をしていて、俺もフェイと同じような印象を持った(もっとも俺は本物の「親戚のおやじ」だ) 。 彼女は楽屋の中には入らないで、廊下で着替えたマリーと立ち話をしている。まだ役者の出入りが激しいので、彼女らはそのつど、道を開けてやらなければならなかった。 「やあ、アンヌ! いらっしゃい」 笑顔の俺に、彼女はやっぱりどこか大人しい微笑みを見せた。勿論、こんなところでいつものように飛びついてくるわけにも行かないだろうが。 「わざわざ顔を出してくれて嬉しいよ。立ち話もなんだから、楽屋へ入らない? みんな歓迎するよ」 「私もそう言ってるんだけど…」 と、マリー。 「ごめん、ジダン。あたしそろそろ家に帰らなきゃ。言われた門限ギリギリなの…」 「あ、そうか…」 彼女の家は厳しいのだ。 「じゃあ、バス停まで送るよ。それまで話そう」 「うん…。ありがとう」 俺とアンヌは連れだって歩き始めた。ちょっと離れてマリーが続く。 「どうだった? お芝居」 階段を上りながら俺は尋ねた。するとアンヌは口ごもる。 「…うん。良かったと思うよ」 「アンヌ?」 俺は後ろのマリーをちょっと見た。 「遠慮しないでいいよ。マリーは別に気を悪くしたりしないから。何か悪いところがあったら、教えてよ」 彼女はそれでも長い間躊躇っていた。だが言って帰りたくもあったのだろう。やがて劇場の前へ出た頃、抑えた声で口を開いた。 「…あのね、本当にいいお芝居だったと思うの。 装置も、役者さんも、音楽とか照明とか。転換もすごく早かったし…話も面白かった…、みんな拍手してたし……」 アンヌが俯いて、瞳が見えない。いつも自分に真っ直ぐに向けてくれていた水色のあの虹彩が。 「…でも…、あのお芝居の中味…っていうのかな。テーマ? …みんなそれを守ってお芝居をしていたけど…。でも…、そう言いながら―――本当は誰一人、それを信じていなかったでしょう」 ばさばさばさっと、鳩の翼が波打った。 少女はやっと俺を見上げた。眉に元気がなく、故郷を失った人のように悲しげだった。 「…あたしジダンは、…嘘をつかないと思ってたんだけどな…」 街角で濡れたような目をした外つ国の老人から、アナタハ神ヲ信ジマスカ? と聞かれた。 ここでいいよ。うん。 と言って、彼女は我々と強引に別れた。バス停の方へ行くその後ろ姿に釘付けになっている俺の腕に、マリーが追いついてくる。 「…どうしたの?」 彼女には話が聞こえなかったらしい。俺はただ、 「いや…」 と返事して、劇場の方へ体を反転さしたが、耳に鳥の羽音がこだまして消えなかった。 ―――二人で歩いて入り口まで戻ると、そこにすっかり着替え終えたジュジュが待っていた。 「ジダン」 いきなり彼女は言う。 「私、この公演が終わったら劇団辞めるから」 マリーがびっくりしているのを左に感じながら、俺は頭を振った。 「それには及ばないよ、ジュジュ…」 肺に空気を入れると肋骨が痛かった。 けれど今や無知ではなくなったジュジュと、天にまします意地悪な神のその愛に、俺はやっと一つの誠実な答えを、打ち返す。 「劇団は、解散する」 ――――打ち返す。 Fin. |
This novels is dedicated to Mr.Itakyon.
01.05.13