** 問題じゃない **




 いかに距離をとらなくてはならない相手だとしたって、泣いているのを放っておくわけにはいかないだろう。
 何かしら心が動いて―――――、泣いている理由を尋ねたにしても、そう…、大した問題じゃない。




 ミミは、迂闊な俺が取りに戻ってきた時計の側に座り込んで泣いていた。二時間も前に稽古が終わった舞台の上は、既に照明さえ切り替わって、乏しい蛍光灯だけが青白い光を落としていた。
「どうしたんだよ」
 努めて冷静を保ちながら舞台へ昇る。が、彼女には近寄らないで、奥に置いてある練習用の大道具の間を、ぶらぶらと歩く。途中でその行為の不細工に気が付いたが、今更やめるわけにもいかなかった。
 ミミと顔を合わせたくない。それは多分、彼女も同じだろう。
 一週間前だったか、俺は彼女に新しい男が出来たとフェイから聞いた。だから本当はからりとした態度でお互いに大人らしく取り繕って、仲良くすればいいのだが…。
 舞台袖にある大きな時計は、午後七時二十分を指していた。その足下をピンで釘付けにされた長い分針と短い時針。男女の姿に似ていると誰かが言っていた。
 あんなふうに一時間に一度、重なり合えればしめたものだと―――。



「あたしはこんなにも」
 ミミが言うので振り向いた。俺の位置からは、彼女の小さな背中が見える。
「あなたが恋しいんだから、もっとあなたも本気になってよって。そんな風にずっとずっと思ってたの」
 彼女の足下に俺の安時計が転がっている。その秒針が動く規則正しい心音が、劇場中に響いている気がした。
「愛してるんだから。愛してるんだから。愛してるんだから。ってずっと言い続けて、どんどんその思いで満腹になっていったの。
 それで、相手に愛されないのは自分の気持ちが相手に全然伝わっていないからだと思ってた。
 なんて頭の悪い男なんだろう。なんて冷たい男なんだろう。それとも誰かが意地悪してるの? 猛烈に腹が立ってあたし、泣けてきちゃった」
『あなた』って…、誰?
 …いや、いいさ。
俺は頭を振る。
 どっちにしろそんなことは、大した問題じゃない。今は自他の間に横たわる、行き違いについての話なんだから。



 足音を立てないようにして、俺はまた歩み始める。彼女の背中を巡るように、上手から下手へと。
「そうか」
「うん。…でもね、続きがある」
「ふうん?」
「うん。…あたしさっきもずっと同じ様なこと考えて泣いてたの。
 …でも突然、ホント突然…、あたしが愛しているものはあたしだけなんだってふっと分かっちゃった」
「……」
 不覚にも、俺の足は止まった。彼女の真横にあたる位置で。そして彼女を振り返った。ミミは美しい横顔をしている。
「…そうなんだよね、結局。あたしが辛く思っているのは自分の寂しさそのものなんだもの。あたしは自分の愛情には価値があって、絶対報われてしかるべきなんて思ってるんだもんね」
 立てた膝の上に腕を組む。
「…そうか。本当はあたし、あたしのことだけが大事なんだ。
 …だからなんだね。だからあたしは愛されないんだ。こんなことを考える女だから愛されないんだ。
当然なんだ。仕方がないんだ。
 なんかどんどん謎が解けていって、解けていく度に涙が出てきて、前よりも全然泣けちゃって。あたし子供の時みたいに大声を上げて、泣いちゃった」
 多分、俺は難しい顔をしてたんだろう。
ミミはちょっと照れくさそうにこっちを見たかと思うと、すぐに視線を戻す。そして涙に容易い両目を腕に埋めた。
「……ごめんね、ジダン」
 壊れかけの声が言う。
「長い間、ごめんなさい」
「……」




 俺は自分から結界を破るようにして、一歩、二歩と近寄った。そして音もなく泣いている彼女の前に、しゃがみ込む。
「そう言う口でどうして君は――――」
 このかわいくてたまらない馬鹿な女の髪の毛に触る幸福。それは今では、俺のものではないはずだが。
「あたしは寂しい、だから抱き締めてくれと言えないんだかね」
 ミミは顔を上げた。真っ赤になった両の瞳から、不釣り合いなほどきれいな涙だ。
 この不器用で下らない女を、子供のように抱き締める喜び。
それは今、俺のものではないはずだが。
 だがいいじゃないか。彼女と俺は今確かに重なり合った。只今それ以外のことは…、そう。
大した問題じゃない。




 彼女の肩越しに目を当てると、時計はその時、午後七時三十七分を差していた。




Fin.

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