** 肉体が残る **




 いかに激しい言葉といえども、一時間も経てば雲散霧消してしまう。紙の上に記録しない限り、記憶に残る言葉の数は全体に発言している量から考えれば、実に僅かだ。
 だからこそ俺達は気軽に軽口も言い合えるのである。かのキリストだって、死後自分の言行録が人類の教書として出回ることを知っていたら、ひどく気苦労だったことだろう。
 言葉は流れていく。文字にしない限り、発言は消えていく。そうなのだ。おばあちゃんが昔何を言っていたか逐一覚えているやつがあるか。
俺は覚えていなかった。





 その日は少し神経質になっていた。
霧雨が降って部屋はじとじとしていたうえに、まだ寝床にいた朝五時に電話が鳴り響いて、寝ぼけた頭に祖母の死を告げられた。
 ぼさぼさの髪の毛のまま受話器をつかみ、俺はしばらくぼんやりしていた。なんのこっちゃ。
 もう祖母とは五年近く会っていない。死んだとか言われても、今更…。全く釈然としなかった。
 どうせ葬式にはいけない。親も別段来て欲しそうではないし、重要な公演があるのだ。行くことはできない。
 で、俺はこれからどうすべきなんだ。思い出に耽って泣いてみたりするべきなのか?
 ようやくのろのろと受話器を置くと、俺はまたベッドの上に倒れ込んだ。天井のシミを眺めながら、がんばって祖母の顔を思い出そうとしたが、どうもうまくいかなかった。
 そんな行為に意味があるとも思えなかった。どうせ義理でやっていることだから。
 しょうがない。次回公演のパンフレットに「亡き祖母に捧ぐ」とでも加筆しよう。それでいいだろう。それで充分じゃないか。
 気がつくと、既に朝の十時を回っていた。いつ眠ってしまったのか記憶がなかった。









「どうも、君はいまいち弱いんだよな…」
 副演出が太い腕を組んで嘆息する。
「どこが悪いとは言いづらいんだけどね」
 その前で十八歳のキキは真剣な顔をしていた。素直な子だ。
「私には…、無理なんでしょうか?」
 俺はカフェのテーブルに肘をついて、ぼんやりと二人を見ていた。早朝変な時間に起こされたせいか、昼になっても頭にかかった霞が晴れない。
「そんなことはない。君はいい役者だ」
と、副演は首を振る。キキの問いかけるような目が来たので、俺は黙って二三度頷いた。
 キキは確かにいい役者だ。いい声をしているし、頭のいい肉体を持っている。真面目で努力も勉強も惜しまない。これからどんどんよくなっていくだろう。
「ただ今回のは、君が今までやったことのない役だからかなあ」
副演出はそういってカフェに口を付ける。
「…演技をしているっているのが見えるんだよ。あれは客に伝わってしまう。その対策を考えよう」
 俺は頬を両手で挟み、両目を閉じた。ゆるみがちな意識を集中しようとする。
 キキは実際は何役もやる。だが、副演出の気にしている役は非常に破天荒なすさんだタイプで、不道徳でありながらパワフルでなくてはならない。
 彼女は破け切れていなかった。必死に演技をしているのだが、突き抜けていないのだ。あと少し、もう少し、といった部分をうろうろしている。
 つまり簡単に言うなら本物っぽくないのだ。彼女が完全に役を消化し得ていないことが、見ていて分かってしまう。重要な役なだけにそこが問題だった。
「…おい、ジダンはどう思う」
 副演出が振ってくる。俺が寝ているとでも思ったのだろう。まぶたを開けた。
「シェリー(役名)のリアリティが、キキの手に負えないのかも知れない」
 一本気なキキの茶色い瞳がこっちを見る。頭の悪い子ではない。分かるはずだ。
「シェリーは十代ながら無軌道な生活をしている。気に入った男とはもう何も考えずに寝てしまう。がつがつしていて、人肌に飢えていて、先のことを見ることすらしていない。つまり愛情の浮浪者だ、その日暮らしの関係を重ねに重ねる。
 その生活を、君はもう少しリアルにイメージするべきだろう。とは言っても君は真面目な人だから限界があるんだな。…こういうのがあるから、参考にしてみてくれ」
 俺は心当たりのある映画や、本の名前をいくつかキキに教えた。几帳面に手帳に書き付けたものの、彼女はやはり自信がなさそうだった。
「自分の想像力の貧しさが恨めしいです」
「…まあ究極なことを言えば、絶対に分かるわけがない人格を理解しなくちゃいけないんだからご無体この上ないと言えないこともないよな。
 あばずれ女の気持ちが、清純な女性にわかるわけがないんだもの」
副演出がちょっと笑う。
「…だが、そんなことを言ってギブアップしてたらこのお仕事は出来ない。出来るところまでがんばってくれ」
「はい」
 彼女は俺達よりも一足先に劇場に帰った。その後ろ姿を見送りながら副演出が呟く。
「キキは焦っているね」
 無理もない。今が一番ピリピリした時だ。 明日は公開リハーサル、そして三日後には本番が、俺達を待っている。
 彼女が突き抜けられるかどうかは、泣いても笑ってもここ三日にかかっているのだ。









 よかったよ。君のテーマは年々深みを増し。すごく面白かったわまた見たいわ。っちゃって。さすが今波に乗ってることだけは。感動して泣け。とにかくよかった。 よかった。
よかった。 よかった。
よかった。




 吐き気を催して俺はロビーを抜け出た。
リハーサルは無事終了し、今は来てくれた評論家や役者、スタッフを集めてロビーでちょっとした立食パーティが開かれている。
 どんなに飲んでも人前ではかつて酔ったことのない俺だが、どういうわけか今夜はひどく気分が悪くなって、口元を押さえながら階下のトイレへと向かう。
 もっとも、評論家連中と付き合うのはいい気分じゃない。俺は褒められるのがいやなのだ。褒められることによって必ずどこか、自分が殺されていくような気がする。乱暴な言い方をすれば、けなされる方がまだましだ。
 大体、あの人種はあまりに言葉を無責任に使いすぎる。彼等に「よい」と言われて必要以上に持ち上げられたために、一体何人の才能ある演劇人が、むざむざ腐れ落ちていっただろう。
 彼等は思うままに放言し、その後始末は決してしない。エースに飽いたら次はジャック。口を開いて待っていれば、代わりはいくらでもいるのだから。
 …だめだ。どうも今日は本音が暴れている。いつもならこんな風に取り乱してパーティを抜け出したりはしない。愛想良く相手の批評を聞き流して回るくらいのサービスはするのだ。
 目を閉じると今更思いだした祖母の顔がちらつくし。 どうも最近、俺はおかしい…。
 階段を一段一段、まるで痴呆の老婆のように、のろのろと降りる。ゴム底の靴では足音もしなかった。
 ロビーの熱気から離れると、やや気分が良くなった。楽屋へ通じる階段には電気も灯っていない。窓から青い夜の色が落ちているばかりだ。
 ふいに、俺は奇妙な物音を耳にした。
…考えるよりも先に経験が脳を刺激して、女性の喘ぎ声だと分かる。
 俺は眉をひそめた。誰だろう。何もこんなところで、しかも今やんなくてもいいだろうに…。
 困ったな。俺は迷った。トイレに行くためにこのまま階段を降りていけば、アダムとイブに出くわすのは目に見えている。そんなものを見たくてたまらない年でもないし、野暮はいやだ。
 幸い吐き気も収まってきたし、ロビーへ戻るか。どうしようもなくなったら、劇場の外へ出よう。
 そう決めて歩き出したその時、くぐもるような男の声が耳朶を掠めた。
「ああ…あ…、……キキ…」




 鉄の手すりを握った指が凍り付いた。俺は愕然として、後ろを振り向く。そこには踊り場があるばかりだ。だが、そうせずにはいられなかった。
 俺はその声を知っていた。造形スタッフの一人で…、妻子持ちだ。 キキとはなんの交流もなかったはずだ。
 荒い息づかいは続いていた。俺はめまいのあまりに、階段から転げ落ちるかと思った。
 痺れる四肢を抱えるようにしながら、やっとのことでロビー前の廊下まで辿り着く。破けた安いビニールの椅子に、どっかりと、腰を落とした。
 冷たい両手で額を覆う。まぶたを指でなぞりながら、眼前に起こっていることを理解しようと努力した。
 キキは焦りのあまり、実に短絡な方法を実行したのだ。あの忌々しいシェリーに近づくために、必死ながらもなんてバカなことを始めたのだろう!
 …しかし、しかしそれに俺も無関与ではない。
「あばずれ女の気持ちが、清純な女性にわかるわけがない」
彼女は正にその言葉を負い、その言葉を身に纏い、そして下着を脱いだ。
冗談にもなりゃしない。
 俺は唇を噛みしめる
よかった。
よかった。よかった。
 …ああ。言葉が。…言葉が!
雲散霧消していくだけの、儚い音のはずなのに。それによって配列を変容させられた、肉体は残る。
 俺は評論家の言葉によって自分が否応なしに変化させられるのが嫌だった。そして今明らかに以前と違ってしまったキキの肉体と人生を前に、俺は一体何といったらいいのだろう。
 どうにも出来ない。そんなつもりじゃなかった。俺は責任を取れない。取り方も分からない。
 だいたい俺のせいじゃない!
そうじゃないか―――…!!
 俺は参ってしまった。祖母の死、リハ、社交辞令、営業、緊張、初日前。それに加え、今日のこれ。参った。もう全て投げ出したいような気分だった。
 俺は本当に大丈夫だろうか。一体このまま、ちゃんと本番を迎えられるんだろうか…。





 いつの間にか、隣にマリーが座っていた。黙って壁に背を付けて、前の闇を見つめていた。
「…俺は言葉を紡ぐのが怖くなってきたよ」
 まるで、ひどく泣いた後のように、低くて掠れた声が出た。マリーの横顔が少しだけこちらを向く。
「知らない間に俺の言葉で人の人生を狂わすことがあるのかも知れないと思うと。…俺にはそれの、責任が取れないのに」
 静かに、マリーはまた目を前へ戻した。その頬はどこか近づき難く、大理石の硬い触感だった。
「…社会で生きるということは、お互いの運命を間断なく狂わせ合うということよ」
 と、預言者のように彼女は言った。窓の外に月が出ていた。
「だから、それが嫌なら田舎へ行くか、喉を潰してしまうがいいわ」
 すっ、と音を立てて、彼女が立ち上がる。
「あたしはどこまでも自分の運命を狂わせてみるわ。ジダンもそうする覚悟が蘇ったら、またロビーへいらっしゃい」
 手を伸ばして、マリーの手首をつかんだ。力は入れていなかったので、彼女がロビーへと帰っていくのに応じて、またすぐに解ける。
「言葉はあなたにとって武器のはずよ。闘うべきはそうやって、下を向いている弱気だわ」
厳しい彼女は戻っていった。
 俺はちょっとだけ苦笑いした。なんだかんだとえらそうなこと言いながら、助けてもらっているのは俺の方だなあ。
 ―――自分が、祖母の死を聞いても無感慨だった理由が分かった。彼女の言葉は、もう俺を何年も狂わすことが無かった。
 だから、彼女はもう、何年も前に、死んでいたのだ。そしてこないだ、残っていた肉体がとうとう、亡くなったのだ。
 その虚無に。死体が死んだという訳の分からない報告に、俺は翻弄されていたのだ。
 あなたは言葉のない、無為な肉体になるの?
嫌だ。祖母のように死ぬのは嫌だ、マリー。
 だったら、既に流された血などにへこたれないでここへいらっしゃい。
「ふぇい…」
 呟いて俺は立ち上がった。そしてちょっと疲れの残る足を踏みしめながら、ロビーの赤い扉へと歩を進めた。
 どんな言葉でキキを叱ろう。そしてどんな台詞で立ち直らせて、初日の幕を無事にあけるべきか、と考えながら。
 なにせあと二日しかないのだ。せねばならないことばかり。そしてどうなることやら分からない。



 …でもねもし、つつがなく本番が終わった暁にはおばあちゃん、俺はあなたのお墓参りに、行きますよ。



Fin.

>> back >