*** 似たもの同士 **




 頭に積もった雪を振り落としながらバーへ入ったら、途端に眼鏡が曇って、人々がみんなお化けになる。手袋を外したりマフラーをひん剥いたりと忙しいので、自然に戻るままにしていたら、お化けの総大将みたいなのがレンズに映った。
「ジダン!」
「うわっ」
 雇い主である店のおやじさんである。
「何がうわっだ。泣きたいのはこっちだ」
「どうかしました?」
 やっと眼鏡を外してハンカチを当てながら俺は言う。
「半時間前くらいから中年のご婦人がカウンターで酔っ払って手がつけられん」
「…こんな時間に?」
と言ったのは、まだ午後七時にもなっていないからだ。
「アル中じゃないんです? 追っ払えばいいのに」
「それが…、ジロー夫人なんだよ」
 レンズを拭う手が思わず止まった。
「はあっ?!」
「だから困っているんだ。どうにかしてくれ」
「どうして俺が…」
「お前、世話になったんだろうが」
 太い手で、どん、と背中を叩かれる。
「俺だって夫人は大好きなんだ。慰めてやってくれよ。この雪じゃ、店はそんなに混みゃしないんだから」
「……」
 冷たい眼鏡を鼻の上に戻すと、ようやく視界が明瞭になった。おやじさんは目の前で、実に痛々しい表情をしている。俺達はお互い渋い表情のまま、しばらく顔を見合わせていた。





「こんばん、ぅわ…」
 エプロン姿に着替えた後、仕方なく俺はカウンターの彼女の前に立った。バーバリーのスーツを着込んだ夫人は、半分くらいになった水割りのグラスの隣に突っ伏している。
 何杯目? とおやじさんに目で問いかけると、「七」だと口をぱくぱくする。俺は思わず首を振った。へべれけになったところなんか見たこともない人だったのに。
「奥さん…、ジロー夫人…。大丈夫ですか?」
「誰よ…、分別くさい声出して…」
 ゆらり、と波のように顔を上げる。久しぶりに会ったせいか老けたな、という印象がまず先に出た。
 しかし実年齢よりもずっと若く見えることに違いはない。今までが若すぎたのだ。きっと子供がいないせいだろう。
「あら…、…ららら、ジダン・レスコー…?」
「お久しぶりです、マダム」
 酒精にかき回された青い目が、昔なじみの微笑みを刻んだ。
「久しぶりね〜。なんでそんなところにいるの?」
「バイトです」
「まあまあ、三十過ぎてまだそんなことしてるの?」
「…あの、人生は色々ですから」
「そうよねえ…、あなたは昔から、言うこと聞かない子だったし…」
と、夫人はまた頭を垂れてしまう。
 この酔態のご婦人は昔、俺が大学で世話になったジロー教授の奥方である。法科の星だった教授に相応しく、高貴で美しい女性だった。しかし、これは…。
「夫人…、教授がご心配なさいますよ」
「ポールは今イギリスだもの。心配しないわあ」
 学会にでも出かけているらしい。これで家に連絡するわけにもいかなくなった。するとなるほど、困ってしまう。
 放っておけばいいといえばそうなのだが、こんな学生の多いバーで教授夫人が酔いつぶれていたなんて体裁が悪すぎる。唯でさえこの人は目立つのだから…。
「…マダム、とりあえず水を用意しますから、もうこれ以上飲まないで下さい」
 グラスを引っ込めようとしたその手が捕まれる。おっと思った俺に、両目を見せて彼女は言った。
「…名前で呼んでよ」
半開きのまぶたにけぶるような薄茶のシャドウだ。
「………」
「ああ、忘れたの? どの子もみんな薄情よね…」
爪が立てられる。
「もう年増の恋人になんか用はないってわけ。
 …マダム・ジローが私の名前よ…。 ったく、やってられないわ」





 ―――しばらくして、俺が手を引っ込めようと動かしてみると、彼女も逆らわずずるりと指を離した。それから前髪を押さえるように額を押さえ、横を向く。
 グラスに残っていたアルコールを流しに棄てた。水を弾いて縁に残る深いルージュ。それだけで心躍っていた未熟な自分の若さが思い出される。
 この真紅が今は俺のものなんだ。
若いだけ、きれいなだけの女じゃない。
正真の大人の女性を俺は今、自分のものにしているんだ――――。
 …何ともかわいい勘違いだった。所有などできないものを所有したと思いこんで。あっという間に棄てられて。
 挙げ句にその理由が「貴方じゃ満足できないみたい」と来たもんだ。あの当時は落ち込んだな。言われても仕方ないとは思ったけどさすがにな。
 唇の片方に皺を刻むと、俺は新しいグラスに手を伸ばす。ペリエを入れて、黙り込んだ夫人へ差し出した。
「どうぞ…」
彼女は返事をしなかった。
 …また、どこかの学生と別れたのか。しかしそんなことでへこたれるような女でもないはずだ。どんな男性とどんな関係を持とうとも、基本的に自我を見失い、こんな真似をする人では……
 冷たいカウンタに両肘をつく。ため息を吐き出すようにして覚悟を決めた。この人には本当に世話になったのだ…、このままにはしておけない。
「一体…、何があったんですか」
返事をしない。仕方なく俺は言った。
 実に久しぶりに、彼女の名を呼んだ。
「……セシル」
と。



 セシル・ジローは俺の出した水には手をつけなかったが、質問には答えた。
 彼女は検査の結果が出たのだと言ったのだ。
なんの検査? 産婦人科よ、不妊治療の。
ふに…。
 絶句する。
ずっとポールが悪いと思ってたのに、実は私が悪かったんですって。
 遠くでおやじが客と挨拶してる声が小さかった。もう子供は望めないそうよと囁く彼女の声が反対に大きく聞こえる。
「…やっていられないわ。今まで赤ちゃんのためだけに生きてきたって言うのに…」
「赤ちゃんのためだけ…?」
 あまりに意外な言葉を聞いて俺はびっくりした。子供を産んで、無知で幸福な女の一生? 派手な彼女の言う台詞じゃない。
 だが目の前のセシルはきっぱりと肯定した。
「そうよ。そのためだけよ」
「…え? 本当に?」
「ジダン、私はやることが一杯なあなたやポールとは違うのよ、特に世の中に不満なわけでも、反対に魅了されているわけでもないわ。
 私、凡人なのよ。死ぬまで消費するだけ、赤ん坊以外に産み出すものなんてないのよ。だから当たり前でしょう。
 …それがどう? 今やその使命すら果たせないと来たわ。一体それじゃ、私の存在に何の意味があるの?」
 グラスを掴み、俺に突っ返す。
「体を大事にして何の功利が? …教えなさいよ、優等生」
「…あなた…」
「そう言えば昔、私に言ったことがあるわね。何にせよ創作しないなんて人間として怠惰だって。
 貴方はいいわね。やりたいこともその手段もあって。濃くてうっとりするような人生はさずめウィスキーの原液ってところ?
 …でも私はやりたいことも、その手段ももはやないの。お説教は聞かないわ。
 だからジダン…、お酒を、つぎなさい」
 突き出された何の変哲もない、一個30フランの透明グラス。その中で細かに波立つ天然水を見つめた。
 気高くて自らを持った人だと思っていた。その成人女性としての背筋正しさに畏怖と尊敬を覚えていた。
 だって真紅のルージュだ。…バーバリーだ。惚れ惚れするハイヒールに、茶にぼうと霞むようなアイシャドウだ。
 それらは大人の女性だけに許された持ち物だ。 そこに何か自分の持たざる誇り、目にしたことのない存在への揺るぎ無い自信が、そして人生があるかのような気がしていた。
 …レンズの曇りがとれてくる。まだグラスを受け取らないで、俺は言った。
「これだけ教えて、セシル…」
声が震えているのに驚いた。なぜだか解らない。
「…あなたがとっかえひっかえ学生達と寝ていたのは…、つまりその…、たくましい精子を獲得するため?」
「そうよ?」
間髪入れずに彼女は答えた。
「どうやらそれも…、勘違いだったみたいだけどね」



 レンズから幻想が無くなったら、目の前の怪物はただの人だった…。
 もっと早く気付くべきだった。つくづく、俺は阿呆なアダムの子孫だ。
「………」
 現れ出た思考の足りないイブの末裔に向かって、俺は無言のまま何度も首を縦に振る。よく分かったと。
 それからやっぱりグラスを押し返した。
「酒は駄目」
「え? 何よ。結局ダメなの?」
 不満げに、彼女は口を尖らす。お構いなしに傍らから輪切りレモンを取りだして、グラスの中にぽんと突っ込むと俺は言った。
「だってお母さんには体を大事にしてもらわなきゃこまりますから」
「は?」
「…いや、俺あの時は特にマザコンでしたからね、…今もだけど…、あなたにもお母さん見てたんですよ。
 でもちょっとお母さんにするにはあなたちょっと情熱的で淫らだったから、年取って角が取れたらもう一度頼みに行こうと思ってたんです。
そう言えば」
「…何よそれ、私をお母さんにしてたってこと?」
「あなただって俺を精子造成機にしてたでしょ」
「あ、そっか」
「そうです」
「なによ威張らないで、似たもの同士じゃない。マザコン」
「いいからそれ飲んじゃって下さい。ぐいっとね」
エプロンを外しながら、俺は言った。
「…そしたらあなたを家まで送っていきますから……、お母さん」




Fin.



>>back







01.01.27