** 王者の寝床 **




 ジュジュは人生の王者である。
いつもしわ一つない清潔な天然素材の服を着て、高かろうとも100%ジュースを飲み、無添加の化粧品を身につけて、健康な人生に君臨する。
そういう女だ。
 それが自分の人生ならばまあそれもいい。彼女の厄介なところは、他人の無精や不摂生にまで徹底して口を出してくるところだ。
 この間も俺が昼に中華店「桂林」で買ってきた春巻を食べていたら、隣に座って延々と中華料理のヘルシーさを説き、挙げ句にそのなかでもあの店の油は植物油、あの店の豚肉は外国産、などと喋る喋る。とどのつまり、「桂林」の春巻きは体によくない、そのうち癌になる、ということが言いたかったらしい。
「取り敢えずみんなの健康を慮っているわけだからいいんじゃないの」
と、照明のジャンは言うが、世の中はみんながみんな健康志向というわけじゃない。
 それどころか俺は自分が生存に手間のかかる人間だ、と公言する人間の近くにいるとイライラしてしまう質だ。
 少なくとも俺は屈託のない人間なんだ。ためになるとは言え、彼女の屈託を伝染されるのは迷惑である。




「紅茶の葉なんかを入れてもいいよ。出来るならレアルにあるエリカって店か、ルールのダンテ・ルージュっていう茶葉屋さんがお勧め」
 今日も今日とて彼女は無添加石鹸の作り方について、とめどなく延々と講義している。俺がカフェへ逃げずに済むのは、間に挟まっているマリーがうんうんと肯いて、防波してくれているからである。
「そうだねえ、やってみたいけど、ちょっとお金がかかりそうだなあ」
 そうだ。だいたい劇団なんかに所属している身で、無添加物に囲まれて暮らせるわけがないよな。と、俺は横で肯く。ああいうオーガニックな生活を始めるには経費がかかるんだから。
「大丈夫、そんなに大したことないよー」
 微笑むジュジュは金持ちの道楽娘。未だに親からの送金がわんさとあり、バイトも借金も知らないという、信じられないような恵まれた生活を送っている。
 だからこそ「大したこと」ないのだ。真っ昼間から部屋で石鹸をこね回し、高い無農薬野菜を炒め、広い賃貸アパルトメントに暮らしていてなお「大丈夫」である。
 そして貧苦を知らない人間だからこそ、生活にかまう余裕のない相手を不精者と決めつけ、なんだかんだと世話を焼きたがるのだ。
 真正直な無知はまことに始末が悪い。これならまだ、ミミみたいにモノを投げてくる方がましだ。俺はうんざりして煙草を吸った。




「そういえばこの間すごく気持ちいいスキン見つけたんだ」
 他の騒音のすき間に見事にすっぽり収まって、その言葉が聞こえたときには思わず煙草を噛み切るかと思った。輪になってメモを囲んでいた副演出のフェイと、照明のジャンが、びっくり仰天して振り返る。
 無論あちらの彼女はそんなことに気がつかない。気がつくくらいなら最初からそんな話題を出したりしないものだ。
「もうね、なんかすっごい自然らしいんだ。彼氏が、気に入っちゃってえ、あたし褒めてもらったのー」
 さすがのマリーも少し強張った笑みで、
「ジュジュ…。今はそういう話…」
と止めにかかったが、効果など無い。
「え? いいのよ、あたし達大人でしょ?
 こういうこと話すのも慣れないとだめなのよ。昔とは違うんだから。
 望まない妊娠をしないためには大事なことなのよ。マリーはちゃんと避妊してる?」
「……」
声にならない声が劇場中に満ちた。
 これはあれだ、学校の性教育の気恥ずかしさそのままだ。猥談なら笑ってごまかせるし、不真面目なら軽蔑することもできる。
 だが、彼女はまるきりしらふなのだ。その上、くそがつくほど真面目なのだ。
 俺はその時、性行為に関して逐一厳密な説明を執念深く加え、十代だった俺達をさんざん赤面させた、中学の女教師のことを思いだした。
「えー…で、ここのキューのことなんだけどォ…」
「ああ、うん…」
 気まずいながらも、何とか俺達は打ち合わせを再開したが、聴覚はぶっとんでジュジュの口元へ釘付けになっている。
 彼女はテーブルクロスの選び方を講義するのと何ら変わりがなく、熱心で真剣である。喋りたくて仕方がないのだ。あたしはあれを知っている、これを知っている。と。
 …誰がこんなバカ女に性の知識を吹き込んだのだろう。
「それでね、彼がすごく気持ち悪そうだったのね。勿論あたしにはそんなこと分かんないし、彼も言わないよ? でも、見るからにちょっといやな感じだったから、あたしも口には出さなかったけど分かってたんだ」
 そうか、信じられないことだが彼氏が出来たんだっけ。寛大なのか無神経なのか。こんな攻撃に耐えていける彼氏くんは偉大だというか、いっそさらって逃げてくれというか。
「あたしも結構敏感な方だから、毎回彼がかわいそうで、そんでちょっと高いのを買ってみた方がいいのかなーって。でもね、女の子の方からそういうものを用意するのってなんか気まずいじゃない?」
「え…? なんで?」
 狼狽したマリーの声を、ジュジュの大きな反応が遮った。
「えー! だってなんか娼婦みたいじゃないそれ」
 既にこちらの三人の間で会話は絶えていた。副演出がぼそっと、
「娼婦…」
と言ったのが印象的だった。
「だからね、迷ってたんだけど、でも雑誌に女の子の方からそういうことをしてもいいって書いてあったから、よし、じゃあちょっとがんばってみようって勇気を振り絞ったのよ」
 …いかん、忍耐が切れてきた。
「彼がすごく喜んでくれたからよかった! ねえ、マリーも買ってみなよあのスキン。銘柄メモして上げるから」
…頼むから誰かこの女を埋めてくれ。
「なんかね、やっぱこういうのもあんまり安いのだと効果がなかったりするから、いい加減に選んじゃダメなんだよ。
 こういうことは男の人は無頓着だから女の子の方が気をつけないとね。それにね、こういう細かいことに気を配るって、やっぱり相手には気持ちがいいみたいよ。ずうっと彼と仲良くやっていこうと思ったらこういう努力は必要よね」
「あー…、そうかもね…」
「そう。こないだミミが彼氏にふられたって言って落ち込んでたんだけど」
ジュジュは手帳のメモを切り取りながら続けた。
「あたしそういう小さな配慮が足りなかったんじゃないかと思うのね、やっぱり」
 副演出と照明の目が、盗むように俺を見る。俺はぴくりとも動かないマリーの後頭を見ていた。
「彼女はもう一方的に彼が悪いとかいう感じだったけど、あたしは彼女の方が悪いんじゃないかと思うな。彼女ってほら、少し乱暴だしね」
「そ、そうかな…」
「そうよ。多分あれじゃあベッドでもいい加減なんじゃないかなあ。だめなのよね、やっぱり毎回ちゃんとつくさないと。
 でもやっぱりミミはちょっとかわいそうかな。彼女のせいとは言え、突然彼氏取られちゃったんだものねえ。相手の女の子がひどいと思うな」




 立ち上がった俺は、ジュジュの前に無言で屈み込んだ。二人共が驚いて俺の方を見る。しかし、ジュジュはすぐににっこり笑って、
「あ、何? 混ざりたいのジダン?」
と、首を傾げた。
 彼女は見事なまでに何も知らないのだ。無知は彼女のせいではないが、だからといって誰が彼女に秘密を打ち明けるだろう。分かってももらえないのに。
 この笑顔に何が悪いと責め立てることはできないが。この衝動を彼女の責任にすることは出来ないが。しかし。
 いきなり彼女のきれいに整った前髪を鷲掴みにすると、俺は強引に彼女の頭を引き寄せる。
「いたッ!」
「―――ミミは少しも悪くなかった」
 しんとなった。
 ジュジュは何が起こっているのか分からないようだ。上向きになった瞳には混乱だけが映っている。
「え? え?」
「みんな俺が悪かったんだ」
 ちらりと、マリーの目が心配そうにこちらを探ったのが分かった。
「余計な事件を孕まないうちに、あんたこそお口にスキンをはめたらどうだ」




 俺は手を放した。髪に負担の少ないシャンプーと整髪剤で整えた彼女の前髪が、ぐしゃぐしゃになっていた。
「マリー。おいで」
 黙って、彼女は立ち上がった。俺は彼女の手を引いて、まだ呆然としているジュジュに背を向ける。
 苦労人の副演出、フェイの前を通り過ぎるときが一番胸が痛んだ。彼はボールペンで頭を掻くと、
「まあしゃーないでしょう」
とでも言うようなため息を一つ吐き出し、それから肩をすくめた。照明のジャンはにやにやしている。
 ジュジュは以降、憑き物でも落ちたみたいに静かになった。










「最近ジュジュがあたしに冷たいの」
 マリーが言う。
「そのくせ近づいてきてはジダンのことをやたら聞きたがるんだけど」
 マリーのうちの大きなクッションに肘をついて、俺は眉を寄せた。
「は? どういうこと?」
「修辞を超した荒々しさは彼女には初体験だったらしいわよ。乱暴な男がいかに魅力的かあたしの前で三十分ほど演説してったわ」
 と、最近見せるようになってきた一抹の意地悪さでマリーは笑った。
「………」
「明日から背中に気をつけた方がいいわね、ボー・ガルソン」


 俺の叫ぶことは前と同じだ。
誰かジュジュを埋めてくれ。




Fin.

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