** 天才マリー **




「なんて言ったらいいのかな、例えばセックスの話になるけど、みんながみんな性感帯ってものを持ってるわけじゃない」
 と、マリーは言う。サンドイッチのショーケースの上に右手をついて、ごくごく真面目な表情だ。
 ここは彼女がバイトをしている小さなカフェだ。コーヒーがうまいせいなのか、昼間から店の中は見るからに暇で孤独で、かまって欲しい老人達で一杯だった。
 そういうがつがつしたお客達を、彼女があまり鮮やかに捌くので、横で見ていた俺は感心して、そのコツを尋ねたのだ。
「体のどこが弱いとかどういうシチュエーションに弱いとかあるわけじゃない」
「うん」
 カウンターに肘をついて、俺は機嫌よくマリーを見上げる。彼女はきれいな肌の、唇のセクシーな女の子だ。
 十代の頃崇拝していた、AV女優のベルに似てる。今、彼女が例えばみんながしっぽを持っているでしょ、と言っても俺はうんと肯いたろう。
「マリーはどこが弱いのかな」
「つまり心にも同じようなものがあるわけ」
 これまた上手に無視をして彼女は話を続ける。
「どんな言葉を聞いたら弱いとか、どんな風に対応されるのが心地いいとか、結構人それぞれなのよね。
 素っ気ない対応をされる方が安心する人もいるし、微笑みの一つも添えなきゃずっと不機嫌な人もいるわ」
 俺は体をねじるようにして店の中を見回した。カウンターや、露店席にそれぞれ座る、前屈みの人間達。俺は怪訝な顔で彼女の視線の前へ戻ってきた。
「そんなのが、どうやって分かるの」
「ジダンには分からない?」
「どうかな。自信がないよ。だいたいそういうものはみんな隠しているものじゃない?」
「そうかしら」
 マリーが横顔を見せた。同じように人々を見ながら、彼女の青い目には俺よりもたくさんのものが映っているんだろうか。
「結構みんなむき出しよ。愛して欲しがっている人は特にそう。子どもが転んで怪我したり痛いってところをお母さんに示すみたいに、みんなあたしにここを撫でてくれって、物欲しげにやってくるわ。
 だからちょっと撫でて上げて、そんで席に引っ込んでもらうわけ」
「君は落ち着いてるんだねえ」
 先程の幸福な気分とはまた別の心持ちで、俺は彼女を眺める。
「むき出しで貪欲な欲望を見せられると、それが性とは関係なくてもヤになっちゃう人もいるよ」
 マリーは眉毛を八の字にして、笑った。
「そういうのは、自分の中にそういう意地汚さがあることを知らない人のすることでしょう」
 自分で自分を抱きしめるようにして、彼女は腕を前で交差した。
「あたしはあたしらしく在るために、誰かに助けてもらわなくちゃだめな人だもの。そんな依存症のあたしが、同じ様な誰かの貧しい手を拒んだり出来るかしら」



 ウィ、マリー。君は聡明だ。寛大だ。
親御さんはその顔に劣らぬくらい優秀な頭脳を君に贈った。君みたいなのに会うと、生きていて良かったって思うよ。
「ジダンは何か欲しいものある?」
「僕は君が生きてるだけで十分」
「昼からビールなんか飲むから。知らなかった、ジダンって弱いんだねえ」
「君はどうなの、何か欲しいものある?」
少し酔った振りをして、俺はマリーに尋ねる。
「さっきからずっとそれを考えてるんだけど」
 マリーはなんだか照れたみたいだった。
「え? あたし?」
首を傾げ、とぼけて頭の後ろへ手をやる。
「どうかなあ。念願だったタイトル・ロールは今回の公演で頂いちゃったしなあ」
しまいににっこりと笑って言った。
「あたし自分のことは良く分かんないなあ」
 天才マリー。
ちょっとビールでふらふらするが、俺にはその微笑みが詐欺師めいてたことくらい分かったよ。
 人のことがそんなに分かる、切れるアナタが、自分のことを知らないわけがないでしょう。
 マリー、一体。
君の性感帯はどこだ。








 舞台稽古を眺めながら
「いー役者だねえ」
演出補の気の抜けたようなコメントに俺も同感だ。
 マリーは俺達の劇団テアトル・シリス をこの薄暗い小さな劇場から陽の下へ押し出すだけの力がある。
 そのうち観客達は、彼女が大きな役をやらねば満足しなくなるだろう。どそれは反対にどれほどひどい台本であろうが、彼女一人の名前で劇場を埋められるようになるということだ。
 そして最後には、彼女の自由のために劇団は邪魔になる。実力派女優マリー・ブランを排出した栄誉だけをメンバーに与えて、彼女は劇団を去るだろう。
 無論、俺はそんな事態を見過ごすつもりは無いけれど、超新星を御していけるのかどうか、正直自信がありませんねえ、ノートルダーム様。




 休憩中、廊下でマリーに会ったので買ってきたカフェを譲った。そういう下らない手を使って、彼女とお話しするチャンスを作ったのだ。
「あのさァ、あれからずっと考えてたんだけどね」
「何を?」
「君の弱い部分はどこにあるのかなあってさ」
 テイクアウトのコーヒーカップから立ちのぼる白い湯気を追っていたマリーの瞳が、ちらりと上向いた。
「多分これを指し損ねたら俺は演出家として一生、君を使いこなせないよね」
「演出ってそういう仕事だった?」
 マリーは笑ったが、注意は依然としてこちらへ向けている。その双鉾にたたえられているものは、興味だ。脱皮する蝉みたいな、みだらなヴァージンみたいな、押さえつけられた期待がその奥へ渦巻いていた。
「まあ試してみるよ」
 咳払いをして、俺は彼女の前に立った。
「俺は子どもの頃から必死に大人の顔色をうかがって生きてきたマリーとお話ししたい」
ぱちり、と音を立てて彼女が瞬きした。
「人を怒らせないように、刺激しないように生きてきたひ弱なマリー、聞いているかな。
 苦い経験を積み重ねて、君は今や対人の天才になった。
 けれど多分、小さな胸の奥にはまだ、捨てられてしまうんじゃないかってそういう恐れがあるでしょう」
 少し開いた彼女の唇の上を、雲が舐めていく。俺は彼女の両頬を両手で挟み、赤ん坊にするみたいに目を合わせた。
「マリー。
 もしも君が天才でなくなっても、売れなくなって落ちぶれても、例えばバカな男に引っかかって子ども産んだりしても、俺は一生君の面倒を見て上げる。
いつまでも君のために本を書いて上げる。
 愛とは関係のないところで、君をずっと理解していて上げるよ」
 奥の方にいる、小さなマリー。
たった一人で立っている孤独なマリー。
心のど真ん中に巨大な喪失を抱えた天才マリー。
みんながそのひずみに飲み込まれる。
「…マリー。私はあなたをひとりぼっちにはいたしません」
 手を放した。触れあうほどの鼻先で囁く。
「感じましたか?」




 彼女の手の中でコーヒーはとっくに冷えていた。向かい合ったまま長い時間が過ぎている。
 終いに、くしゃりと顔を歪めてマリーは笑った。
「覚悟しておいてよ」
と、言う。
「飢えに触れて同情したら、愛される危険性があるんだから。あたしの性感帯の相手なんて、信じられないくらい大変よ?」
 その宣告にマジで背筋が震えたけれど、首から上は笑ってたから人間って不思議。




 その晩マリーはうちに来た。
人の弱点に長けた彼女は、とってもとっても上手でシタ。



Fin.

>> back >