** 夜の黒いわけ **




 子どもの頃、お祭で買ってもらった風船を家に帰るまでに空へ持って行かれたことがある。
 風船がしばらく経つとしぼんでしまうという知恵くらいは持っていた俺は、いつか落ちてくると信じてその場で半時間くらい待っていた。
 けれど赤色のいびつな球体は小さくなって行くばかり。とうとう空の中にその姿を見分けることが出来なくなってしまった。
 待っても待っても、俺の頭上には何も落ちてこなかった。もたらされなかった記憶と共に、その風船が空に昇っていく映像は、三十に近い今の俺の脳裏にまで、しっかりと焼き付いている。
風船は飛んでいってしまった。



「いらっしゃい」
 入ってきた客に声を掛ける。見た服だと思ったら副演出だ。
「なんだお前か」
「うーっす」
 ここ一週間ほど、劇団は公演の後の休養期間である。みんなもバイトしたりだらだらしたり、石鹸を作ったりして過ごしていることだろう。マリーは二日前から、シャルトルの実家へ帰っていた。
 というわけで彼に会うのも四日ぶりだったが、
「…? 元気か?」
そんなことを聞いたのは、なんとなく生気がなかったからだ。いつもきちんとしている服も埃っぽいし、顔は二日分くらいのひげが、伸び放題になっていた。
「…フェイ(副演出の名前)、どした?」
 カウンタに肘をついて、彼はくたびれきったように黒い顎を撫でた。それから言う。
「…弟が死んじまった」
 フェイとは大学時代からの友人だから、俺は彼にあまり身体の良くない、年の離れた弟がいることを知っていた。そして優しい兄である彼が、大学の休暇の度に、たくさんのおみやげを抱えて田舎へ帰っていたことも。
「……」
 一気に色々なことに気を回しすぎたために、言葉が出てこなかった。努めて普通に振る舞おうとして、かえってリキュールをこぼしてしまう。
「ま、飲め」
 オールド・パルを差しだした。彼はいつもこれが駆けつけ一杯なのだ。黙って口をつけるが、目はどこか別のところをさまよっていた。
「葬式は」
「昨日だった。夜行で帰ってきてさっき着いたばっかだ」
「もう少し、ゆっくりしてきても」
「あんなところにいたら気が狂う」
「……」
 どうしようもなくて、俺は腕を組んだ。
「弟のいなくなった部屋とか、廊下とか、玩具とか、眺めていたって無意味なものばかりがやたらと目に染みるんだよ。かといって墓を見てても救われやしない。…もう、いたたまれなくなって…」
 多分フェイはその黒い瞳を田舎の、新しい墓の上へ置き忘れてきたのだろう。目の前が暗いらしく、盛んにごしごしと両目をこすっていた。
「最後はお気に入りの青い寝間着を着ていたよ」
 そういって彼は、アルコールをあおる。






 仕事を終えて、まだ暗い早朝、通りを歩いた。疲れているのか、他に理由があるのかぼんやりとしていた。
 夢の中を歩いているような無感触だった。誰かが目の前で両手をぱちん、とやろうものなら飛び上がって現実が破けてしまいそうだった。
 それでも家まで辿り着くのだから、人間は習慣の生き物なり。階段を昇りきったアパルトマンの部屋の前に、ミミがいた。



「…何してるんだ」
 長く待っていたようにも見えなかった。彼女はバイトの終了時刻を知っている。
「うん、まあちょっと近くまで来たから」
 ミミはなんだか慌てたみたいに言った。俺の声はそんなにとげとげしかったろうか?
 彼女の寄りかかっている踊り場の手すりの前を通り過ぎて、鍵を取り出す。
「悪いが疲れてるんだ。帰ってくれないか」
 一生懸命優しく言ったつもりだが、今はどうもねじがずれているので、本当にそういう声が出たかは自信がない。
 ミミは俺の左腕に寄りかかった。重い。
「中に入れてくんないの? マリーは実家にいるんでしょ?」
俺は振り向いて、彼女に言った。
「だから、入ってきてはいけない」
 ミミは腕を放して、二三歩、後ろへ下がった。見せたことのないくらい真剣な顔をして、俺の眉間をますます険しくさす。
「…あたし、あなたのこと今でも好きよ」
 笑いが出たので自分でもびっくりした。苦い笑いだったが、一体自分のどこにそんな余力が在ったのだろう。
「俺は違うよ」
 ドアを開けて、すべり込んだ。すぐに閉めて、鍵を下ろしたが、あまり関係はなかっただろう。俺はミミを斬って捨てたのだ。
 どっと寝床に倒れ込むように、ドアに背をつける。廊下からはなんの音も聞こえてこなかった。
 俺はミミを知っている。彼女は傷ついただろう。俺のことを薄情でひどい男だと思ったろう。手にとるように分かるが、ミミ。
「……」
 俺がいちどでもあんたのことが嫌いだと言ったことがあったか。いちどでもあんたのことをどうでもいいと扱ったことがあったか。
 嫌いな女と付き合うほど、俺も酔狂じゃねえよ。好きだった人が突然大嫌いになれるほど、ヒステリーでもねえよ。




 だがね、だがねミミ。
世の中には、どんなにしても取り返しのつかないものが在るんだ。戻ってこない風船のように、どうしようもなく死んでいくものが在るんだ。
 それが愛情でどうにかなる映画の世界なら、フェイの弟は死んだりしまい。
 世界は昇っていく風船で一杯だ。
俺の風船はいつでも赤い。
「死んじまった」フェイの弟は、青い風船。
ミミの風船は黄色だ。俺にとっていつまでも危険で曖昧だから。
 色とりどりの風船が上がり、また上がり、息つく暇もなく、空は埋め尽くされている。
 そして宇宙の手前でその喪失されたものたちは寄り集まって…、絵の具でも混ぜるみたいに何色もの悲しみが一緒くたになって…。



 …ああ、と、俺はひんやりする頬で笑った。
Eureka.
 見つけた、はは。
俺は夜の黒いわけが分かったぞ。



Fin.

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