** 友人と看板 **




 一時間前から背広を着た天使が一等眺めのいい席で、ぼ―――っと外を眺めている。
 俺は斜め前の席に座って、その男をうっとりと眺めている。



 男は痩せた頬を持つ、黒髪のゲルマン種だった。きちんとケアされた髪の毛や爪や、靴先などが高給取りであることを窺わせる。
 珍しい種類の人間が、珍しい場所(ここはラ・ファイエットの死ぬほど古い店だ!)へ、珍しい様子で座っているものだ。
 俺は入ってきたときから、男に目を引かれていたが、それもそのはずで、彼は店の雰囲気からかなり浮き上がっていたのだ。
 ぼ―――っと出来るのも一種の才能であるし、色々な要素が気の抜き方にも繁栄されるものだ。こんな風に心の底から力をぬく背広組は珍しい。
 少々危なげな感じがするほどだ。今はまだ明るいけど、こんな調子で夜、通りへ出たら大変だぞ。
 いらないことを考えながら男を眺めていたが、彼は全く俺の視線に気付くこともなく、ただひたすらぼ―――っと、ぼ――――っとしているのだった。
 俺はふいに、自分がひどく魅力的な男の前にいることに気がついて、急に話しかけたくなった。白い受け皿を片手で持ち上げ、席を移動する。




「隣、いい?」
 音もなく移動した気は全然無いけれど、男はかなりびっくりして振り向いた。
「え? 隣?」
 まんまるい青い瞳に、俺は眉を上げて二、三度頷く。
「…あ、ああ…、あ、隣ね。どうぞ」
「どうも」
 カウンターで主人が吹き出していた。俺はそれを隠すように彼の隣に腰を下ろす。彼は恥ずかしげだった。
「ちょっとぼんやりしていたから」
 ちょっと北の方の訛りがあるな、と思いながら、俺は微笑んだ。あるいは、ドイツ人かも知れない。
「うん、ずいぶん長い間ぼんやりしてたね」
「え? そう?」
「もうかれこれ二十分はぼ――っとしてたよ」
「ホントだよ。カフェが冷めてる」
 カップを下ろして彼は、まずそうに眉をしかめた。主人を呼んで、おかわりを頼む。上げた左手に、指輪は一つもなかった。
「今日は仕事が早く終わってね、…こういう日はちょっと寄り道をすることにしているんだ」
「もしかしてこの街は慣れていないんじゃない?」
「バレた? シュツットガルトから一月前に来たばかりなんだけど」
 成る程、あそこか。
「この店じゃ、まあ初めての人間はすぐ分かるんだけどね。…言わせてもらえば、その背広でここをうろつくのはちょっと危ないよ」
「え? 背広?」
と、不用心に前身ごろを開く。ブランドのロゴマークがぴかりと見えた。
「ほら背広も、高い方の背広でしょ、それ。ここらを散策するんならもっと普通の格好をしないと」
「ああ、…そうか。ありがとう」
「いいえ」
「本当にどうもありがとう」
他に言葉が出てこないらしい。
 ハンサムではないが、笑顔に潤いのある男だ。ちょっと格好よくなったオットー・ザンダーみたいだな。と、俺は思った。








 看板を見ながら考えていたんだよ。
僕はまあフランス語が出来る方だから、書いてあることは分かる。あれはバー、あれはカフェ、あれは本屋で、あれはちょっと良くない輸入ビデオとか売ってる店。
 …でも僕はここでは異邦人だから、本当は何も知らない。カフェ一つはいるのにも国とこっちじゃ違う。メニューにも見たことのない品目がいっぱいあって、同じ料理でも違う風に呼ばれていたりする。
 こうやって字は読めるけれど、…本当のことは中に入ってみなくちゃ分からないんだなあって考えてたら、ちょっと前に死んだ友達のことを思いだしてね。
 印刷会社の同僚だったんだよ。すごくいいやつでね、酒は飲めるし気さくだし、親切で面白い人間だった。奥さんは元気で優しい人で、八歳の女の子も一人いた。
 ある日、なんか彼が元気なさそうに見えたんで、
「大丈夫か?」って聞いたんだよ。彼は笑って、
「何だ? 俺は元気だぞ」そう答えたよ。
 次の日曜日にね、おたくの国で星の王子様っていう小説を書いた飛行機乗りがいるでしょ。
 あ、そうだ、サン・テグジュペリ、言いにくいね、この名前。そのサン・テグジュペリに関する番組をやってたんだよ。
 彼はいいことを言っているね。
一緒に遊びさえすれば友達ってわけじゃない。友人とは一緒に苦難を乗り越えた間柄のことだとか、そんなふうな言葉があったんだよ。
 それでね、僕は少し考えた。もっと身の回りの人を大事にしなくちゃいけないんだなって。もしも自分が人間達の中で年をとっていくんなら…、もちろんそうしたいさ。だからちゃんと人付き合いもしてた。でも、ちょっと勘違いをしていたのかも知れないなあと思ったんだ。
 大学出る頃になるとどんな人間でも賢しくなっているじゃないか。知人の数も、友達の数も妙に多くなる。でも、このままじゃいけないのかもしれない。
 酒は飲んだ。しかし、俺達はお互いの人生の問題を共有しあったり、解決したり、そんなことをしただろうか。もっと深く付き合わなくちゃいけないな。
 そんな風に考えて翌月曜に出社した。
そしたら、会社の部屋で彼が自殺したというんだ。




 俺はもうびっくりしたよ。
警察に色々聞かれたけどありきたりなことしか答えられなかった。本当にびっくりすると人間ああなるんだね。
 …悩み? それはあることはあっただろうが、自殺するほどのことじゃないと思う。…金銭トラブル? 聞いていない。…最近様子は? 普通だったと思う。病院への通院歴は? 知らないし…、どだいこんなこと信じられない。
 そうしたら警官が言った。信じられないとは言っても事実、やっこさんは自殺しているんだ。
あんた、本当に友達だったのかい。




 そりゃあショックだったよ。
前の日、テクジュペリの一節を聞いていたから余計だった。
 本当に友達だったのか? 彼が自殺するほど悩んでいることを、その内容ではなく、悩んでいるということ自体、俺は何も知らなかった。
 俺は彼の家族に、かける言葉がなかったよ。
そんな資格無いような気がした。女の子のワンピースのビロードみたいな黒い布地が、まぶたの裏に貼りついて取れなかった。
 ぐるぐるぐるぐる、なんか色んな物が回ってね。毎日、人と会うのが怖いくらいだった。葬式は済んだっけ。書類は上がったっけ。夜は食べたっけ。まだだっけ。なんでこんなにふらふらするんだろう。あ、そうかさっきクスリをやったんだっけ。
 気がついたら俺はパリへの異動を希望する書類にサインしてたよ。そんで一月前、この街へ来たんだ。
 毎日の忙しさの中で忘れたような、覚えているような、そんなぼんやりとした感じの中で、今日、看板を見ていたよ。
 そうか、と思うね。やっぱりこういうことなのか、ってさ。
 久しぶりにやつのこと思い出したら止まらなくなってしまって、ぐるぐるぐるぐる、クリムトみたいにぐるぐるってとぐろを巻いて。
 ぼ―――っと…、ぼ―――っとしてたんだよ。









 彼のまつげが灯った店の灯りに透けていた。彼は頬杖をついて、やっぱり窓の外を見ていた。
 きれいな背広の上に舞うほこりが、ちら、ちらっと光っている。
 通りから黄昏がすうっと流れていくように夜になった。彼の眺める向こうの通りには派手な電飾が灯り、彼の頬に赤い光をほんのり落としていた。
「あんたの計画からいうと」
 ずいぶん経った後、俺は口を開いた。
「実際に店に入ってみないといけないってことだよな」
 二人分の料金をテーブルの上へ投げるように置くと、俺は続けた。
「あそこのバーはナッツがうまいんだ。もし暇なら案内してあげられるけど?」
 彼は嬉しそうに笑って、白い歯を見せた。
それから立ち上がるときに恥ずかしげに、潤んだ目元をさっと指先で拭っていた。



Fin.

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