L'inutile
24.まともな商売じゃない
その日、ヨシプは体調が優れなかった。そういう時は、彼は普段にもまして全ての行動がのろくなる。 同居人の演出家ジダン・レスコーは呆れて、夜行性の動物のように猫背でテーブルの前に座っている彼に尋ねた。 「大丈夫か? こんな日に運が悪いな」 というのは、その日は昼から彼の出演した映画の完成披露発表会があったからだ。 無理ではない。熱があるわけでも、体が痛いわけでもないから。ヨシプはガリガリと前髪の間から頭皮を掻く。 ただ、こういう悪寒の起こる日はいずれよくないことがあるから家で寝てろとおばあちゃんが言っていた。 「…そういうわけにも行かないだろう。もうそろそろ準備しないと間に合わないぞ」 仕方ないので、ジダンは腕時計から眼を離し、ヨシプの為に軽い風邪薬やら栄養剤やらを出してやった。 ついこないだ春が来たばかりだというのに、もうパリは寒い。ヨシプは外見も構わずものすごい厚着で着膨れしつつ、迎えに来たクリスティナとジダンと一緒に、会場へと向かった。 ヨシプが端役で出た映画「ショパンのつなぐ恋」は、まあ実に国内映画っぽいというか、音楽と恋愛を掛け合わせて表現する繊細でセンチメンタルな唯美主義の映画で、言うなれば部屋にくゆらせるアロマ。 小二時間ほど心地のよい香りを漂わせてすうっと消える――、その意味ではなかなかによく出来、おとなしく程ほどの興行成績を出しそうな佳作だった。 ヨシプのやった端役というのも主人公のライバル兼親友という役どころで、今までの映像作品と比べると実に穏当で格好のいいものだ。 ただ、普段の彼を知っていると、 「君は君の信じた道を進めばいい――」 とか 「努力はきっと報われる。ピアノは君を裏切らない」 とかいう、ちょっと無責任なほど耳触りのよい台詞群にニヤニヤしてしまうのだが。 ともかくそこでヨシプに要求されているものは、少し印象に残る一種独特な雰囲気と、時折かすれる声。それでいて主役の領域を侵害しない無害なキャラクター性というものだ。 そのお仕事はきちんと果たされていたから、ジダンもクリスティナも、そして呼ばれて同行していたアキも、エンドクレジットでは気持ちよく手を叩いて映画の完成を祝った。 試写の後は、ロビーで軽い飲み物が振舞われての歓談となった。外はもうすっかり暗くなっている。 窓際に座った椅子の上で、アキがふーっとため息を吐き、なにやら感じ入った口調でこう言った。 「映画俳優さんって、ほんッと、すごいねー」 「?」 隣に座ったヨシプが彼女を見る。 「だってあんなモデルさんみたいなハンサムな俳優さんと、人前で濡れ場が出来るんだもの――」 彼女らしい感心の仕方に、傍に立ったジダンとクリスティナも思わず笑った。 確かに映画には、主人公とヒロインが愛を交わすシーンが割と詳細に、長いことあった。 フランス国内映画にはよくあることだ。時にはそれが「芸術的」と高い評価を受けたりもする。 なんでよ。 「確かに舞台じゃあそこまでなかなかやらないからなあ」 「でもキスくらいはするじゃない。時には女が上に乗っかって大騒ぎして見せることもあるし。なんだっけ? ワグナーのオペラで明らかにヤってるって時の二重唱が…」 クリスティナの言葉に、アキはいやいやと首を振る。 「それでもまず素っ裸にはならないでしょ。 すごいなー。あたしには絶対無理だよ。冷静じゃいられない。みんなそういうことで悩まないのかしら? 一体、どう感情処理してるんだろ…」 「――…」 クリスティナとジダンは顔を見合わせる。それから、メガネのクリスティナが、身を屈めた。 「なんか困ったことでもあるの? アキ。確か今、舞台稽古中よね」 「つーか、デミトリの劇団の第二回公演に参加するんだろ?」 「…うん。まあね。えーと、いや。大丈夫。 つーか問題というにも馬鹿馬鹿しい話なのよ。私のプロ意識が足りないのが全ていけなもがもが」 アキがグラスに額をくっつけるようにして言いよどんでいるところに、なにやら農道を横切るカルガモ一家のような集団がやってきた。 ピアノ指導者のマダム・ダールに引き連れられた、ピアニストの卵達だ。マダムは今宵も実に趣味のよい、優雅ないでたちをしている。 「あら、マダム…」 クリスティナもすぐビジネス用の笑みを浮かべ、ジダンも背筋を伸ばす――上品な年上好きの、脊髄反射だ。 「こんばんは、クリスティナさん、ヨシプさん。お久しぶりですわね」 「この度は撮影にご協力いただいてありがとうございました。どうかしら、作品は楽しまれました?」 「ええ。この子達にもいい思い出になりましたわ。ちょっとばかり、刺激のきついシーンもありましたけれどね。ほほほ」 気のせいか、誰かが鼻で笑った音がしたようだ。 「紹介しますわ。ジダン・レスコー、舞台演出家です。あと、こちらのお嬢さんはアキ。女優さんでヨシプの友達なんです」 「はじめまして」 「まあ、素敵な方々ね。こちらこそよろしく。アキさん、ジダンさん、この子達は、私の教え子ですの」 蝶ネクタイなんか久しぶりに見たなあ、と思いながらジダンは言う。 「ああ。映画に出てらっしゃいましたね。ピアノの実際の演奏もみなさんとか?」 「ええ、そうなんです。それとこの子は私の姪で――」 傍に立つ、十代終わりの少女を紹介した。 「姪御さん?」 「ええ。ヴィアンカです。いつもヴィカと呼んでますわ」 「――…」 ヴィカは、小柄で痩せぎすの少女だった。現代人らしい細い体に、小さな顔。美人とは言えないが、魅力ある顔つきだ。 ただ、彼女一人だけ他の生徒とは印象が違った。衣服はやはりきちんとしていたが、全身から、何か屈折した好戦的な気配が滲み出していて、敏感な大人達はすぐにそれに気付き、警戒を抱く。 「みなさん。ヴィカ。はじめまして」 ちょっとM気のあるジダンが素知らぬふりで探りを入れた。 「映画はどうだったですか?」 「素敵でした!」 「面白かったです」 「感動しました!」 「――そお?」 判で押したような従順な答えに、予想通り、槍を突き刺す者がある。ヴィカだ。 「作り話じゃない、あんなもの」 マダム・ダールの生徒達が一斉に「まただよ」という眼をしたのをジダンは見た。 「あたし、映画も演劇も小説も全然好きじゃないわ。だって全部絵空事だもの。何の役にも立たないし、本当のことには勝てないわよ」 「…ヴィカ」 マダム・ダールが横目で彼女を牽制するが、威勢のいい彼女は、それを無視するように、ぼけっとしているヨシプへと目を向けた。 「あなた、親友役で出てた役者ね。…役者って、どういう神経してるのか、全然分からない。 たった数日前に会った人相手に、べたべた友達同士の演技なんかして、格好つけた台詞吐いて、好きでもない相手と『愛してる』って裸で絡み合って、それで拍手もらってお金を稼ぐんでしょう。まともな商売じゃないわ。詐欺みたい。感覚おかしくならない?」 「ヴィカ…!」 その台詞に、ヨシプよりも何故かアキがどきりと体を揺らした時、ついにマダムが一歩進み出て、彼女の手を取ろうとした。 が、少女は慣れっこらしい。体をかわし、ふん、という様子で全員を見ると 「だって本当のことじゃない」 と言い捨て、一人ですたすた歩いて行った。 「……」 おとなしい少年少女達は、恐れ入ったような、非難するような眼で、突っ立ったまま彼女を見送る。 「まあ、ごめんなさいね。本当に礼儀知らずな子どもで…」 ジダンが如才なくフォローに入る。 「いいえ。面白い話でしたよ、マダム。マダムは俳優のジャン・ギャバンをご存知ですね?」 「ええ。もちろん」 「彼はボードヴィル芸人の息子で、勲章まで受けた名優でしたが、生涯『堅気な暮らし』をしたがっていた。役者というやくざな自分の商売が嫌いだったんです。有名な話ですよ」 「――確かに、あのコの言ったこと、本当は本当かもね」 マダムとコガモ達がしずしずと去って行った後、クリスティナがくいとワインを開けてこう言った。 「でも言い方が問題だわ。無作法で生意気なガキだこと…。…あら、どうしたの? 大丈夫、アキ?」 「うん、だ、大丈夫。ちょっとね…。あはは…」 「……」 三人のそばで、ヨシプは一人、出入り口のほうを見つめていた。 結局、出口の手前で親ガモと合流し、一緒に帰っていく少女を見ながら、なんとなく思っていたのだ。 三ヶ月前、あのやたら心地よい、ぬるま湯のような屋敷の中で、壁に爪を立てるようにピアノを弾いていたのは、ひょっとしてあの娘ではなかったか、と。 二日後。昼下がり。 アキはカフェの軒先に俳優のデミトリと座っていた。彼らは雰囲気の慣れた友人同士で、もう付き合いも長く、喧嘩も出来ればつっこんだ相談も出来る仲だ。 その親密さは、無造作に投げ出され、テーブルの下で]字に交差している四本の足を見ても分かる。 やがて、煙草を吸うのに飽きたデミトリが、灰皿に吸殻を押し付けて、言った。 「あのさあ、ずっと考えていたんだけど」 「何?」 立てた女性雑誌の奥でアキの声が答える。 「僕ら、結構仲良しだろう」 「まあね」 「こう、互いに火花のような感情を持ってるわけじゃないけど。いつも一緒にいてきたし、色んな問題も解決してきただろう」 「まあそうね」 「最近、意外とこういうさっぱりした関係性の方が、家族として長く、うまく行くのかもしれないって思うんだ」 「用件を言ってくれない?」 「――結婚しない?」 「……」 ばさり。と雑誌が倒され、アキの、眉間に皺の入った表情が現れる。 「――はい!」 演出助手の声が場の緊張を解く。一瞬にして空気が変わり、大勢のスタッフが一斉に発言を始めた。 「この台詞きっかけでラインダンスが入るの?」 「なんかピーター・セラーズの古い映画みたいなオープニングだな」 二枚目役から演出に戻ったデミトリが膝を叩いた。 「どんぴしゃ! 今回はあのイメージで行く。軽い娯楽コメディだ。衣装や装置の色もあの時代に合わすからな。こういうのは気負いが見えたら一瞬にしてダサくなる。飽くまで軽く、上品に。いいな! …あれ、アキ? 大丈夫?」 「う、うん。ちょっと外の空気吸ってきてもいい? 五分で戻るから」 「いいよ。行ってらっしゃい」 手がひらひら振られる。そして彼はスタッフ達との喧々諤々に戻った。 アキは稽古場のスタジオを出て、廊下の突き当たりの扉を開き、非常階段の鉄柵へとたどり着く。 寒いし、すぐ下は道路だし、別段吸いたくなるほど新鮮な空気でもないのだが、アキはそこに頭を伏せ、 「はーっ…!」 と思う様ため息を吐いた。 彼女は今、デミトリの主宰している劇団の定期公演にゲストとして参加していた。劇はコメディタッチの探偵物語で、腐れ縁の男女が事件に巻き込まれてすったもんだの末に解決。しかも恋の花まで咲くというありきたりで他愛もない、娯楽的な作品である。 アキの役はその腐れ縁の女の方で、主役のデミトリは劇中、しつこくしつこく彼女に「結婚しない?」と言う。 二時間のうちに、五回は言う。 アキは最初「はあ?」とか「なんの冗談?」とか言って非常に冷たいのだが、最後の最後に彼に命を救われて、一気に好きになってしまって結婚を承諾する。 実に他愛もないコメディだ。 げらげら笑って少し感動して、最後にすっきりして劇場を出て行くという。 脚本を読んだアキだって、エビぞりになって笑った後、明るい気持ちでぽーんと出演を決めた。 ところが稽古が始まって、一週間も過ぎるうちにアキはなにやら――、おかしな気分になってきたのである。 なにしろ、アキはここのことろ、毎日デミトリの顔を見ているのだ。 日中、家族のように何時間も一緒にいて、下手すると昼も夜も一緒にご飯を食べ、その上、一日に十回も二十回も「結婚しない?」と子犬のような目ェで囁かれ、挙句命を助けられるのだ。 いや、だから。分かってはいる。 こんなものは仕事で、やっていることはお芝居に過ぎず、デミトリは決められたとおりに真剣に芝居しているだけなのだと。 だからそれは、デミトリが上手なのだ。それと、今回はプロの脚本家が書いたという台本がうまいのだ。 おとぎ話と分かっていても、思わずくらっと来てしまうような魅力的なストーリー展開になっている。 だが、それで役者の自分が本当に「その気」になってしまってどうする! アキは自分がかなりバカな思い違いをしていると重々分かっていた。そのために一層、誰にも言えず、一人で慌てていた。 やばいやばいやばいって、わたし。 こんなの、前の恋人ヤコブに知れたら冷笑くらいじゃ済まされない。 つーかいくら一人身で寂しいからってこんな見え透いたドタバタコメディの筋に足を引っ掛けられるなんて、いい加減痛すぎでしょ! ばかばか、しっかりしなさいよ。信じられない。 大体、相手はあの、デミトリなのよ? 確かに彼は今、フリーだけど、今まで、異性として意識したことなんか、なかったでしょうが…! タオルを口元に押し当てて、一人で眼をグルグルさせている彼女の後ろで、キイと扉が開く。 顔を出したのは、当のデミトリだ。 「おーい、アキ。そろそろいい?」 「あっ! うん! 大丈夫!」 アキは飛び上がるが、何も知らないデミトリはもちろん当たり前の顔だ。 どうでもいいが、彼は確かにちょっと全体が野暮くさいけれど、実はかなり男前で、一旦心に入ると後は際限なく愛せてしまう顔だと、今頃気付いた。 「……」 「…あの、アキ。俺らのやり方、絡みづらい?」 「ひぇッ? いや、そんなことないよ?」 「いや、ならいいんだけど。何かあったら遠慮しないで言ってよ。俺、またあんたと芝居できて嬉しくてさ、夢中で色々やってるから、至らない点があるかもしれない。悪気はないんだけど、あんた困らしてたらいけないから――。 さ、行こうか」 「……」 いや、デミトリは仲間思いの、前からこういう男だ。 なにせあだ名が「かっこ兄さん」だもの。 肩に手を回すことだって、よくある親愛の表現だってば――。 演技。錯覚。仕事。友情。 稽古の間中、アキはその四語を繰っては必死で自分を押さえつけているものだから、毎日、稽古場を出る頃には、水から上がった時のようにドッと草臥れて、道路に突っ伏したいくらいだった。 |
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