淋しい朝







 齋藤さんが死にました。今さっき報せが参りました。葬儀は故人の希望で行わない為、もとより参列の心配は無用とのことです。
 昨日の昼過ぎ、友人のKさんが宅を訪ねておいでになり、齋藤さんが危篤状態であることを教えて下さいました。私は近頃全く家の用事ばかりを行うようになっておりますので、お体がそれほどお悪いものとは初耳でした。
 私はKさんに住所をお伺いし、急いで身支度を済ますと俥を雇って本所横綱へ走らせました。玄関にて自分はこれこれのものであり、昔結婚の際、齋藤さんに仲人をして頂いたご恩があるのだと取次ぎの方に申し上げました。
 しばらく待つと、先ほど取り次いで下さった方と一緒に、三十二、三の女性の方が見えました。その方が、
「大変申し訳ございませんが、齋藤は、もうお会いしたところで言葉も充分に話せませぬし、お見苦しい姿をさらすばかりでございますので、お名残は尽きませぬが、どうかご勘弁下さいとのことでございます」
と、玄関の板に両手をつき、大変ご丁寧に断られました。私は、お会い出来ぬと考えていなかったせいか、しばらくその場でその方のお顔を見たまま、逡巡してしまいました。
「もうそれほどにお悪いのですか」
「もって二日か三日でございましょう」
「…何か、お手伝いできることがございましたら、どうかご遠慮なくご相談下さいませ。私、昔齋藤さんには言葉に尽くせぬほどお世話になりまして…」
「どうもありがとう存じます。けれども今となりましてはもう手遅れでございましょう」
 私はその時、その方が頑なにお顔を上げようとしないままお話になることや、言葉尻が僅かですが冷たいことなどに気がつきました。
「お気持ちのみありがたく頂戴いたします」
 帰らねばならないことが分かりました。東京を離れて数年のうちに、あの齋藤さんにも、庭や身内といったものが生じていたのでございます。
 私はまた俥で帰りました。空はまだ少し薄水色を残していましたが、もう辺りは暗くなり、家々は黒く切り抜かれてその窓から黄色い灯りが十字を刻んでおりました。
 何か、久しぶりに夕間暮れを走るせいか、万華鏡をのぞいた時のように不思議な心持が致しました。車夫の足に合わせて揺れる俥の中で、何年も前に死んだ姉さんのことや、母のことや、齋藤さんのことや、Kさんのことや、次々に溢れ出して、それが帯の文様、組紐の色目、傘の蛇の目や橘の花と混ざりました。
 私はうっとりしました。
私の若い頃の話でした。
それからやっと涙が流れてまいりました。





 齋藤さんが昔住んでいた丸山町の宅へいらしたのは、姉を訪ねてのことでした。姉は子供の頃からの文芸好きが嵩じて、女だてらに小説などをものしていたのでございます。私が二十歳になった頃には、かなり有名な女流小説家として雑誌社と契約を持ち、家に原稿料をもたらすようになっておりました。
 それでも父母の代から積み重なった借金は容易に消えるものではなく、姉が原稿を書く隣の部屋で私と母は針仕事をする毎日でした。
 姉はさばさばした性格で、男の方にも物怖じしない人でした。その人となりが男よりも寧ろ女の方に攻撃されていたのは今考えても面白いものです。
 姉は多くの客を家に迎えました。Kさんは早くから常連となり、また別の多くの文士さんを連れておいでにもなりました。皆さん文学をなさる若い方ばかりでしたから、私と母は隣室からそっとのぞいたり声を聞いたりして、その男振りを窺うというはしたない真似を楽しんでいたものです。
 妹の目から見ても、明らかに姉の愛情は争われていました。中にはBさんのように姉の写真を強引に取って行ってしまわれたり、自分から殊更姉と親しいように他人に吹聴なさる困ったお方もおいでになりました。
 齋藤さんはそういった派手なことはなさいませんでした。ただ最初に来訪なさって以後は、かなり頻繁にお見えになったように思います。その度ごとに実に長々と話をなさるので、私は一度姉に、「一体何をそんなに話すことがあるの?」と尋ねたことがあります。
 姉は笑いました。
「あの人はBさんやSさんの悪口を言うのよ。あんな莫迦ドモを周りにおいておくと碌なことはないから、早く追い払ってしまったほうがいいって」
 軽挙でなくても、これではその批難している相手のしていることとそれほど違わないわねえと私たちは笑いました。それでもひねくれ者の姉は齋藤さんと気が合わぬでもないようで、前触れも無く、時には夜に訪れる齋藤さんと、辛抱強く、時には楽しそうにお付き合いしておりました。
 その姉も一年に満たないうち、死にました。もう何年も前から結核を患っていたのが、とうとう体全体を打ち倒してしまったのございます。
 今でも大家でいらっしゃる医学者の森先生は、その頃雑誌の中でよく姉のことを褒めて下さっておりました。齋藤さんが先生に特に頼んで下さり、姉はその筋で有能なお医者様の診療を受けることが出来たのですが、もはや手遅れでした。
 あら私今、手遅れと申しましたね。齋藤さんの処においでの女の方と同じ言葉を使いました。結核とはそういう病でございます。気が付いたときにはどうにもならないことが大半なのです。そして結核による死とは、そういうなんとも片付かぬ、悔しい、誰かを恨みたくなるようなものなのでございました。
 姉が死んでも、私どもにはお金がありませんでした。通夜も葬儀も一番質素に、身内のみで行う他ございませんでした。それでも四、五名のお友達が寂しい席を埋めて下さいました。
 齋藤さんも参列者の一人でした。喪服を着て、線香の匂いの立つ一間の端にきちんと座っておいででした。
 齋藤さんは男の方ですから、当然お泣きにはなりませんでした。それでも普段は刃の滑る様な鋭い眼差しを少しぼんやりと、自分の座っているところから五寸ほど前へ投げやるようにしておいででした。
「すみません、齋藤さん」
 私は、通夜の最中に齋藤さんを廊下へお呼びして相談いたしました。
「森先生が、明日の葬儀に騎馬正装で参加なさりたいと言っておいでなのです。お断りしても失礼ではないでしょうか」
 狭い廊下の中で齋藤さんは、声も無く、歯を食いしばるようにして笑われました。
「大丈夫です。言っておやりなさい。失礼なことはありません。どうか先生を許してあげて下さい。あの人は貧しい者たちの葬式がどの様なものか知らないのです」
 それで私は森先生に丁重なお断りの手紙を送りました。ご香典もご辞退申し上げようと思ったのですが、これは齋藤さんが強く受け取るようにと仰ったので、ありがたく頂戴いたしました。
 お葬式が終わった後は、私も母もしばらく虚脱してしまいました。姉の晩年はともかくも華やかなものでした。それが姉と一緒に私たちから取り去られてしまったような気持ちでした。
 借金は依然として残っていました。姉は原稿を引き換えに金を借りることの出来る人でしたが、私はその姉の残光をつてに人に縋ることが出来かね、また母は寂しさも情けなさも全て私に向けましたから、私どもは苦しい年月を過ごしました。
 時々旧知の方や雑誌社の方が所用で尋ねて下さることがありましても、私どもが針仕事をしているのを見ると、気の毒そうな顔をしてすぐに席を立たれるのが大体でした。もとより私や母には、その方々に申し上げる一つの話題も、持ってはいませんでした。
 私は思いました。姉は偉大であったと。姉は偉大であったと思いました。姉は偉かった。偉かった。洪水のようにそう繰り返していると、いつの間にか涙が落ちているのが常でした。そういうことは、夜に多かったようです。






 齋藤さんは姉にご厚意のあった友人方の中で、実際に融通を下さり、借金取りから私と母を庇い、間に入って調整を下さるただ一人の方でした。
 一年ほど後、母が労苦の果てに死んだ際には、葬儀を世話して下さっただけでなく、そのご焼香に二十円近いお金を出して下さいました。そして母の葬儀が片付いた後には、母を苦しめ姉を苦しめた私どもの家の借財まで、きれいに整理して下さったのです。
 私は荷物をまとめた後、雑誌の発行者であるOさんのお宅へお邪魔になるように言われ、そこでじっと待っておりました。齋藤さんは翌日お見えになり、例によって声も出さない笑みを見せて、「これだけになりました」と、丸山の家財道具を売り払った一円三十銭を私に下さいました。齋藤さんは、お一人で細々した支払いを清算し、数人の債権者を煙に巻いて追い返し、延々と続く借金の連鎖から私を解放して下さったのです。
 私は、この方の悪い噂を幾らでも聞く機会がありました。森先生の弟さんは、倣岸な皮肉屋で信用ならない人物であると仰いました。文士に付物の遊里遊びに暇が無く、艶めいた派手な噂もあるのだと聞いたこともございます。
 しかし齋藤さんの手は、現実に誰よりも私を助けて下さった手でございました。森先生の手は、姉の葬儀に騎馬で参加したいとお書きになった手でございます。ましてや新聞記者の手になる文章が幾らあったとして、私に何の関係がございましょう。
 世間というのは勝手なもので、あの齋藤がそのように私に親切にするのも何か魂胆があるに違いないと言ったりした人があったようです。私もその頃には捌けておりまして、それならそれでいいじゃないの、というくらい撥ねッ返って気にも致しませんでした。
 私はその後、小石川のある文具店に移り、住み込みでそのお店のお手伝いをさせて頂くことになりました。齋藤さんはそこにもKさんやAさんと連れ立ってよく訪ねてきて下さいました。昔と違って長居はなさいませんでしたが、変わらぬご親切な面持ちで、私の生活に不便が無いか、不備はないかとお尋ね下さるのでした。
 半年の後、周囲の方々のお蔭様でようやく心根の落ち着いた私に、縁談が参りました。相手は文具店の跡取である、吉江さんでした。
 私はその話を当時の店の主人から、提案という形で聞きました。そしてもし話がまとまるならば、私どもの仲人を齋藤さんが引き受けて下さることになっている、とお聞きしたのです。
 そのお話の三日後、齋藤さんがお一人で遊びにいらっしゃいました。少し照れたなりで扇を振りながら、文具店の店先に見えたのです。
 普段は立ち話もありましたが、その折は特に許しをもらい、私、店を抜けました。奥の客間でお茶をお出しし、私は本当に久しぶりに、齋藤さんと向かい合って座ったのでございます。
 その時の齋藤さんは、少しやつれておいででした。昔から痩身な方でしたがそれだけではなく、頬の辺りに黒い疲労がべったりと張り付いて影になっているのです。表情や髪の毛もどこと無く崩れて、少し荒んだ印象を人に与えました。
 でも、私に向かっては努めて明るい目をしようとなさっておいでなので、私も気にしないことにいたしました。もうそんな些細な事柄をお話し合う時間は無いかもしれない。私はどういうわけかそんなことを、感じていたのでございます。
 私は、齋藤さんの度重なるご厚意にお礼を申し上げました。すると齋藤さんは皮肉に慣れた唇でニヤニヤお笑いになり、楽しそうに仰いました。
「私とあなたの間が云々て言ってた連中は、齋藤は今度はどういうつもりかと吃驚するかもしれませんねえ」
「そうですね…。それは私も少し思いますから」
「然様でしたか?」
 齋藤さんと言いましたら、文壇では悪意の塊の様な存在で、人をこき下ろす不愉快な男であるという評が今でも当たり前です。そのやり口は鮮やかな文体であったとは申しましても、人々の浅ましさや低俗さを暴いて容赦の無いところは、世に意地悪な印象を与えたのでございます。
 けれども、私ども家族に対して下さった齋藤さんのご厚意は、それだけを目的にされて見返りを求めない、つまりは無償のご親切でございました。それを頂くことがどれほど稀有なことであるか、姉の苦労を考えても、すぐと分かることでございます。
 齋藤さんは姉と親しかったとはいえ、その期間は短く一年にも足りません。世評を気にして自分の株を上げようなどと考える方ではないことは無論です。世間の人々がどうしてこれ程までに、と不思議に思うのと同様に私も、正直不思議に思っておりました。
どうしてこれ程までに。
 そうお尋ねすると、齋藤さんは顎を引かれ、しばらく黙られました。目がどこか、この世で無い場所へ向けられているようでした。
 居住まいを正したままどこかぼんやりしているそのお姿を私は一度拝見したことがありました。姉の、通夜の際でございます。
「文士齋藤は、もうすぐいなくなります」
追憶に半身を浸したまま、齋藤さんは、そう始められました。
「今の文壇は、年単位で目まぐるしくかき混ぜられてます。この数年でまず文体が変わりました。小説というものの形式も変わりました。それをやる連中の趣味も変わってます。
 私のように江戸気質の、遊びや洒落を基本にしたもの書きは、じき洋行帰りの若い文学者、小説家にすっかり取って代わられるでしょう。
 それが全体の動きだと私は数年前から感じ、簡単に言って面白くありませんでした。たかが三年や四年前から洋書を読み始めたような連中が、偉そうに沙翁だの拉丁(ラテン)語だのって錦の御旗よろしく振り回して、やれ社会小説だ深刻小説だ…。
 小説は悲しいものでも楽しいものでも、もっと洗練されたものじゃなくちゃいけません。歌舞伎と同じで、二日仕込みの芸なぞを客に見せちゃあいけないんです。
 …私はそう信じてますが、しかしこの考え自体がもうすぐ時代遅れになるでしょう。私は今では少し落ち着いてこんなお話が出来ますが、四、五年前には先ほど申し上げた面白く無さで頭が一杯でした。じわじわと自分の文章が求められなくなり、居場所が侵略されているような気持ちがして、いかにも焦っていたのです。
 丁度その頃でした。あなたのお姉さまの小説を拝読しました。私は飛び上がりそうになりました。それはまさに、私が書きたいと思ってたような小説だったんです。
 そして即座に私は、ここに書かれていることを正しく理解できるのは自分だけだと思いました。坊ちゃん育ちの森や、洋物かぶれの書生連中にこの小説が理解できるわけが無い。
 日暮里の煙、吉原の青白、遊里の心中。これは私の世界だ。私の領域だ。この小説は、私のものだ。
 …その後は、ご存知の通りです」
 齋藤さんは微笑まれました。音も無い笑みでした。
「私はあなたのお姉さまとお話をしながら、無我夢中でした。私はあなたの一番の理解者であると悟らせたくて、夢の中でした。
 明治二十九年、お姉さまの命が危ないと分かった時、やっと私の目は醒めたんです。私は一体何をしてたんでしょう。ある女性の晩年に貴重な時間を奪い取って、その人に伝えていたことといえば自分のことだけです。本当に自分のことだけです。口ではあなたの為にならないから、つまらない連中を追っ払えなどと言いましたが、それも全て自分のためです。
 お姉さまがお亡くなりになって、私の後悔は取り返しがつかなくなりました。私は自分が汚い奴だと思いました。そんなふうに考えたことは今まで一度もありませんでした。私は自分が汚いと思ったんです。
 不思議なもので、それから私は色々なことに歯止めがかからなくなりました。情けないから戒めていた愚痴や、遊里通いや、何もかもが桜が散るみたいに取り留めも無いのです。
 けじめなど何処かへ行っちまいました。遊びの粋なんてのも何だか分からなくなりました。今の私はただ金を払って、不幸な女達を貪っているだけです。
 どの道、こんなことではもう齋藤も長くありません。その前に何とか、あなたのお姉さまを利用した(なんて厭な言葉でしょう!)償いをと、それだけをよすがにここ二、三年を凌いで来ました。
 …だから、私の致しますことに、ご感謝下さる必要はないんです。私はこれもまた自分のために返しているだけなのです。こんな卑怯な男の媒酌などで不愉快ではございましょうが、最後のご縁だと思って…、あなたのご成婚のお手伝いを、どうかこの齋藤にさせてやって下さい」





 次の年の始め、私は齋藤さんに媒酌をお願いして、吉江さんを入り婿に結婚をいたしました。齋藤さんはその一年後から急に体調を崩され、療養のために鵠沼の方へ転地なさったのです。その頃には勤めていた新聞社も退職なさっておいでで、数年後には東京へ戻られましたが、その生活はかなり苦しいものであるらしいとKさんなどからお聞きすることがありました。
 それらのことから四年が経った今日、齋藤さんの死の報せが届いたのです。死に導いた病は、姉のそれと同じ肺結核。誰にも看取られないことを望んだ淋しい死に方でございました。
 齋藤さんの死が、文の潮流の中でどのような意味を持つのかなど、私に測れるものではございません。また、一個の人間として齋藤さんがどのような方であったのか、数年間お付き合いしただけの私などに言えることはございません。
 ただ私は、私は汚い奴なのだと仰った方が今はこの世にいない今日の朝を、とてもとても淋しい気持ちで迎えております。









【了】
03/08/16



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