後編 「 ↑↓ 」







 春のうららの隅田川
 のぼりくだりの船人の
 櫂のしずくも花と散る
 眺めを何にたとうべき




 暑い暑い夏の午後だった。太陽があまりに凶暴なので世界は死絶えたようになって、男の時計も止まっていた。アトリエの肌色の木床に、窓枠の黒い影が交差し、彼のほんのつま先まで光が迫っている。
 だが、毎日の経験から既に彼は知っていた。今の季節、自分が座っているところまで陽が届くことはない。ここが頂点であり、これから先、この世の大王太陽は西へ傾き始めるから。
 扉が開いて、可南子が現れた。冷やした紅茶を二つ盆の上へ載せている。廊下まで歌が聞こえましてよ、と彼女は言う。
「懐かしいこと。女学校で歌ったわ」
「うん」
 男は頷いて、向かいに腰を下ろした妻から飲み物を受け取った。指先にひんやりと気持ちよい。彼女は実によく気の付く女性だ。絵ばかりで世事にとんと感覚の発展していない男には、可南子の知恵や気の周りぶりが時折驚異ですらある。
 それを告白すると彼女は笑って、これくらいは普通よ。あなたが疎くていらっしゃるのよ、と簡単に収める。男はもう、妻には完全に服従だった。
 皺に絵の具のこびり着いた指が、下からレコードの針をすくい上げた。女学生の合唱が夢のように消える。
「あら、よろしいのに」
「うん」
 男は頷くだけは頷いたが、眼鏡の奥の表情は見えなかった。針をそっと戻すと、レコードの回転を止める。そしてガラスカバーを静かに閉めた。その最後の動作が終わると、室内は衣擦れの音すら聞こえるような静けさとなった。
 窓からの光に煽られた二つの影が、時折手の中のきらきら波打つものを口元に運ぶ。外で南仏の夏が燃え盛っていても、室内は清涼で平穏で、そして無音だった。
「とても…、静かになりましたわね」
「うん」
「小鳥さん達は、どこへ行ったのかしら」
「うん」
「どこかで暑さを避けて休んでいるのかしら」
「うん…」
「あなた」
「ん?」
「…日本にお帰りになりたいの?」
「………いいや」
 男の親指の腹が、グラスの縁をなぞった。
「そんなことは、ないよ」
「…そう? それならば、よいのですけれど」
妻は優しく微笑んで口をつぐんだ。
 そして室内に静寂が戻る。男は何とはなしに、描きかけの絵に目をやった。妻もそれに気付いて顔を上げる。
 彼は今、パラディソ(天国)の絵を描いているのだ。カンバスの中には馬や、鳥や、魚や、人々が、みな薔薇色の線で描かれ、いとも幸福そうに手をつないで、イエス・キリストのある高みへ視線を投げかけていた。




*




 何かが変だ。
そう思い始めたのは1946年の終わり頃だったろうか。敗戦の混乱が起きていた頃には寧ろ互いに助け合うかのように顔を合わせていた知人達が、なんとなく家によりつかなくなった。手紙を出したりすれば返事は来るのだが、誘いは丁重に断られることが多く、ぼんやりしていた男は、まあ厳しい時期だからなのだろうと思っていた。
 だが、新聞社や二科会の役員達の態度はもっとはっきり冷淡なもので、それに接しては男も何かあると思わずにはいられなくなった。
 思えば変だ。何故自分が通り過ぎた後人々がこそこそと言葉を交わしては批難がましい目を向けて来るのだろう? 次の作品の話をしても、二科の知り合いが薄ら笑いで生返事だけしているのは何故だろう? 何よりも称賛続きだった作品に対して急に無視しか返ってこなくなったのは何故だろう?
 男は世間の動きを不思議に思った。年をとるのはこういうことなのかと片付けかけた。けれども作品に対してまで突然冷然とされると意味が分からない。作風が古くなった? しかし昭和20年まで良しとされていたものが21年から突然良くなくなるというのは理解できない。
 気の毒げな妻の視線の前でただ当惑していた男に、親切に状況を説明してくれたのは、医者である彼の一番上の兄だった。男は今でも、家の応接に座った兄が、
「お前、戦中に軍部に協力して映画を撮ったり絵を描いたりしていただろう」
と口にした時の衝撃を忘れることが出来ない。
「まだこれくらいで済んでよかった方だ。本当はお前を戦犯として処罰しようという動きもあったくらいなんだから」
「なんですって?」
「終戦の年に一度進駐軍に呼ばれたことがあるだろう。あの時の評価が良かったから、裁判にならずに済んだのさ。気付いてなかったのか?」
 男は妻の出した冷たいお茶も忘れて兄の顔を凝視した。
「どうしてです? どうして僕が戦中したことで戦後の絵の評価が変わるんですか? いや、戦犯なら致し方が無い。戦中、僕の描いた絵や僕の作った映画のせいで、国民達を狂わしたというのなら、その咎は背負ってもよい。
 けれども、絵は。絵は関係ないじゃァありませんか。絵の中にある美は普遍的なもので…」
「あのな、毅。昭和14年まで、お前の絵がちやほやされていたのは、パリで高い評価を得たからだ。お前の絵は『パリで有名な画家』の絵だったんだ。
 昭和20年まで、お前の絵があちこちに展示されていたのは、『お国のために尽くすお国の画家』の絵だったからだ。朝日文化賞だって従軍への褒美だぞ。お前が作った映画にじゃない。
 そして今お前はな、『戦時中、軍部に協力した悪い画家』になってるんだよ。だから、お前自身も厭われるし、絵も取り上げられないのだ。お前と付き合うのは失点になる。だからみんな寄り付かない。
 しかし呆れたな、本当に分かってなかったのか? 世の連中は、このどんでん返しに着いて行き損なったお前を、遠くから憐れな思いで見ているよ」
 なんだって? 男は唖然とした。いや寧ろ腹が立った。目の前でしゃあしゃあと説明を展開する兄を殴ってやりたいほど腹が立った。その場ではなんとしても納得できぬと結局の喧嘩別れとなったが、彼がいなくなると、独りぼっちの客間で、彼は知らねばならなかった。兄の言うことが当たっているのだということを。
 今後この国で評価されようと思ったら、努めて民主的なスタンスを取らねばならないのだと分かった。日の丸を厭い、君が代に眉を潜め、天皇は人間だったのだ、我々は騙されたのだと公言し、何も無かったことにせねばならないのだ。昭和20年以前の自分を。
 そうしたら、初めて絵を……。そうしなかったから今の自分は……。降伏前には、あれほど……。…それもみんな……?
 ――――――その時、がくっ。
と全身が揺れた。彼は椅子に座っていた。だからそこから落ちることはない。だがその一瞬確かに彼は、自分がどこかへ落下したのを感じた。
 それは、音も無い落下だった。
星も鳥も、なにもかもが落ちていくような気持ちがした。落胆という言葉では受け止めきれない。世界と自らをつなぐつり橋が落ちたような、その深い底なしの谷間に、脳だけが落ちたのである。




*




見ずやあけぼの露浴びて
われにもの言ふ桜木を
見ずや夕ぐれ手をのべて
われさしまねく青柳を




*




「お座りください、森田サン」
「はい」
「最初に申し上げておきますが、これは尋問ではありません。肩の力を抜いて、気楽にお話して下さって結構です。私は担当官のシドニー小村といいます。…森田サン? 肩の力を抜いていいのですよ」
「はい、すみません」
「…あなたも国民服なのですね」
「はい?」
「昔、本国の新聞であなたの写真見た時は、あなたはスーツを着ていました。今は、軍服みたいな国民服で、それに頭も、お坊さんみたいですね」
「ええ。…私の髪の毛が長いと仰る方がおりましたので…」
「それで、頭を剃ったのですか?」
「ええまあ…」
「そうですか……。…さて森田サン、あなたが仏蘭西から帰国なさったのは、1939年ですね」
「はい」
「欧州で戦争が始まったからですか?」
「はい」
「その後、作品の製作はいかがでしたか?」
「…ものが少なく、大変でした。空襲が始まるころには、絵の避難も考えねばなりませんでしたし…」
「そうでしたか。従軍して、中国や朝鮮半島で映画を撮っていたこともあるとか」
「はい。それは宣伝部の仕事でした。僕も技術はほとんど無かったのですが、父の知り合いからたってと頼まれまして…。…あれは楽しかったなあ……」
「……お父様は、軍医でらしたとか」
「はい、そうです」
「では自然と軍の関係に知り合いも多かったのでしょうね」
「ええ。それも、今回の戦争でたくさんお亡くなりになってしまいましたが…」
「戦争は、お嫌いですか?」
「はい、嫌いです」
「では、どうして軍のために働いたのですか?」
「…僕は…、人の役に立ちたかったのです」
「………」
「油絵だなんて、ちッとも人の役に立ちはしません。その上僕は手のかかる人間で、特に若い頃は世間にも馴染めず孤独な性質で、両親にも友人たちにも迷惑の掛け通しで参りました。
 だからあなたの力が必要なのですと言われたとき、僕は、ああこれで恩返しができると思いました。僕にできることなら何でもしたいと思いました。たとえそれが自分の専門と違うものであっても、…そのために父と母が報われるのであればとがんばれました。
 依頼でお国のために絵も描きました。『朝日の岬』や『レイテの戦線』…。…もっとも、あれはひどく、不評でしたが…」
「………」
「………」
「………」
「…あの、もしかして、僕の言うことは、変でしょうか」
「…いいえ、変ではありません。少しも変ではありません。あなたのお気持ちは、私には大変によく分かります…」


 ……………
 ……………


「それでは、お世話になりました」
「…森田サン」
「はい」
「これは私個人の感想ですが、あなたの描かれた『レイテの戦線』は…」
「………」
「画面から、人々の阿鼻叫喚がこぼれて来るかのようでした。人の身に生まれた悲しさと、戦争のできる男の体に生まれた悲しみが伝わってまいりました」
「ありがとうございます」
「我々は家族のために戦争をします。あなたも家族のためにあの絵を描かれたのでしょう。少なくとも天皇のために描かれた絵でないことは確かです。どうかこれからも、創作をお続けください」
「ありがとうございます」
「日本の主権が回復されたら、早いうちパリに戻られることをお勧めします」
「………?」
「飽く迄も、私個人の懸念ですが」




*




錦おりなす長堤に
くるればのぼるおぼろ月
げに一刻も千金の
ながめを何にたとふべき




*




 ポントスは相変わらず杖と手袋を振り回していた。既に六十近いはずで、顔にも白人特有の遠慮ない皺がいくつも流れている。それでも全身から立ち上る雰囲気はまだ30年代であり、たった一人で古きパリを引き受けてでもいるかのようだった。
「帰ったか、僕の赤猫。日本の枯れ木」
「ポントス…」
「さ、抱いてくれ。パリも変わったが俺は変わらん。幸いなことに、ここの料理も昔のままだ」
 男は椅子に座った彼のほうへ屈み込むと、皺だらけの首に両腕を回した。ポントスの手がぽんぽんと肩を叩く。眼鏡がずり上がるほど彼にしがみついた。涙が出そうだった。
「なんだなんだ老けたな。これじゃ赤猫じゃなく白猫だ。奥さんは元気か? 祖国の連中はどうだったね?
 その年でまた国を捨ててくるとは…、終わりまで放浪の血絶えず、か」
 力なく笑う男の顔を見て、ポントスはその背景にある事情をおおむね察した様だった。二、三、注意のこもった質問をして、憔悴した彼の心持を探る。それから椅子の背に顎を反らした。
「…そうか。もう、戻らないつもりか」
「…彼らは、僕の作品を、作品として、評価してくれることがない。社会的に地位の低い作家はその作品の評価も低い。当然のことだと思ってるんだ。
 そんな状態で一体どうやって話し合いをすべきだろう? …戦中は最高の、戦後は最低の作家として扱われ、講和条約まで五年強…」
男は首を振る。
「もう草臥れたよ」
「………」
 ポントスはマッチを擦って紙巻に火をつけた。一息目を深く肺へ潜らせると、突然老いを感じさせるような、長いため息を吐いた。男が驚いて彼を見ると、灰を落とし、ちょっと微笑んで見せる。それから、口を開いた。
「…ここでも、独軍が居座っていた頃には、いろいろなことがあった。あの総統殿は芸術バカでその上見る目が無くてな、ピカソやマティスを含めた諸作品をセンスのない芸術として美術館から排除した。
 だもんで識者、芸術家、学生共は大反発だ。それはまあ当然なんだが、硬化した彼らは独逸芸術に対しても同様に度外視の態度を見せた。
 あの頃は…、反独逸が合言葉だったな。全ての独逸的なもの、絵画、文芸、音楽…、何もかもが暗黙のうちに、あるいは公然と無視された。それが良識のある態度というものだった。
 だが君も30年組なら分かってくれるだろ。俺はね、もともと政治になんぞ興味が無いんだ。だから、どの国の人間であろうが、どんな人種に属していようが、いいものはいいと言わざるを得ないんだよ。
 ある雑誌にハインリヒ・ブラウンという名のドイツ詩人の作品を評価する文章を載せた。その三日後だったか、四日後だったか、俺は通りで襲われたよ」
 男はその時、初めてポントスのテーブルクロスからはみ出している右足首が、些細ではあるけれども何か、言い様も無く変形していることに気がついた。思わず口を開けると、彼はニヤリとしたものだ。
「…『ローラン・ポントスだ!』
ご立派。狙い撃ちだ、分かっててやったんだ。片足くらいで済んでましだったかもしれん。もちろん犯人なんぞ捕まってない。顔を覚えていないのかと言われるかもしれないがね、そりゃあ君、骨を折るってのは痛いもんだ。
 ユダヤ人狩りはもちろんあった。独逸兵どもが国で息子の巻き毛を解きほぐすその手で女子供をぶん殴る。最悪の蛮行さ。
 では終戦の際に仏蘭西人がやったことはどうだろう。独逸男と関係した女たちが片っ端から引きずり出され頭を剃られた。つるっぱげさ。首から札を下げさせられて、暴行されトラックの荷台に詰められ、そして広場へ。それがこのパリで実際にあった」
男の視線を受け、ポントスは苦々しく笑いながら頭を振った。
「…俺には、分からん。彼らは何を求めている?」
「………」
「世界中の人民共は、世界がどうなれば満足だ? どうすればご満足いただける? 一体何を求めてる?
 これでも半世紀近く生きてきた。だが、彼らの考えていることは、俺には未だ、さっぱり分からない」
 食事が運ばれてきた。二人はしばらく黙ったまま、えんどう豆のスープを匙でつついた。
 パリに暮らしていたポントスの中にさえ、谷があった。彼は見せ付けられた人間の残虐性に傷ついていたのだ。男は同情すると同時に、自分がたった一人ではないことに気がついて、奇妙な慰められ方をした。
「…時に、露西亜のブランコ乗りのことを覚えてるかい」
 ふいに、ポントスがそう言った。話題を切り替えようとしたことが分かったので、男も微笑んでそれに沿った。
「えーと…、タージャ君のこと?」
「それそれ。奴はまだ合衆国にいるよ」
「懐かしい、何をしてるんだろう?」
「俳優さ。歌も歌ってる。ちょっと古いがラジオで聴いたことないか? ジョニー・アリスの『Free Sky Light Blue』」
「えッ?! あれ、タージャ君なのか?」
「名前を変えてるんだ。『タージャ』じゃな。舞台でミュージカルをやってあっちで死ぬ程受けた。今じゃ彼がモンパルナスをうろついてた汚いガキだったなんて誰も知りはしないよ」
「…じゃあ今では、彼のほうが余程お金持ちだね」
「大金持ちさ。レコードも出す、映画にも出るだからな。今度会ったら恵んでもらうのは俺たちのほうだ」
「ははは」
 皿が下げられ、赤いワインが注ぎ足される。
「…あいつがブランコから落ちたときには、どうなることかと思ったが…」
目の下に深い皺を描いて、彼は追憶にまぶたを閉じた。
「思えば、あれがあいつの飛翔の始まりだったんだな」
「………」
 僕を買ってくれませんか?
そう望まれた時の、何も持っていない寂しい青年の声を思い出す。男は彼を眺めた。彼の空を飛ぶ体を上から眺めた。男はその頃まさに、パリの画壇の寵児だったので。
「ジョニー・アリスもとい、あの頃のタージャに」
「タージャに」
 共に寂しげな眼差しを抱きながら、二人はグラスを持ち上げる。寄る辺無く飛ぶこともできないでいた少年に向けて、今は地上から乾杯を掲げた。




*




束縛の無い青い空
それは心の中にある
翼を広げて飛びあがれ
自分の中の自由な空へ




*




 扉が開いて、可南子が現れた。冷やした紅茶を二つ盆の上へ載せている。廊下まで歌が聞こえましてよ、と彼女は言う。
「懐かしいこと。映画の曲ね」
「うん」
 男は頷いて、向かいに腰を下ろした妻から飲み物を受け取った。指先にひんやりと気持ちよい。南仏の夏は続いていた。
「昔会ったことがあるんだよ」
「まあ、ジョニー・アリスに?」
「うん。パリの居酒屋で、偶然ね…」
 1953年。パリに戻ると、人々はかつてのままに男を迎え入れ、幾つかの重たい勲章と同時に、彼に新しい国籍を与えた。
 彼はキリスト教に改宗し、洗礼名を受け、そしてまた絵を描いたけれども、世界と通信が途切れたままの零戦だ。傷ついた魂は絵の具の上に隠しようがない。
 ふらふら、ふらふら天蓋を飛びながら、基地を忘れた零戦だ。 もうどの現世の島にも精神をゆだねることが出来ない。故郷の島に期待することは金輪際ないだろう。
 そして多分、今少しでこの低空飛行も終わる。もう燃料が残り少ない。何か胃のあたりも、チクチクしている…。
――――――君はまだ飛ぶんだな、タージャ。
僕の頭の中で過去の天蓋に君の星座は今もくるくると回っているよ。
 落ちて初めて飛び始めた。
勇敢に空を渡る君の背中には羽根が生えている。








fin.









<<back



03/07/31