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天使を逃走
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 窓の外でグロリアが飛び跳ねている。

ウサギのようにタンポポの布団の上を転がり回って

スカーフの上でその顔がにこにこと輝いている。





私は沈み込んだ部屋の机について、
司教に手紙を書いている。



*




 「マスクを取る?」
あたしが頼んだとき、アルトゥーロはちょっと変な顔をしてこう言ったけれど、その後は何にも聞かずに希望通りにしてくれた。
 その人専用の顔型を取って仮面を作るのは、オートクチュール扱いでお金がかかる。普通の人はカルネバールにそこまでお金を掛けないものだから、アルはびっくりしたんだね。
 作業しながらあたし達は、あたしのアパートの水漏れの話とか、ゴミ捨ての話とか犬の話とかしたの。でも石膏の方をかぶせられたら唇なんか動かせなくなっちゃった。鼻に空けられた穴から酸素吸うので精一杯。
「気持ち悪いよ〜〜」
って言ったらアルは笑って、
「辛抱辛抱」
だって。慣れてるんだね。
 でもぱかって石膏外したときには気持ちよかった。なんかパックでもしてたみたい。ヴェネツィアに来てからどんどん肌に貼りついていたものが、なんか一緒にごっそり取れたような気がしたよ。
 なんかそのせいかな。すごく気持ちよく、村に帰れるような気がしちゃった。
 あたしアルが好き。
真っ黒で落ち着いた瞳がじっとあたしを見るときアルが好き。がんばって真面目に生きてる彼が好き。




*





 「気持ちよさそうだね、グロリア」
頭の方からのぞき込むと、閉じられていた大きな目がぱっと開いて、そこに逆さまの私が映った。
「こんにちはー、神父さん」
「座っていい?」
「わーい。いらっしゃーい、特等席だよー」
 グロリアは起きあがると、大袈裟に自分の隣をぽんぽんと叩いた。私はこの子供じみた開けっぴろげな彼女といるとほっとする自分を知っている。
 笑いながら腰を下ろし、彼女と一緒に教会を振り返った。
「お店の方はいいの?」
「うん、いーの。お昼過ぎたら暇だから、あたしの手伝いはいーんだって」
「お家は居づらくない?」
「えへー。ありがとー。大丈夫だよー」
 最近村に帰ってきたこの少女は、村に一軒の食堂の娘である。中学を出た後急に行方をくらまして、なんでもずっとヴェネツィアで働いていたそうだ。小さなアイスクリーム屋で雇われて、辛いこともあったりしたけど概ね「ゴキゲンに」三年間過ごしたらしい。
「神父さんこそだいじょーぶ? この村いづらくない?」
と、くるりとした十代の目を向けてくる。
「どうして?」
「だって、ここじゃみんな口硬いしねー。馴染むのに時間がかかるかなーって」
 彼女の頭に手のひらを乗せた時、自分が微笑んでいるのだと分かった。
「ありがとう。大丈夫だよ」
 それからは二人並んで、ぼんやりと青空を眺めていた。時々白い雲が流れてきて、空は様々に様子を変え、私は少しも退屈しなかった。
「なんか幸せだねえ」
と、グロリアが言った。


*




 グロリアから故郷の話はあんまり聞いた覚えがない。こんなことを言うのは変かも知れないけど、僕は彼女には故郷なんか無いような気がしていた。
 一緒に働いているアガタねえさんがいつか言っていた。
「グロリアって実際昔とほとんどかわんないけど、だいたい年をとるなんてとても思えないね。
 なんかリアちゃんは、天使みたいでいいね」
 僕は少し違って、彼女はミヒャエル・エンデのモモのようだと思っていた。
 モモが住んでいるのはコロッセオの遺跡(ドイツ趣味!)の中だったけれど、彼女が現れたのは僕の工房の近くにある、こじんまりした、けれどおいしいアイスクリーム屋の軒先だったってわけだ。
 始めて会ったときから僕等の天使はにこにこしていた。
そして三日もたった頃にはもう、彼女はにこにこ顔のままそこに昔からずっといたかのような、そして二十年たっても五十年たってもずっとそのまま居続けるんじゃないかってグロリア、そんな気がしていたよ。



*



 月曜日。
神父さんが町であたしを引き留めて、どうしてミサにやってこないのかと聞く。もうすっかり「神父さん」に戻っていたけど怒ってるんじゃなくて、あたしの話を聞きたいみたい。
「前の神父さんの時も、ミサへ出なかったのですか?」
あたしは首を振る。
「いいえ。子どもの頃はちゃんと出てました」
「信徒」になってあたしも答える。
「ではどうして今は? 神様のことを忘れてしまったのですか?」
 あたし神父さんのこと好き。きれいな優しい青い目と、低い穏やかな声が好き。
「いいえ神父さん。私は神様のことをまだちゃんと覚えています」
「ではどうして日曜日、あなたの父に会いに来ないのですか?」
 神父さん。
その青を惑わせるようなことをしてごめんなさい。
「―――だって十字架の上の神様は両目をしっかり閉じてらっしゃるんですもの」


*




 スカファルリ氏が隣町の病院に通い始めた。また膀胱炎になったのだと。経済活動の疲れがそういう形で現れるようだ、去年まではこんなふうではなかったのに、今は少し油断するとすぐ白尿が出ると言って嘆いていた。
 彼と駅で会った後、通りを歩いていてグロリアを捕まえた。相変わらず無造作な格好をして歩いている。 
ミサに来ない理由を尋ねた。
 彼女がミサに来ないのはイエスが両目を閉じているからだという。
その答えを私は理解できない。彼女は僕をからかっているのだろうか?

 新しい謎を掛けられて古い謎のことを思いだした。司教へ手紙が着くのは明日以降だ。
 どうしてもあの言葉の意味が分からない。
「君は頭で考えすぎだね」
人間は頭脳以外のどこで思考する?
「一人や二人、君に頭で考えさせないような人間に会うだろう。神父はよい経験になる」
 私が予定通りバチカンへ昇る日は、もう遙か遠くのような気がしてくる。別にすごく出世したいわけではない。ただ、私は謎の答えが分からず、不信ばかりがひろがっていく。
 もしかしたら司祭は、私を遠ざけたのではないか。含蓄のある言葉を用意しておいて、単に私をバチカンへの道から排除しようとしたのではないか。 信じられないような考えが、私の心中に広がって、私は動揺しているのだと分かる。
 なによりも腹立たしいのは自分が、屈託を心の中に抱え込んで、そのせいでこの美しい村の景色まで掠んでいるかのように感じることだ。
これはあんまり、実りが少ないではないか。
 …それにしてもあの時、グロリアと見た空は美しかった。
グロリア。…主よ。
名前の通り彼女には、人を幸せにする何かがある。









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