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NONSENSE >>4<<








「失礼致しました」
学長室、と黒墨で書かれた時代遅れな扉を閉める。
歩きながら、胸ポケットに手をやって煙草を取り出した。最初の一息を深く吸い込むのと同時に、自然と目線があがる。
「……」
廊下の先に影があった。野村美香が立っている。
 窓はいい黄昏だった。無骨な鉄筋建ての、イライラするような校舎も今ばかりは、田舎の静かな日みたいにしっとりしている。
 そんな場所に、自分みたいな汚い人間と、彼女のような馬鹿女が共に立って、その恩恵を受けているのは、どうにもおかしい感じだった。
 こういう風景はもっと、きれいな人達のためにあるべきだ。才谷は紫煙を吐きだした。
 「君は僕と無理心中する気かい」
美香はぴくりともしなかった。
「もっとも僕は、これくらいでは死なないが」
 返答はない。だが、納得してはいない雰囲気だった。才谷は親指で眉を掻く。
「雑誌社は来週の月曜にもう一度来ると言っている」
美香が才谷を見た。意外そうな表情だ。彼は顔をしかめ、笑った。
「もしも不都合が起これば、児島氏は再来週に来る。そこでもダメならさらに次の週、…どこまでも、来ると言うだろう。彼と彼の雑誌には僕が必要だからね」
才谷はまた煙草を唇にあてた。
「君のしたことなどそれだけのことだ。児島氏は怒っていない。無論学長も怒っていない。世間様も怒らないし、僕もそうだ。
 小遣い五万円。容易いものだ。僕には君より遙かに貪欲で、遙かに有害な女と結婚する予定がある。今更五万ぽっちじゃ動揺しようがないよね。
 つまり、君には力がない。僕を動かす力なんかないのだよ。二時間やって射精がせいぜい」
才谷は微笑んだ。
「もちろんそれも立派ですよ。でもやろうと思えば、ビニール製の人形でだって出来るんだしね。キモチワルイけど」
 才谷は少し歩いて、四角い灰皿の上に煙草を押しつけた。それから、両手をポケットに突っ込む。
「お遊びはこれくらいでやめておいた方がいいよ。
君にとってはフーゾクもユスリもプラダも・・・、そうだ男女差別も、みんな遊びでしょ?
 だけどこんな事を続ければ身を滅ぼすのは君の方だ。言ったけど、僕は痛くも痒くもないんだからね…」
 目をやると、影の中で、美香はうつむいていた。シルエットに切り抜かれたその姿は、子供の頃見た影絵を連想させた。糸がなければ、動かない。
 ここまでかな、と才谷は思う。不発のまま、この娘との関係はここでお終いかな。多分このまま彼女は、大人しく引き下がってしまうことだろう。そしてきっとそのまま、他の無言で死にかけの学生達の群れに落ち、当たり障りのない順調な人生を…。
 ――――少女は爆弾を持っている。
それは確かだ。だが爆発するかどうかは、本人の意志にかかっているのだ。
 彼女は才谷に何かをぶつけるチャンスがあった。ぶつけるモノも持っていたし、その真似事もした。ただ本気でぶつけることは未だにしていない。
 だが人形が動き出すまで待つ時間など、才谷にはない。
彼は忙しいのだ。
 その人間に関わると決めたからには、野村君、初めから本気で影響しあわなくては、人生が無駄だよ。でも君にはそんな勇気がどうも、ないみたいだし…。
 才谷は少し笑った。
…あるいは、もしかすると君には、爆発させる能力がないのかもしれないね。それはそれで仕方がない。僕のせいではない。他の色んなモノが悪いのかも知れない。…だが、どうしようもない。
「分かりましたね」
 才谷は歩き出した。のんびりと彼女に向かって。もはやただの木偶人形である彼女に向かって。
 すれ違って一度彼女に背を向ければ、もう二度と彼は美香の方を振り向くことがないだろう。振り向いたとしても彼女を人間として遇し、その言動に苛立ちを爆発させて図書館の奥へ追いつめたりはしまい。
 それは一筋に、彼女を本物のダッチ・ワイフとして扱う道だった。風俗店のうすぐらいだいだい色のソファの部屋に、彼女を置き去りにする道だったのだ。


――――二人の影がすれ違う瞬間、やっと美香が動いた。
 美香は彼の腕を必死に捕まえ、その後頭めがけて爆弾を、力一杯、投げつけたのだ。


「…すき……」
 どーん! とそれは命中した。才谷のトラッサルディが爆風で鼻先までずり落ち、足が止まった。
「…はぁっ?!」
振り向いた才谷は一歩送れて、素っ頓狂な声を上げた。
「う……」
 美香の目を涙が滑ったかと思うと、あっという間にぼろぼろとこぼれだした。
「う…、うえ…」
才谷のスーツを握りしめたまま、少女が泣いた。
「ふ、うえ〜〜。うええ〜ん」
「な、なんだってぇ…?」
 愕然とした才谷の言葉に帰ってくるものと言えば嗚咽だけだ。歯止めがきかなくなっているらしい。
「うう、ひっく。ふえ〜〜」
 化粧をした頬の上を、涙がどんどん溢れて来る。右手に才谷を捕まえたまま、左手の項を目に当てて、美香はまるきり―――、まるきりガキだった。
「…お、おいおい…」
 才谷はとりあえず眼鏡を直した。まだちょっと呆然としながらも、条件反射的に美香の頭に手を置く。
「…マジですか…」
 頭のてっぺんのあたりは、地毛の色が出ていた。こまめに染めないからだ。…ああでも、本当はこんなにきれいな黒なんじゃないか。
「…君は、ずっとそれが言いたかったの?」
「うーっ…」
 狼みたいな声を出して、美香が才谷の胸にすがった。
…こりゃあ人間の会話じゃないな。
「…それにしても…」
――――こんなナンセンスな爆弾を持っていたとは。
バカ女恐るべし…。
「やれやれ…」
 そのまま髪を撫でながら、才谷は長いため息をついた。
「君はバカでお嬢様育ちのくせに変なところに遠慮をしすぎるよ…」
 そう言ってみても、野獣語しか返ってこない。ただ、それなりに落ち着いたようで、しゃくり上げる音の方が増えていた。
 もう一度彼は、
「返す返すも、新人なんかやめよきゃ良かった…」
と呟いて、左手でポケットを探る。


 無地のハンカチを彼女の赤い頬に当てながら、才谷は瞬きした。
ああこの女は、すっぴんの方が赤ン坊みたいでずっといいな。








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