梅花



弥生二日

 ようやく雪もとけたので柊葉居士の見舞いへ行く。鉄道で山登りて参時間也。
 士、病勢進んだためか、青ざめ、頬骨の出て目のぎらぎら光る。ものすごき外貌なり。
 もつとも、彼によれば体の具合は「すこぶるよい」とのこと。自身が荒れたる理由については、退屈のうえにも退屈であつた長い冬の為と論ずる。
『君ね、何しろ退屈で何もすることがない、意志があったって雪のせいで外へ出られないなんて時、あやふやな自分の未来のことなどを考え始めるのは自殺行為だよ。
 どころが僕らときたら他にやることもないんだからね。○ン○リこくったって、限度があるものさ。』
など煙草を吸いつつ言ふ。眼に僅かにうらみの気色あるは彼らしく、かえつて安堵する。
 その後、士と周りを散歩。曇りて寒き日なれども、士ずんずんと歩きて吾が配慮を関せず。
 八本の梅の咲く斜面へ至りてようやくに止まる。まことに見事なる花の様なれども、その頃には草臥れ、苔にまろびて尻餅をつく。
 つくしのように立てたる士、煙草しながら微笑す。
『三日前の夜さ、君…。あまりいい香りが漂ってくるものだからね。病室から抜け出して、ここまで歩いてきたんだよ。
 ここはね、病院から見えないだろう。だから君も今、ここへ来るまでの間、自分が一体どこへ向かっているのかと不安だったろうと思うが、僕だってこんな山影にこんなに見事な梅が咲いているなんて知りもしないで導かれてきたさ。
 …花が、こうやって咲いているのを見たときの…、その時のうれしさが、君に百万分の一でもいいから分かってもらえたらなあ!
 僕は闇の中で火のともるように咲いているこの梅の花を見て、普段しがみついているこのつまらん人生を、もうここでうっちゃったっていいと思うくらい感じ入ったものさ。
 外套を着たきりで少し寒かったんだがね、もういいと思ってちょうど君が尻餅ついてるところへ大の字になっていたら…もっとも貧弱な大の字もあったものだがね…(と、士は落ち窪んだ目で笑った)、いきなり僕と夜の間におんなが挟まってきてね』


『どこの誰だかわかりゃあしないよ。もしかしたら、うとうとした間に落ちた夢だったかもしれない。
 だがとにかく僕はその女と交わったさ。その子の肌も吸ったし香りも嗅いだ。子供の頃にしてたように、胸いっぱいどころか、腹が痛くなるまで息を吸い込んだ。
 一息吸い込むほどに脳天が痺れて、手に触れる熱い肌に、柔らかいぬくもり、生きた人間の汗と、とめどもない梅の香りが渦をまいてね。
 全く生き返る気持ちだったよ、君。素晴らしかった…。
 僕はきっと近いうち俗世へ戻るだろうが、どんな美人と契ってもこの先あんな気持ちになることはないだろうな』



 士と別れて付近の旅館に一泊す。働く若くなまめかしい娘の姿目に入るたび、理由なくぎょつとする。
 宿泊。翌朝、挨拶して帰京。実際病人を山奥へ閉じ込めることは善行なりしか。 上野を歩けば自動車の行き交いて、神隠しより戻つたような気分。
















長月廿日

 柊葉居士の消息聞く。一月前に退院の葉書を受け取りて以来なり。
 親戚筋の矢田海運へ勤めしは既知の件なれど、次月、大沢代議士の息女と祝言とのこと。
 伊藤子、彼は必ずやる男なりと太鼓判押す。
『成功しようと思ったら、アレくらい迷いがなくっちゃ駄目だね。とにかくひょろっとした見た目に似合わず、落ちつきはらっていてね、全く泰然としたもんなんだ。惚れ惚れするくらいだよ。
 深川のオンナノコにもモテてモテてねえ。ぞっとするほどいい男だってみんな大騒ぎさ』

 とし子に祝儀の用意を命ずれども、なんとのう知らぬ男の話を聞きてあるような感じが、胸の中へ残れり。
 彼いまだ、山奥で梅林のはざまに立ちておるような気のして耳の鳴る。益体なき妄想なり。


 聡、夕刻風呂場で転びて頭を打ち、家内大いに騒ぐ。当人ぐずぐず泣くも、今は眠る。
大事はなき模様。






















弥生七日

 訃報届く。矢田柊葉居士。
深川不動の裏手へ自動車が突つ込んだとのこと。運転手の酒癖の悪きこと、以前より


 思えば婚礼の折には当方の不幸の重なり、その後も同窓生でありながら士とは長らく対面せず。
 最後の面影は五年前、山の斜面で煙草しながら遠き夕暮れをのぞみし、痩せた横顔のみ。
吾が友の噂話は爾来、身が受け付けず。


 町中の梅の香、吾が布団にまとわりつきて寝付けず。
 夜明け前、長い夢に迷う足取りで庭へ出れば、
青軸の白梅、今が盛り也。










(EOF)




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