雪洞





「おう佐吉。来たかい、まあおあがりよ。おいおい、そんな遠くに座るこたあねえだろう。他人行儀だね。もっと火の傍へお寄り。
 構えるこたあない。最近、お互い忙しくて、顔を合わせても挨拶ばかり、前みたいに話込むこともめっきりなくなったから、久しぶりに世間話でもしようと思っただけだよ。
 お前、小商いなんだから、浜町の双葉屋さんを知ってるだろ。あすこのおかみさんが、とうとうおかしくなっちまったのを知ってるかい。
 知らない? ほうぼうで噂になってんだがね。まあいい、知らないなら話してやるさ」


 そもそも双葉屋さんたら俺のじいさんのじいさんの代から続くろうそく、灯りの店だ。堅実な商いが売りだからさほど大店じゃあないが、今に到るまで手堅く繁盛してることはお前もよく知る通りさ。
 ところが、なんの因果か先代には男の子が遂にできなかった。生まれたのは双子の女の子。おあさとおさよだ。
 当然入り婿をってえことになって、目をかけてた番台の吉次と、姉のおあさが祝言をあげた。このあたりのことは、お前だってよく承知だろう。
 さて穏やかじゃねえのはここからさ。今まで日陰に隠してあった話が、昨今明るい方へ出てくるようになっちまってんだが、なんでも、その二人の娘は両方が両方とも、吉次に参ってたってんだね。
 ――つまり、おあさと吉次が夫婦になる前からさ。正直者で、親の覚えもめでたい、目元のすっきりした番頭に、主の娘二人ともが熱を上げてたってワケさ。
 いやいや、珍しいことでもない、寧ろよくあることさね。どだい二人は双子ときてる。好みが似てたって不思議はねえやな。
 だから不安になったのが姉のおあさだ。自分は長女として好きな男と一緒になれるんだからいいようなもんだが、そうでもねえ。兄妹として暮らすうちに、妹と吉次が『なかよく』なっちまうんじゃないかと、妬むやら案じるやらでめでたいどころじゃねえ。
 ――気性の激しい女だったんだね。しまいには、おとなしい妹を脅しつけて、念書まで書かせたんだそうだ。
 そう。『わたくしは、おにいさまと決して間違いなど犯しません』――なんてえことを一筆書かせて、いやだと泣くのを責め立てて無理に血判まで押させたってんだから、なんとも業な話じゃねえか。
 しかしバチは当たるもんだ。おあさは田舎道でサビ釘を踏んだ傷が元で、祝言の三年後に死んじまった。最後までひでえ苦しみようだったというぜ。ところが家人の話じゃ、事切れる瞬間にも妹の手にぎりりと爪を立て、ゆめ念書の文句を忘れるなよと脅し通していたってんだから、げに恐ろしきは女の一念だな。
 しかしそうやっておあさは死んで、先代もその一年前に死んでいたから、とうとうおさよと吉次だけが、ぽつんと家に残されることになっちまった。
 ――まあそうなったら、さえないの、だらしないのと騒いだってしょうがねえ。二人ができちまうのも、自然のなりゆきさ。



 妹の身で、姉の夫に懸想をするは不埒の極み。けれど今日この日まで私はただ僅かな生まれの前後が故に、好いた男と隔てられ、嫉妬した姉にいびられ、姉の死後さえ吉次とできたら呪ってやるぞと脅されてきた。
 名の通り姉はひなたを歩き私は夜番を強いられた。夜は寂しいからとて灯すぼんぼり。
私はそういうものであった。
なぜ、私だけが
我慢をして、
割りを食ってまで、
正直に、
清く正しく生きねばならないのだ。
 この上は、日影にとどまってなるものか。
人も指差せ、笑うがいい。そして日影の美徳を褒めそやすものは糞でも食らえ。そこがどんな寒い場所か知りもせで――
 私は思うままに振舞うのだ。今や、そうしてもよいはずなのだ。
 このような紙切れ一枚で、私の一生を呪おうとした姉は、地獄の火で幾度でもあぶられるがいい…!




 双子だねえ。おさよはおとなしい振る舞いの奥に、激しいものを強いて隠していたってわけだ。  それがおあさの死で、全部表へ出てきちまった。
 順を踏んで、人づてに手を回して、万事ゆったりやればまだ非難の声も少なかったろうに、四十九日があけないうちの同衾だったから、噂が立ったもんだ。
 面白いものでそうなると、おあさの騒いでいたのも本当だったんだというような話さえ出て、胸糞が悪いというので、それぎり手を切ったお人もあったようだね。
 まあそれでも喪のあけた一年後には、二人も正式な夫婦になって、なんとか当たり前の容子になってきたと思ってたんだがね――。
 おさよがその後どうなったと思う? 佐吉よ、お前は。



 おさよは、姉にも劣らぬ鬼女房になったのさ。優しい控えめな娘が見る影もない。旦那の商売に口は出す、へまをやった手代を人前で罵る、手伝いの女を叱り飛ばす。そればかりじゃない。
 客がツケるのにもくどくど嫌味を言う。ものがなくなるとすぐ誰が盗ったんだと騒ぐ。旦那がちょっとどこかのお内儀さんと話しているのを見るだけでも総の毛立てて嫉妬する。
 少し器量のいい娘が奉公に来ようものなら、見ていられないほどいじめ抜いて最後には追い出しちまう。まったく、呆れた有様になっちまったのさ。

 何がいけないってんだろうね。
脅されても逆らわず、理不尽にも耐え忍び、今まで馬鹿がつくほど正直にやってきた人間が、ただ一つ、どうしても譲れないものをつかみとっただけのことじゃねえか。
何がいけないってんだ?
 そうだよ。事情を知るものはおさよがいけない女だなんて思いやしない。
 だが、おかしなもんだ。おさよはそうやって自分が馬鹿正直であることを止めたせいで、自分のことも人のことも、まるで信じることが出来なくなっちまったのよ。
 町内一の孝行娘と言われた自分でさえ、ついに姉の夫を盗んだ。そこらの小娘が信頼できるわけがねえ。男と係わりを持って念書に記した誓いの言葉をこの手で破った。だから人様の約束なんかあてにできるわけがねえ。
 おさよはよ。――おさよは何か、手がかりをなくしたのよ。おのれの馬鹿正直と一緒にな。
 身辺がきれえだってことは、値打ちのあることだぜ佐吉。世の中の約束事をきちっと守ってるってこともな。
 どんだけちっぽけなことに思えても、それを破った時にはお前は、間尺に合わねえ程おおきなものを、代わりに人質に取られてんだ。
 おさよがいい手本さね。家内はごたごたして落ち着きがない。吉次はいやになって外で遊ぶようになる。子は生まれねえ。客の評判も悪くなる。外道な女房のくせにと陰口も聞こえる。遂に正気までなくしちまった。
 せっかく好いた男と夫婦になったのに、遂には自分の手で何もかも台無しにしちまった。憐れな――憐れなもんだよ。
 だからな、佐吉、お前も。色んな事情があるのは分かるが――ひとの女房なんかに、手を出すもんじゃねえよ。
 お前はこんなことは、火つけや殺しに比べたらたいしたことじゃねえと自分に言い聞かせてるだろうが、おおかた何か大切なものを、その『たいしたことのなさ』と引き換えにしているんだ。道を照らす灯りをなくしているのよ。
 お前が女を信用することができるかよう?
仮にも三々九度を上げた旦那を裏切って、別の男と通じる女と同じ生き物なんだぜ。
それがこの世の半分だってんだぜ。




 佐吉は木枯らしの中、懐手をして歩き、いつものように女の家へ行った。
 女の夫は罪を犯して江戸から逃げているのだ。女は何の悪さもしておらず、出会った時は困っていた。
 佐吉だって不純な気持ちで近づいたのではない。だからこそ人から責められるのがいやで、近所とも疎遠にしていたのに…。

 なんでえ…。あの家主の古だぬきが分かった風な口を利きやがって。あんなやつに俺らのことが分かってたまるかい…。

「お前さん。お前さん。悪いんだけれど、ちょっと金を融通しておくれでないかい」
 女は切羽詰っていたらしく、男の様子の悩ましげなことに気付かなかった。いや、もともと女は無邪気で、考えの足りないたちなのだ。
「なあにすぐ返すんだからさあ。お稲荷さまにかけてきちんと返すからさあ。ね。貸しておくれよ」

 女の言うのは佐吉の半月の稼ぎにも当たる金だった。
 佐吉はしばらく黙って女の面を見ていたが、やがてまったく暗い声で――

「冗談言っちゃいけねえぜ」
と言った。




(EOF)



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