暴風




 ある夏。関東には珍しい大きな台風が来たとき、瀬戸内の小さな島に生まれた夫が言った。
 子どものころ、兄貴が少年野球の合宿だかで三泊ほど家を留守にしたことがあった。母親が役員をやってたもんで着いていった。父親は間の悪いことに出張にかかってた。
 俺は、しょうがなく隣の島の祖母の家へ預けられてな。十歳か十一歳のころだと思うんだが。
 ばあちゃんというのが、あまり子どもに構わない人で(昔の人はみんなそうだったが)、周りにも同じくらいの子どもがいなくて、俺は一人で遊んでたな。まあつまんなかったね。心の半分でバッタやカナブンに夢中になりながら、心の半分でこの境遇が終わるまでの時間をカウントダウンしてた。
 三日目の晩に、台風が来た。そう大きなのじゃなかったと思う。一晩荒れたらもう翌日にはスッキリしてるような、当たり前なやつだったろう。
 でもなにしろ、俺は慣れない他人の家にいただろう。家族と一緒にいつもの家にいるんなら、どんな嵐だってたいしたことないんだがな。
 さらにばあちゃんが、いったい何を思ったんだか、得体の知れない冷えた食いもんの並んだ夕食の席で、ポツッとこんなことを言うんだ。
「あんたの母ちゃんと兄ちゃん、無事だとええの」
傍のテレビで、ずっと台風のニュースやってたな。
 少年野球は、別の、大きな島の、国の施設で合宿してた。全然問題ないんだよ。ところが、ばあちゃんがそんなこと言うもんだから、俺は寝るころになると、足の指の先っちょまで恐ろしくなってた。
 母さんと兄さんが乗った船が、荒れた海で転覆したらどうしよう。台風が建物を押しつぶして。津波が来て。助けも呼べず。寝ている間に。
 じき暴風域に入って、不安をあおるように、外はどんどん荒れてくるだろ。俺、眠れなくなってなあ。一晩中うなされてた。
 二時とか、三時とかかなあ。もっと早かったかもな、よく分からん。とにかく真夜中、小便に行こうと思って、薄い布団を抜け出した。
 そのころは、もう三秒ごとにゴウッ。ドウッ。グイイインよ。雨戸をぴったり閉て切っても、家中老朽化した舟みたいに、ぴしぴしガタガタ揺れてたね。
 思えばその家の方がよっぽどあぶなかったよな。でも不思議なもんで、俺の心の中は兄貴とおふくろの心配でいっぱいで、自分が危ないなんてついぞ考えなかった。
 薄暗い廊下を裸足で歩いて、便所がまた暗くてくっさいんだ。戻る間もガタガタ、びゅうびゅう。
 あんだけ荒れると、もう俺自身の感覚なんかどうでもよくなるね。俺はなんか、耳からぼあーんと大きくなって、沈んだ船の中に暮らす海底人になったような、変な気持ちで歩いてたよ。
 そしたらさ、風の音と風の音の谷間に、何かぶつぶつ小さな音がするんだ。飴が煮詰まるような、洗剤の泡がはじけるような、ああいう音さ。
 どうも人の声のようなんだ。なんだろうと思って耳を澄ますとゆるしてくれやーゆるしてくれやと言ってる。
 俺は不思議に思ったが、そのまま布団に戻って寝ちまった。
 もちろん翌朝もそれを覚えてたよ。でも、どうでもいいことだった。雨戸を開けた途端、戻ってきた夏の青空が見事で、それにニュースで誰も死んでないと分かったからほっとしてた。
 その日の夕方には、おふくろが俺を引き取りに来た。嬉しかったね。港の売店で、たしか棒アイスか何か買わせたよ。
 そこで夫は一旦話を切ると、顎を深く引いて笑った。そこは春日の病院の一室であった。
 夫はささやくように言った。昨晩、夜中に目を覚ましたら、そのぶつぶついう音がまた聞こえるんだ。
 斜め向かいの人のテレビがやかましい笑い声を立てていた。
 夫は半分で「あいつ、今日もうるさいな」という目をしながら、残り半分で私の反応を確かめていた。
 俺の体の中から聞こえるんだよ。






 一月後、夫は退院した。
私は妻を脅かした罰として、彼に「こざさ」のあんみつをおごらせた。



(EOF)




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