調節




 古物が好きだったという先代学長が寮に置いていった大きな柱時計を、Zは誰の教えも乞わず一人で何度も調節していた。
 幼少の頃から体が小さく人から侮られがちであった僕は仲間達から脱落しており、大人しく孤独好きであったZとは仲がよかった。
 一週間に二、三度の割合で、Zは柱時計の蓋を開くと、見たことのない、鉄の道具を取り出して複雑に噛みあう機械の中の、あるねじを締めたり、緩めたりして調節する。
 都度、手元のデジタル時計を見て時間を修正するのだが、古い時計は毎日少しずつ遅れて、彼が次に開く時には大体一〇分とか一五分のズレが出ていた。
 ――どうしてそんなことが出来るの。
お爺様が家でやってたのを見て育ったんだよ。
 ――僕のお爺様は機械が苦手だよ。
その代わりに、君に詩を教えてくださったんだろう?
 僕は赤くなってノートを後ろに隠した。
 ――何回直しても、ズレていくね。
うん。本当は毎日、正確に直した方がいいんだよ。
 ――Gが言ってた。この時計が時々、下手に合ってるからかえってややこしいって。いっそ五六時間もズレてれば、間違えないで済むのにって。
ふふ。自分の注意力のなさを時計のせいにしてはいけないな…。
 ――でも毎週直すのは、面倒じゃない。
そんなことはないよ。お医者になったような気分だ。人間と一緒で、油断なく、こまめな手当てが必要なのさ。
 その時、寮の先生がやってきて、Zに気の毒そうに告げた。
「Z君。今すぐ、面会室へ行きなさい。君のお父様がいらしている」
 ――…。
 その日以来、Zの姿は寮から消え、柱時計の時間は、日々刻々とずれていった。
 遂に取り返しのつかないほど時間が狂って、誰もその針の表示をあてにしなくなった頃、寮ではZの実家が破産したのだという噂が流れた。




 あの日を境に、全てのことがおかしくなった。
僕は相変わらず詩を読み書くばかりの坊やで、仲間達が株が大暴落したとか、あの老舗が潰れたとか、誰が首を吊った。海の向こうの強力な新政府を我らも見習えなどと騒いでいるのを聞いても、何のことかよく分からなかった。
 そうこうしているうちに世界の天秤は傾ぎ、元へ戻らなくなって、やがて目を開いて東西南北のどこを見ても、車が炸裂し小銃が高鳴って人間がバタバタと死に、街には諜報注意のポスターや黒衣の女の溢れる、そんなグロテスクな時代が、やってきた。
 そんなに厭ならやめればいいのに――。という文章を雑誌に書いたおかげで、僕は街中で襲われる羽目になった。
 ベッドに横になって、ぐらぐらと揺れる額に氷水を当てながら、僕は未だ、静かに調節を終え、柱時計の蓋を閉めて廊下を歩いていったZの、後姿を忘れることが出来ない。







 戦後、大きな博物館の展示室の中で、偶然Zと顔を合わせた。
 カーキのポロシャツを着た彼は、恥らったように会釈すると、一〇ばかりの子供の手を引いて僕や僕の仲間達とは反対の方向へ歩いていってしまった。
 その子の、左右の足音が少しだけずれている。
 戦争末期には、途方もないほど多量の爆薬が、全国各地の道に埋められた。















廊下の向こうに彼の姿が消えた瞬間、
僕の両耳のそばを、
強い風がゴウッと走りぬけたような気がした。



(EOF)






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