五丁目の筋から北の喜福寺へ抜ける通路に夜な夜な奇怪な女が立って人の袖を引いたという。
うりざね顔の若い女でひどく頼りない風情、竹久夢二の絵から抜け出たような美女で、大きな黒目をしていたとやら。
あるいは落第横丁あたりの一軒にわだかまる酌婦の類であったのかも知れぬ。
ともかく学帽を被った男が通りかかると板塀のすみからひっそり声をかけたのだそうな。
もし学生さん。あなた様のお名前は、なんとお言い。
それがおもねるようなか細いかすれ声で、どうしたって男は足を止められずにはおられぬ。暗がりの中へ目を差し向けてみれば、その肌の白いこと、きめ細かなことはぞっとするほどだという。
思わず名前を応えると、女はそんなら某々さまですね、と念を押し、あなた様を一目見て、お頼り申し上げるようになりました。
わたくしと所帯を持ってくださるお気持ちはおありですか。
ある男は故郷に許婚もいたとて、きっぱりと断った。すると女はならば妾でも構いません。飯炊き女でも構いません。お側にあるだけでも構いませぬ。と望みがどんどん下がっていく。
それでも尚頑迷に断り続けると、さようでございますか。ではご縁がございませんでしたのでしょう。と言って去ったという。
別の男がなんのつもりか、おそらく面白半分でそれに肯定をすると、だしぬけに女の目が狂的になって本当でございますね。二言はございますまいな。わたくしを途中で棄てるなどとは仰いませぬなあ。と爪を剥き膝へ取りすがらんばかり。
これに辟易して身を引いたれば、小袖が破れ、ちんちくりんのいでたちで、はて迷惑なと下宿へ引き上げた。
その後、目や肺を患い、ようやく小康を得た後は郷里へ戻ったものの、結句なんら功名を見るより前にそのまま没してしまったそうだ。
最もたちの悪い男は、これは商売女であろうと侮って大胆にも女の白い手をぎゅっと握り、女を捕らえ、そんならこの場で祝言を上げてくれるとのたまう部類。
すると女は突如得体の知れないものになって叫び声を上げる。
失神した男が目を覚ますと、すでに朝で、あろうことか学校の構内に褌一丁の姿。持ち物や着ていたものはあたり一面に転がっている。
慌ててそれを拾い集め、体面をつくろう学徒を目にすると、学生や教授連は、ああ喜福寺の女にやられたのだなと苦笑いを交わしたのだそうな。
喜福寺の女は不思議とほとんど年をとらぬ様子であったが、いつ頃からか姿を見かけなくなったという。
若い頃、彼女と出逢って婚約したという老学者が最後に会った時、この辺りも随分住みにくくなりました。別の場所へ参ります。
さようなら。
と言ったそうである。
|
|