劇薬




 姉は仕事に出かける前、いつも鏡の前に座って念入りに化粧をした。六歳はなれた幼い私は、その横に椅子を持っていって膝を抱えて座り、彼女が小鳥のように忙しく身づくろいをする様を眺めるのが好きだった。
「なによ、あんたもお化粧するの?」
 姉はてきぱきと両手を動かしながら、時々私の鼻の頭にドーランを塗ったりした。
「ぼくもお客をとれるかなあ。お化粧して道に立ったら」
 まだ大人にもなっていなかった私がそういうことを言うのは育ちのせいだった。私たちの粗末なアパルトマンのすぐ西には、男娼の立つ通りがあった。
「馬鹿ね。あんたは学校に行ってるじゃない。学のあるタント(男娼)なんて聞いたこともないわ」
 赤い紅の載った上下の唇を揉み合わせ馴染ませた後、姉は付け加えた。
「あんたはお勉強をして、もっとまともな職業に就くのよ。お役人さんとか、小学校の先生とかね」
 私は、自分の両のくるぶしを手で持ってつかみ上げた。腰を曲げて体重のまま後ろに転がり、背もたれに頭が当たって止まる。
「ぼく、学校あんまり好きじゃないな。お勉強は嫌いじゃないけど、あそこにいる子はみんなあんまりこども過ぎるもの。
 世の中について、何にも知らないんだよ。それでぼくに、あれこれ教えてくれって押し掛けてくるんだけど、ぼく相手にしないんだ。付き合ってられないもの」
 その頃には私の姿勢はむちゃくちゃなことになっていた。座禅をした釈迦の像が真後ろに転げ落ちた図とでも言おうか。
「ぼくは、お姉ちゃんのお店で働きたいなあ。だってとても素敵じゃない。
 毛皮のコートを着て葉巻を飲む支配人さんもいいけど、カウンターの中でお酒を混ぜるお兄さんみたいになるのも、いいな。それでも駄目ならタントになる。
 小学校の先生になるよりも、ずっとましな人生だよ!」
 姉の、長くて痩せた手がぴしゃっと私の太ももを打った。それで私はやっと手を離して、体を起こした。
 すっかり化粧を終えた姉が、その重いまぶたで私を見つめていた。私は覚えず、しゃんと背を伸ばした。
 姉は私の顔を真正面から覗き込みながら、言うのだ。
「よしなさい。そんなことを言ってお姉ちゃんを悲しませないで。
 あんたは周りの友達とうまくやらなければいけないし、ちゃんとお勉強もしなくてはいけないわ。将来、ちゃんとした職業に就くためにね。
 さあ、お姉ちゃんが言ったとおり、言いなさい」
 姉の全身からは、いつも甘ったるい化粧の香りが渦を巻いてこぼれ落ちていた。私はかなり大人になるまで、あれは姉自身の中から湧いて出る香りなのだと勘違いしていたほどだ。
「僕は、周りの友達と仲良くやるし、ちゃんとお勉強もします。そして将来、ちゃんとした職業に就きます」
「いいわ。いい子ね」
 姉に逆らうなど、当時の私には考えられないことだった。だが納得していたわけではない。頬に派手なキスマークをつけてもらいながらも、冴えない顔をしていたはずだ。
 どうして。姉だってお店の人たちはみんな好きだと言っていたのに。
 姉は立ち上がると、鏡の前で全身の立ち姿を確認して、最後に机の上の香水の瓶に手を伸ばした。
 その香水は骨がとろけそうになるような、実にいい香りで、姉のお気に入りだった。多くの化粧品の中でダントツに値の張る、有名な高級店のものだった。
 おかしなことに、それには「劇薬」というラベルが貼ってあった。ひょっとして入るかもしれない泥棒や私が触らないようにと思っていのだろうが、姉もそれをシュッ、シュッと吹きかけながら、歌うように
「劇薬…、劇薬…。これでよし」
と言うのだ。
 化粧を終え、普段の姉とは違う、雑誌の中の女のようになった姉は、少し底の擦れたバッグを持って、勤めに出て行った。
 劇薬の香りを、辺りにふりまきながら。




 私が姉の言葉とその気持ちを、本当の意味で理解するようになったのは、ずっと後のことだった。




(EOF)





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