号泣
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九月に入り、もう蝉の声も聞かれなくなったというのに一向に体のだるさが取れない。 始めは「夏だからじゃろう、しんどいのう」と言っていたTの親父も穏やかでなくなってきて、この間は「あいつはせこい奴じゃけ、よう見張れ」と言っているのを聞いた。 昔、俺の親父に世話になった手前、面と向かって俺に何か言うことも、仕事をくびにすることもないが、それだけに胸に一物隠したTの様子が、俺には恐ろしかった。 俺の家はこの土地に代々続いた大工で、戦前は町内での地位も高かった。だが空襲で家と両親が焼けてみると俺にはほとんど何もなかった。廣島の親類方へ商売を習いに出かけたが、何もかも中途半端で終わり、結局今は、こうしてパン屋の手伝いをしている。 この時代、穀物を持った者はまことに強い。敵なしだ。呉港を占領した進駐軍にパンを届けるのが仕事のTの家には、小麦は勿論、砂糖、バターなどといった夢のような配給品が倉庫に詰み上げられていた。 父よりも一回り若く、俺よりも一回り上のTは、その力を元にどんどん商売を工夫する。その顔は、毎日が面白くて仕方がないんだというようにいつも輝いていた。 パンを載せたトラックを運転して進駐軍の詰所へ向かう。やる気のない検問を抜け、食堂のある棟の前で、トラックからパンを降ろす。 パンは、米なんかよりずっと軽い。それでも、コンテナを上げ下ろししていると、目が回ってくる。 腹が減っているせいに違いない、と自分に決め付けて作業を続けた。俺は腹を満たすのが恐ろしいのである。 ふらふらになりつつ仕事を終えると、調理場の中から黒人の兵隊が一人出てきて、俺にキャラメルを呉れた。 見覚えのある、背の低い陽気な男だ。どうして親切にしてくれるのかと不思議に思っていたら、びっくりするくらい気軽に肩をぽんぽんと叩かれ、英語で 「キミコに優しくしてやってくれよ。キミコと君は、近所なんだってね?」 と言われる。 君子は俺の部屋の裏手に住む幼馴染の女である。既に結婚して子もあるが、出征した夫が大陸から戻ってこない。 キャラメルを口に入れ、ガタガタと揺れるトラックで店まで帰った。 やはりだるい。食欲もない。やっとのことで茶碗を空にして、おかずの残りはTの子供らにやった。彼らは、自分がどうしても飲み下せないでいたものを争うように次々口に放り込む。皿は一瞬にして空になり、青い小菊の地柄を明らかにした。 「あんた、いい加減元気を出さにゃあいけんで。世の中はこれからどんどんおもしろうなるんじゃけえのう」 そういうTに苦笑を返して、Tの家を出た。国鉄の路線を越し、三条へ歩く。 虫の声を聞きながらゆっくり歩いていると、ようやく気分が落ち着いてきた。秋の夜。暗くて風が流れて、涼しい。 まるで墓の下のようだ…。 Tの口利きで借りた部屋に帰ろうとすると、路地でばったり君子に会った。 久しぶりだった。それだけに、腹が膨らんでいるのがはっきり分かった。 再び配給品の米が喉元へ競りあがろうとしていた。それをこらえると、渋い顔つきになった。 「…黒んぼの兵隊が、お前と仲ようせえと」 「……」 君子は大きな目を見張って、俺を見た。 「恥ずかしゅう、ないんか」 ふうっと煙にも似た笑みが君子の顔に浮かぶ。 「そんなに悪い人じゃあ、ないんよ」 部屋へ上がる気にならなかった。俺は歩いて、歩いて、急勾配の山肌に家が張り付くように建っている、両城の階段を昇った。 頂上へたどり着くと海が見えた。一気呵成に上ってきたので心臓がひどく喘いでいた。冷たい石の上に腰を下ろすと、もう、体がバラバラになりそうだ―― |
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