包丁




「――ねえお静さん。今日、瀬古さん、いらっしゃるの…?」
「あら、そうよ。ミヨちゃん、どうしたの。瀬古さん、好きだったでしょ?」
「コウちゃんは飛行機を直してもらうって、大喜びだよ。ミヨちゃんだって前は瀬古さん瀬古さんってお膝にひっついて、離やしなかったじゃないか」
「だって、だって…。最近、なんだか、瀬古さんが怖いの…」
「…なに?」
「ミヨちゃん、なあに? どうして怖いの?」
「瀬古さん、お鞄の中に……包丁を隠しておいでなのよう。それで、坂下のゆうちゃんのお母様の腕を、切ったんですって」
「ああ、なあんだ…」
「ふふ。ミヨちゃん、あれは包丁じゃあないのよ。お医者さんがお持ちの、メスっていうお道具なの。
 大工さんが持ってるトンカチみたいなもんで、悪い事をするためのものじゃあないのよ」
「でも、いやだわ…」
「心配しなくても、ミヨちゃんの腕を切ったりはしないよ…。瀬古さんは、お父様とお酒を飲むためにいらっしゃるんだからさ」
「だって分からないじゃない、そんなの」
「大丈夫な人の腕を切るほど、まさか瀬古さんも狂っちゃいないわ」
「あっはっは」
「さ、まだ明るいでしょ。表でコウちゃんとでも、もう少し遊んでらっしゃいよ。ご飯の準備が出来たら、呼んであげるからね」




「ああ、びっくりした…! 思わずぎょっとしちまったよ。バカだねえ、あたしったら。
 まさか十やそこらの子にそんなきわどいことあるはずがないってのに、何考えてたんだろ」
「しょうがないわよ。あんな噂を聞いたばかりのことだもの。…実を言うと、あたしだって一瞬どきっとしたわ」
「まったくもう。つくづく人は見かけによらないもんだよねェ…。
 あんな虫も殺さないような顔をしていながら、あんなろくでなしだなんて…。いくらその筋の女だと言ってもさ、十五の娘をもてあそぶなんて恥ずかしくないのかね…!」
「大体、そんな真似をしておいて、なんの故障もなく先生様でございと歩き回ってるのがまた癪じゃない?」
「ああ。旦那様も旦那様だよ。
 確かに、旦那様の背中の腫れ物はきれーに治してくだすったけどさあ。
 あんな行いの悪い男を家に上げてもてなすなんざ、胸くそが悪いったら、全く!」
「後で塩でもまきましょ。あたし、ちょっくらお庭で山椒の葉をもいでくるわ」
「ああ。はいよ、行っといで」
 お静が台所を出た時、駆け去っていく美代子の着物の裾がちらりと見えた。
 しまったと思った。






 子供は、いやらしい事を憎む本能を持っている。下品に笑いながら、「初潮はまだか」だの「胸は痛いか」だのと聞いてくる大人のことは、たとえそれが親類であろうが通りすがりの他者であろうが、男だろうが女だろうが直感的に、憎む。
 恐らく子供には原型の正義があるのだ。大人がどうせまだこの程度しか知らないんだろうとたかをくくっても、その傲慢と堕落を見抜く鋭さは恐ろしいほどで、たとえ何も言わなくても、心中は嫌悪と非難で満ちている。
 美代子は、自分の細い神経のさなかにも、その正義がはたらいていることをよく知っていた。それが安全で、天地のはっきりした彼女の世界を回していることも。
 美代子は自分の本能を愛し信頼していた。しかし最近は彼女の中で、激しい憎悪の手ごたえが徐々に曖昧さに置き換わっていき、それがどうにも出来ないのだった。
 一年に三寸も四寸も背が伸びるのは楽しいことだ。鏡の前でさす口紅が段々と堂に入ってくるのは楽しいことだ。
 だがそれと同時に、確かに彼女の中で何かが終わりかけていた。彼女はその感触と煙のような曖昧さに狼狽した。幾たびもまた強い怒りを呼び起こそうと思った。
 気を張り詰めて幼い弟と遊んでいれば、まだ昔どおりに過ごしていられた。だが、今日のように、穏やかで美しい夕刻が来ると、彼女の頭の中は、どうしようもなく手ぬるくなる。



 家の前に立つ美代子は、もう家の中へ駆け込まねばならないことを知っていた。夜が来るからだ。
 でも陽の最後の名残が、ぼんやりと西へ消えていく有様はひどく美しくて、心を奪われる。駄目と囁くものに逆らって、眺めていたかった。
 その葛藤には異様な魅力があり、実のところ彼女は、それに耽っていたのだ。


 なにをつったっているの、みよこ。
はやくおうちに、はいりなさい。
 さかの上から夜がしのびよっている。
はやくお母さまやおしずさんのいる、お台所へかえりなさい。
 そうしなければその闇はいずれあなたの足首を呑み込み、呑み込んだが最後泣こうがわめこうが決して離してはくれないでしょう



 坂の上から、ひたひたという足音が近づいてきた。
 美代子が振り返ると、その音の主は「やあミヨちゃん」と猫撫で声で挨拶した。
 丸眼鏡をかけた穏やかな青年医師が、笑いながら立つ。その背には一面、黒い夜の破片がびっしりと突き刺さっていた。



 美代子は場に居すくんで挨拶も出来ず、ただただ大きな影の前に俯くばかりだった。
 それでいながら彼の、恐ろしい道具の入った皮の鞄のほうへ、ちらりと目が走った。







(EOF)




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