女給
きのう、奇妙な夢を見ました。 黒い、平たい場所。湖面の真中に立っているようで、何も見えない。果ては霞がかっているのですが、霧は出ていません。 目が追いつかないだけで、どこまでも地平は続いている様子です。 彼方に鬼火が燃えていました。 静かでした。 それでいて石臼が擦れるようになにかがうなっているのです。 夢。 生ぬるい風が前髪を跳ね上げました。 あたしは咄嗟に来るのだ。と分かる。 そんな夢でした。 おや君がそんな神秘家だとは知らなかった。と、東城さんがお笑いになります。 「やはり君は女だね。夢だとか幻だとか。そういったことは西洋ではとっくに棄てられているんだよ。日本の女ももっと科学的にならなくてはだめだ。進歩しなければ」 東城さんは本当に温和で神様のように優しい方です。カフェーの女給などである私にまで、こうして真剣な話をしてくださるのです。 けれどもあたしは莫迦なので、昨夜見た夢のことで頭が一杯です。あれは一体どういう意味なのかしら。店の近くに机を出している易者に今度聞いてみようかしら。 「およし。僕の話を聞いていなかったの。日本は今、ようやく列強の一員として大人の国になったところじゃないか。祟りだの占いだの夢のお告げだの実態のないものに怯えて詐欺師に相談するなんて前時代的だ。 怖いのなら僕の名前でも唱えててごらん。よっぽどご利益があるからね」 東城さんはそう言って笑って朝日を一本お吸いになり、朝方、部屋からお帰りになりました。 東城さんはあたしの全てです。天涯孤独なあたしをただ一人愛してくださる方です。だから彼の言葉を聞かないなんてことがあるでしょうか。 東城さんの前では夢のお話は止めになりました。あたしの胸の中だけのことになりました。そのせいかまた、その怖い夢の続きを見たのです。 今度はもっとはっきり分かりました。 ああ、来る。と。 来る。来る来る。何かが来る。 今度は東城さんにお話しするわけには行きませんから、翌日あまり好きでない榊のお姉さんに話しました。 お姉さんは意地悪く目を歪め、鏡越しにあたしの顔を見て言いました。 「それは東城さんが浮気しているという証拠よ。あんたは女の本能でそれを嗅ぎつけているのだわ」 やっぱり榊のお姉さんなどに相談するのではありませんでした。あたしは心配のあまり泣きながら東城さんのお越しを待ちました。 そしていらした東城さんの顔を見るなりその胸に飛び込みましたら、傍にいた大変身なりの立派な紳士が 「あてられますね、東城君」 と冷やかされました。 その方は有名な商事会社の役員さんだそうです。最近、満州の方に進出なさり、大変活発に商いをなさっているとか。 お二人の話は難しい単語と聞いたことのない外国の地名が飛び交って、まるで夢のお話のようです。けれども東城さんによれば、それがいいのだそうです。 「お前には何も分からない。動物のように原始的な本能だけ――接吻と抱擁以外は理解することも出来ない女だ。女給は大体程度が低いけれどもお前はその中でも低い方かも知れない。 でもそれがいいのだ。赤ん坊のような女だから、お前は僕の傍にいられるのだ」 そう言われると嬉しくって嬉しくってあたしはむせび泣きながら彼の首を吸います。 世の中にこの人さえいればいい。明日、日本が滅びようが構いません。と言いましたら、東城さんは笑って ――縁起でもない。日本は進歩しているのだから、僕もその一翼を担っているのだから、滅ぶなんて言ってもらっては困るよ。日本はもうじき列強を抜くのだ。彼らと戦争し、勝つことさえ出来るようになるのだ。 分からないだろう。でも僕の言うことを信じておいて。そうすれば君も、幸せになれるのだから。 幸せに。 幸せに。 あたしは既に充分幸せです。 それだのにまた夢を見てしまうのです。 ――石臼の音がします。あたしはここへ来る前どこかでその音を聞いていたみたいです。郷里ででしょうか。何一つ覚えていないのに、大きな重たい石で何かをすりつぶす音だけは覚えている。 ここには何もないのに、なぜ石が擦れるような音がするのかしら。夜の海水のような不安があたしの心を満たしてきます。 ああ。来る。来る。 何か非常に厭なものが来る。 何かしら。あの地平の彼方に燃えているのは。なんて赤い赤い炎。東京中が焼き尽くされてでもいるかのようだわ。 科学! 進歩! 人類! 東城さんの声がして、私はまるで仏さまにでも会ったかのように嬉しくなりました。 よかった。あたしは一人でこの地平にさまよっているのではなかったのだ。東城さんという名の神様がちゃんといらして、あたしの進む道を教えてくださるのだ。 希望を持って歩き出した瞬間、ピカッと何かが閃き、ごごごおんと恐ろしい音がして大地が縦に揺れました。体が人形のように曲がらなくなり、あたしは窮屈に振り向いて、そちらを見ました。 目が覚めました。 その瞬間に目が潰れたので、何を見たかは覚えていません。 「大丈夫? 神経衰弱じゃないの? 何がそんなに心配なの? お医者様には見てもらった?」 東城さんが、あたしのことを心配してくださいます。本当にこんなことではいけません。気持ちが鬱々として、東城さんの愛撫にさえ心が開かないのです。 東城さんは怒りませんでした。ただ空気を変えるように障子を押し開いて、 「ほら、向こうはすごい騒ぎだ」 川の向こうを指差しました。 夜中だというのに提灯が赤々と灯っていて、まるで夢の中の景色のよ―― 「君は、先のことを考えすぎて怖くなっているんじゃないか」 東城さんが窓枠に腰をかけて腕を組みながら、言いました。 「進む先の未来が恐ろしいんじゃないか」 その時、あたしの口をついて出た声は、まるであたしのものではないかのようでした――あの意地悪な榊ねえさんがいつか言っていたものです。あんたのお父さんは狐つきだったので、あんたは家におられなくなったのだよ。 「東城さん。あたし進むのはちっとも怖くないのです。もしあたし達がどこかへ本当に向かっているのなら、たとえ災厄があろうとひょいと身を屈めることや道を変えることだって出来るはずでしょう。 しかしもしあたし達がただ立っているだけで、向こうから何かが来るのなら、その時はきっと、空からどんな大火が降ってもあたし達避けることが出来ないだろうと思うのです。 お偉い方々もよく進歩進歩とおっしゃいますから、それをあたしもおまじないのように口に唱えて来ました――けれどもよく分かりません。 東城さん、あたし達は、進んでいるんですか。それとも止まっていて、景色が動いているんですか。そのどちらも、動いているという気持ちがするものでしょう。 進んでいるのならいいの。でも来るのなら、あたし怖いのです。きっと何か取り返しのつかない罪と、つらい罰が来るような気がして」 東城さんは、ひどく強張ったような顔をして馬鹿なことを、と仰いました。そして、仕事があるからとお帰りになってしまいました。 あたしはまるで初めからたった独りであったかのような孤独の闇に一人横になり、そしてまた夢を、見たのです。 ついにどんどんと、どんどんと音が大きくなり、やがて彼方から大きな青い龍が来ました。 大きな青い龍が来たのです。 よく見るとそれは人魂のかたまりで、石臼の音はその息継ぎの音であったので、彼らはあたしを見ると、訴えるようにほあああとおたけびを上げました。 愚かでした。東城さんを怒らせてしまいました。なんて馬鹿なことを言ったのでしょう。 進歩です。進歩です。この日々が進歩以外の何でしょう。そうでなければ青い龍が来てしまいます。東京が焼かれる日が来ます。 奇妙な稲光の日も来るでしょう。 あたしは愚かな愚かな女給です。 世の中の進歩していることが分からないのです。 だからこんな明るい時代に街の隅で一人、震えているのです。 |
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