華人





 その「中国人」は若くて、髭もなく、ほとんど十七、八に見えたが、実際にいくつなのか言葉は通じなかった。
 イヴォンヌの親切心は、呪わしい娼館の扉が開け閉めされるたびに擦り切れ、とうの昔に底をついていたから、そんな外来で一見の、不慣れな男に優しくしてやる気など毛頭ない。
 大体、子どもみたいなつらをしながら、男はいやらしく、ちゃあんと知っているではないか。ここはどこで、どういう手順で、何をしたらいいところなのか。
「外国人ですって? 国に帰った時、自慢にでもするわけ? 花の都で見事パリ娘を抱いてきたぞって。
 マダムにそんな注文したそうじゃない。あいにく、わたしはショーモンの生まれよ。
 あんた騙されてんのよ。お望みのパリジェンヌは今ごろ、あんたをここに連れてきた男が食ってる最中だわね」
 ベッドの端に腰掛けた異邦人は、脱いだズボンを手近の椅子の背に掛けた後、首をねじって彼女を見た。
 しかし、目を見開くようにして、きょとんとしている。
 イヴォンヌはうんざりしてキセルから紫煙を吸い込んだが、次の瞬間、軽蔑の笑みに唇を歪ませた。
「そう、分かりゃしないのよね。こりゃいいわ。
 ――あんたが国に持って帰れるのは、せいぜい病気くらいだって言ってんのよ、このサル未開人」
「?」
 男は困って、善良で間抜けな人間がやるように笑みを浮かべた。そののっぺりした、田舎くさい幼い娘のような顔立ちが、イヴォンヌの苛立ちに火を注ぐ。
「言っても無駄ね。あんたらは言葉を理解しないんだもの。はるばる海を越して、金を巻き上げられにきたってわけよ、馬鹿な男。どうせあの男の勘定まであんたが払わされるに決まってるわ」
「――?」
「本当に分かんないの? イライラするわね。
 こんなことも分からないような土地に、なぜ来たのよ? 商売に? 野望があるとでも? ここの人間に騙されるとは――思わない?
 それでも、何とかなると思ったわけ? 言葉も分からないのに? あの男のうわべの親切を本当の親切だと信じて―――バカじゃないの?
 中国で、おとなしくしてればよかったのよ! そうすれば人にかつがれることもなかったのに。結局あんたはバカを見るために生まれてきたし、騙されるためにわざわざここまで出てきたってわけなのよね! 茶番にもほどが――…」
 最近は、一度腹が立つと、壁にぶち当たるまで止まることが出来ない。
 呆気にとられる男の前で、イヴォンヌは身を絞るようにしてまくし立て、一気に憎悪を吐き出した。それから、糸が切れたように下を向き、手で額を押さえた。
 部屋に沈黙が流れ、全てがぶちこわしになったように、イヴォンヌは感じた。男は呆れている。自分はもはや、普通の娼婦ですらない。ここ数年で、何か人として決定的なものが、ぶち壊れてしまった。
 そういう自覚が胃の奥から何よりも悪く湧いて、四肢から力を奪う。
 中国人は実際、長い間黙っていた。しかし、白けてはいなかった。
 彼には言葉が分からないので、何が起きたか分からず、白けることも怒ることも出来なかったのである。
 ただ彼は、目の前で女の子がしくしく泣き出したとだけ考えたらしかった。ベッドの中で膝を抱えるイヴォンヌの側まで四つんばいになって寄ってくると、額を覆う手に、そっと触れた。
「ノン シノワァズ」
 顔を上げる彼女に男は言う。――どういう理屈か、笑ってすらいた。
 イヴォンヌがびくりとすると、彼は空中に手を動かしながら、突如ごちゃごちゃと、彼女に負けず劣らず分からないことを言い始めた。
 どうやらそれは、清じゃない。××だ。それは、清がここにあって、○○がここにあり、そしてその右が△△。で、××はここなんだ。というようなことを言っているらしかった。
 どれも彼女には初めての、耳慣れぬ国名であり、勿論覚えられなかった。「中国」というのもマダムに聞いただけで、どこにあるやらさっぱり知らないのだから。
 分からない。という目でイヴォンヌは「中国人」を見た。すると彼は濃い色の頬を持ち上げて笑い、口を吸ってきた。





 「中国人」は特別、そこらの男と変わったやり方はしなかった。ただ、分からない言葉でうわごとを言った挙句、殴り倒されたときみたいな低い声を漏らして崩れてきた。
 案の定、通常の二人分よりさらにふっかけられた勘定書きが、彼の前へ出されたようだ。だがそれも、疑いもせずに即座に支払って帰ったらしい。
 間抜けな旅客を騙して儲けたマダムがにやりと笑うのを、イヴォンヌは見た。




*




 イヴォンヌは男の顔をすぐ忘れた。一回で覚えられるものじゃない。それどころか道で会う「中国人」の顔が、みんな同じ男に見えた。
 通りにある大きな書店の、ピカピカ光る最新型の飾り窓の中に、小さな地球儀と大きな世界地図が飾ってあった。イヴォンヌは足を止める。


 ―― 清人じゃない。


 イヴォンヌの耳に、その囁くように平坦な声の様子だけが、何か寂しい味をもって残っていた。


 ―― それは、清がここにあって、○○がここにあり、そしてその右が△△。××はここなんだ。


 分からないわよ。
とイヴォンヌも思い、何故か笑った。
 あの「中国人」にも、イヴォンヌの「さと」がどこなのか、とうとう分からなかったに違いない。




(EOF)


戻る >>






background img by 夢之屋