軽傷
沈黙は十分ほども続いていた。片瀬の宿の室で、男と女は向かい合ったまま。 夕食の膳はとっくに下げられ、ふすまの向こうの一間には布団が敷かれている。その白さが目に辛くて、女は顔も上げられない。 「どうする。おえい」 四十前の男は全く気楽だった。女の気もしらないでさっさと浴衣に着替え、胡坐をかいて待っていた。待つことを楽しんでもいた。 新しい煙草に火をつけて、 「確かに俺は年を食った醜男だがな。ウソはつかない。もしお前が俺のものになるんなら、お前の家族は引き受けてやる」 女はいっそう追い詰められたように横を向いた。だがそのまなじりにはそろそろ女らしい無力な諦めと、自暴自棄とが生まれつつあった。 全く勝負は見えている。男は勝ちと知れている勝負を楽しむのが好きだった。 男は女を放って、先に寝床に入った。やがて女の小さな足音が、どうしようもなく、そろそろと布団のほうへ近づいてきた。 恒月深沢新太郎は東京市日本橋本町の版元「世界社」の跡取りである。創始者深沢竹男は自分に男子がなかったので、娘婿である恒月を後継者とみなして様々な業務を勉強させていた。 彼は現在、少年向け雑誌『おとぎの国』の編集総長の職にあり、我の強い、くせ者ぞろいの編集者や作家を大勢使う立場にあった。 その中にこども向け小説を書く小田春海という男がいた。恒月より一回り若い二六歳で、上品でおとなしい男であった。 恒月は最初にこの男に会った時、その少女のような雰囲気と整った顔立ちに驚いた。それから作品を読んでその情動の細やかなことを知った。 最後にこんな野の草のような人間に、今の大東京が渡っていけるものかという侮りで止まった。 彼はこどもの心が善なることを信じていた。世界中の人間が本質的には善人であり、ともに仲良く暮らせることを信じていた。まさに柔らかい茎と葉を持ち、白く清楚な花を一つだけ中央に抱きこむ一輪草のような人物だった。 恒月はその繊細さに呆れ、実用に耐えないことをみくびって気を落ち着けたのである。 実際、小田春海は脅威などとは無縁の男であった。どの下宿に行っても断られたことがないという。悪い同僚達に絡まれたりからかわれたりしても、ただ笑っているばかり。そしてどんな場面でも弱くはかないものの味方をするのだった。 恒月としても、小田を憎む理由はなかった。寧ろ経営者としてその実直な仕事ぶりは好ましいものであった。度々彼を伴って酒を飲みに行き、自分ばかりしたたか酔って迷惑をかけた。それでもまた酒に誘えば、彼はいやな顔一つしない。 そうやって共に過ごしながらも恒月の頭からは、この男ともいつか「決着」をつけねばならぬという考が去らなかった。 ある日、社内での噂が偶然恒月の耳に入った。小田春海が最近『芙蓉館』の女給に恋をしている。相手は十九歳のおえいという女だが、内気な彼は相手にそのことを伝えることもしないで、古風なしのぶ恋をしているのだという。 もちろん恒月はその娘を知っていた。なるほど小田の隣によく栄えそうな、色白で美しい娘である。 恒月の胸に悪魔的な考えが兆した。 小田春海が北陸の郷里に戻っている間に、彼はおえいを片瀬に誘い出し、家族の面倒を引き受けることを条件にこれを妾とした。 特別な策を講じたわけではないから、噂は瞬く間に社中に広まった。誰かが羽後にいる小田へ手紙をやったそうであった。恒月は部下の文士らの視線を浴びて寧ろ得意の情を覚え、うきうきと日々を過ごした。 おえいには一家四人の生活がかかっていた。若い作家である小田には、その口を糊することは不可能であろう。だが自分なら、女を家ごとかかえ込んでも痛くも痒くもない。 勝利だ。恒月は現実のことわりを再確認できて満足であった。 やがて秋の風情と共に小田が東京へ戻ってきた。出社して彼が持ってきた原稿は以前のように穏やかで正しくて、まったく益体のないものであった。恒月は淡い色の小さな花束を渡されたようなものだった。 恒月は白い小田の顔を見て笑った。 「小田君、少し痩せたかい?」 彼は顔を俯かせる。 「旅が苦手なほうですので…」 「そうか。体を大事にな。 小田君はいつも締切を守るし、性格も素直で正直でなお結構だ。これからも末永いお付き合いをお願いしたいね」 「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」 小田はお辞儀した。無理して微笑んでいるようであった。恒月はゾクゾクした。彼は他人をいじめるのが大好きだった。 「今度また飲もうじゃないか。実は湯島に別の家を作ったんでね、酔いつぶれちまったら、そこへ転がり込めばよい」 「……」 行儀のいい彼には珍しく、小田春海は片手を袖の中に入れて腕を擦るようにした。 「ねえ、君も知らぬ女じゃないだろう。芙蓉館の栄という女だが、ぼくは今あれの、面倒をみてやっててね――」 恒月はいきなり喉をズブリと貫かれて絶句した。 いな。錯覚であったが、小田春海がびい玉のような二つの目をぴたりとすえて恒月を睨んだその時、彼は、刃物でぐさりとやられたような衝撃を受けたのである。 笑みの脇から、汗が出た。だが恒月は自分が何をされたのか、まだよく分かっていなかった。小田が立ち上がり、礼を言って去って行った後も、まだぽかんとしていた。 ところが小部屋から出て編集室へ入ると、そこに並ぶ全員が同じような目をして恒月を見るのである。 彼らは何も言わなかった。小田春海も黙って自分の机へ戻り、遅れて出社した同僚達と挨拶した。 彼らはみな月給取りに過ぎず、社をほされれば途端に生活に行き詰まる身であり、大抵借金持ちで恒月深沢新太郎は何も失っていないはずであった。 彼は変わらず勝者であった。だのに今、何故か彼は手足の痺れと一緒に「やられた」と感じていた。 それは彼の本能のうめきであり、どういう意味を為すのか、はっきりしなかった。 だが彼は以来、なんとなく彼らと付き合うことを避け始めた。恒月と思考を同じくし、安全無事と思われる人物とだけ遊ぶようになった。 危険安全のその区分けがどこに由来するのかは不明であった。ただ彼は事物の本質を深く見つめ、厳しく、或いはもの静かに内省にふけるような人間をことごとく避けた。 それは門の前を清めている下女のまく水に、注意して当たらないようにするがごとくであった。 やがて一年が過ぎた頃、ある通俗小説が世に出た。宝石の指輪をはめた金持ち男が女を唆して恋人を棄てさせる。恋人の学生は女を蹴り飛ばして復讐を誓い、金に盲従し人を苦しめる金色の鬼になる。 それを書いた男は社の人間ではなかったが、彼らも親しくしている文壇の大家であった。金と男女の業を描いたその小説は大好評を博し、続編に続編を重ねた。 小田春海は相変わらずこども向けの小説を書くもの静かな青年であったが、時に作品の中には生身の人間のずるさ汚さが、冷静で緻密な筆致で、レース模様のように現れるのだ。 既にその雑誌を離れていた恒月はそれらを見るのを避けた。 何を怖がることがあるんです。連中は三文文士じゃありませんか。あなたが名指しで攻撃されてるわけでもない。中傷ならぬ、ほんのかすり傷でしょう。笑っていなさい。 彼の友達はそう言ったが、恒月はどの雑誌でも彼らの中に入っていくことを避けた。なんとなればあの瞬間、彼はおのれの肚の底までを、一気に見通されたように感じたからである。 彼の本能は負けること、つまり受身の立場に立つことを徹底的に忌諱していた。だから彼はあの、感覚を限界まで尖らして見えない心理の極へ触れようと企てる危険な連中に、二度と近づこうとはしなかった。 (EOF)
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