結婚






 美しい調べが、緑の草と空の間を、山からの雪解けの水のように滑ってくるので、掃除の手を止めました。
 遠く乾いた草はらに、一人腰を下ろして小さな笛を構えているのは、私の夫です。
 何度か聴いたことのある、哀しみのこもった曲を吹いています。
 女の人が一人、月夜に泣いている。それは手足の小さな、なよやかな物腰の人で、彼女の慕う男の人は忙しく、長いこと顔を見せてくれないので、恋に疲れた彼女はいつしか病気になって、寝入ってしまう。
 そんな悲しい物語が、自然と頭に浮かぶようなきれいな曲です。
 暖かい春の風の下で、私はしばらく立ったまま、一心に笛を吹く夫の姿を見つめました。
 夫は足元に草原、天に青空を従え、世界のちょうど真ん中に座っていました。




 夫と結婚して一年になります。最近では、互いに何を言っているのか分からずに困る、ということもほとんどなくなりました。
 夫は部族の人ではありません。遥か遠い東の国の生まれだそうです。
 あの山神様がお住まいになる雪の山脈を超えて、馬で何日も何日もかけて東へ進むと、海のほとりに大きなミヤコがあり、数え切れないほど大勢の人がそれぞれのお家をたてて暮らしているのだそうです。
 そんなところで生まれ育った夫が、どういったいきさつでこの広い草原に姿を現したのか、誰も知りません。
 ただ、ケイマ部の長のもとで暮らしていたところ、偶然やって来た私の父にひと目で気に入られ、是非うちの婿になってくれと熱心に乞われたとのことです。
 夫が初めて私の家にやって来た時のことは忘れられません。その頃はもう、父や普通の男の人達とそんなに変わらない身なりをしていましたが、まだどことなくぎこちなく、よその人であることはすぐに分かりました。
 彼は床に座り込んだ私を見るなり、父の方を振り返って言ったものです。

――若い。
まるで私の子供。若い。娘さん、かわいそう。


 私ときたらぽかんとしていました。だって、その時の夫はなんて色白であったことでしょう。
 草原を吹きすさぶ乾いた風になぶられ、ぎらぎらと照りつけるお天道様に焼かれて、少しずつ染まって来てはいますが、今でも夫の肌は驚くような明るい色です。
 その頃は、もっとでした。私はそんな高貴な肌をもつ男の人を、それまで見たことがなかったのです。
 言葉もないまま、驚きに身を堅くしていると、父が私の顔を覗き込むようにして言うのです。

――娘よ。お前は父さんを信じるだろうな? 父さんの選んだ男の人に、異存はないだろうな?

 そう言われて、それが何を示すのか分かってしまいますと、突然、足の甲に杭を打ち込まれたような恐怖が、私の全身を包みました。
 私はすっかり慌てて泣き出してしまいました。母が近づいて抱きしめてくれました。
 夫は父に言いました。

――ごらん。かわいそうだ。あなたの娘、かわいそう。
――大丈夫。少し驚いただけだろう。この子は私の子供の中で一番すぐれた子なんだ。とても親孝行で、頭のかしこい子だ。


 夫はどうしたらいいか、というように、母に抱かれる私を見下ろしました。私も涙におぼれた目で、夫を見上げました。




 夫は父よりは若年に見えますが、やはり私の倍ほどはよけいに生きているのではないかと思います。
 婚礼が決まると、わずかな手持ちの荷物の中から、折りたたんだ男物の衣を一枚、私に呉れました。彼の持っていた最後の故国の衣で、深い深い藍色です。
 ああ、この衣はこの人の白く清らかな肌に、大変よく似合ったろう。
 そう思いながら床の上でそれを広げてみますと、一瞬、嗅いだことのないみやびな香りがさっとあたりにこぼれました。
 その時初めて、私は遥か遠いミヤコというものを、じかに知ったのでした。またたきをするほどの、束の間ではありましたけれど。
 そばに座っていた夫も気付いたはずですが、何も言いませんでした。表情を伺うと、目をほとんど伏せていました。




 夫は時々、家畜の世話を一休みして、笛を吹きます。たいていいつも、哀しい調子の曲です。
 けれどその顔に懐かしさや、後悔の気色が現れたことは一度もありません。一曲吹き終わってしまうと、惜しむでもなく、何事もなかったかのように黙って、仕事へと戻っていきます。
 彼の心は空にある鳥のようで、地にある時の方が短いのかもしれません。
 時折、自分が肉体を持っていることが驚きだとでもいうように、まともに私の顔を見るのです。




 間違えて砂がちの土地に迷ってしまった時、地面にしゃがみこんで何かじっとしているので、近寄って声を掛けたことがあります。
 そこには見たことのない、文字らしき模様が、縦に数列、先端の鋭い石で書きつけてありました。

――たいしたものじゃないんだよ。

 私を見ると夫は、恥ずかしそうに立ち上がって言いました。

――昔、こういうものを、人と競争するためにたくさん、たくさん作ったものさ。

 意味は分からないけれど、「花」「盃」「全」「夢」というような文字が、しばし私の目に残りました。

――君たちが、炉辺で歌ううたのほうが、千倍もほんものだ。歌っておくれ。




あなたが笑ってくださるのなら
ほかにはなにもいただきません




 夕刻。夫の乞うままに私が歌いますと、夫は穏やかに微笑んで言いました。

――はやく草のたくさんある土地へ、移らなければならないね。





 夫は意外にがっしりした手足を持っています。いまだに私を、ほんの小さな動物でも扱うみたいに、やさしく扱います。
 ミヤコに妻や子供がいたのかもしれません。私を抱く時のその丁寧さは、まるでなにかの償いをしているかのようです。
 私は夫と触れ合うたびに、彼の吹く笛の音。異国の調べ。そしてあの衣の香りと彼の秘密とが、少しずつ自分にうつってきて、肌越しに、私の体へしみこんでゆくのを感じます。




 夫は今日も丘の上で笛を鳴らしていました。やがて腕を下ろして立ち上がると、羊の皮で出来た腰の袋に笛を戻し、静かに家畜たちのほうへと戻っていきました。



(EOF)








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