鏡台




 母が亡くなりましたのは全く唐突で、昼過ぎに家で倒れたと聞いたその夕刻には息を引き取りましたから、悲しいと感じている暇もなく、ただ呆然としている間に次々人がいらっしゃって非常に忙しくなって、通夜の準備などしている間に悲しみに浸る機会も逃してしまいました。
 お客人が「朝子さんはご立派で」と囁いておいでなのを小耳に挟んだ時には、外からはそういうふうに、つまり私が悲しみを堪えて気丈に振舞っているように見えるのだなあと、少々妙に思われたほどです。
 大宮に住んでいる妹のその子も夫の自動車で通夜に駆けつけましたけれど、泣いて泣いて困ったものでした。始終ハンケチを顔に当てて、まともに挨拶も出来ない妹が隣におりますと、こちらの心中はかえって冴え冴えしてくるようで、私は涙の潮の中で一人、静かに母の遺影を眺めていたのでございます。
 母とは決して仲が良くありませんでした。私はお父さん子だったのです。貿易会社を運営していた父は一五年も前に亡くなりましたが、目尻の下がった大変に性根の優しい人で、芸術にも造詣の深い紳士でした。
 旧家のお嬢様育ちであった母はとても嫉妬深く、父と私が仲良くするのを驚くほどあからさまに邪魔するのです。例えば父が私を活動にでも誘おうものなら、飛んできて用事を言いつけるという次第。私が父にバイオリンを習っている間中、襖の向こうでじっとこちらの様子を窺っていたこともあります。
 そんなわけで、どうしても母を好きになれませんでした。年の離れた妹は逆に母の味方です。八つの時に父が死んだので、母のそうした振る舞いをほぼ知らずに済んだのです。
 それに、妹は気立てはいいけれど、美人ではありません。母は側には自分より美しくない人を置きたがりました。そして度々、かわいい女中を首にしました。
 斯く言う私も執念深い女です。今になっても母の仕打ちを水に流すことが出来ないのですから。負けず劣らず心が狭いと言わねばならないでしょう。
 母の寝室に参りました。お棺の中に入れるものを見繕うためです。母は化粧品の類をとても大切にしていましたから、口紅や手鏡、香水などを入れてあげようと思ったのです。
 そう言えば、母はこれらのものも決して人に触らせませんでした。女中にもです。母の化粧品でままごと遊びなどしようものなら、妹ですら、手やお尻を思い切り叩かれて泣いたものでした。
 今はもう大丈夫だわ。そう考えて思わず苦笑した後、禁じられていたその鏡台の引き出しを開け、品物を、お盆に載せていきました。
 上の段に続いて、何気なく下の段も開けましたが、驚いたことに、下の段には白っぽい平たい箱が入っているきりなのです。
 あら? と意外に思ってその箱を取り出しました。銀座の小物屋さんの名の入った、硬い紙で出来たきれいな箱です。蓋を開いて私は思わず、あっと声を上げました。
 中には写真が入っていました。そう、古い写真がたくさん――全て、写っているのは父です。
 若い頃の、黒髪をきれいに撫で付けたおしゃれな青年である父。まるで家族の屈託など想像もしていなかった日の、澄んだ瞳で無邪気に笑う父。
 夢でも見ているような横顔の、ひょっとしたら恋や愛の中で生きていた頃の、父。どれもこれも、美しい写真ばかりです。
 ――こんなものは見たことがありませんでした。勿論父の写真は、家族用のアルバムにちゃんと収められています。
 けれど、それは他人と一緒に景色の中に写っているもので、全身が写っているため、大抵顔ははっきりしません。
 ここにある写真のような、大きな写りの、…しかも若い頃のポートレイトが、こんなにたくさんあるなんて思いも寄らないことでした。
 きっと妹も知らないでしょう。母だけがこれを知っていたのです。お父様のこと、あまり覚えていないのという妹にも見せず、父が死んでしばらくはアルバムばかりめくっていた私にも内緒で、母はそれらを鏡台の下に隠しもち、折々自分だけで見つめていたのに違いありません。
 私は、覚えず力を無くしてその場に座り込んでしまいました。女の執念もここまでいくと、呆れる他ありません。
 …嫉妬深い人というのは、本当に徹底したものです。こんな亡くなりかたでもしなければ、いずれ焼いてしまうつもりだったのかもしれません。
 そうなれば妹も私も、父の若いころのことは何も知らずに終わります。寧ろそれが、母のもくろみだったのでしょう。
 この人はわたしの夫。この人のわたしは妻。わたし以外の一人の女も、この写真にある最高の頃の夫を見てはならない。何かを感じることなど許さない。微笑むなどもってのほかだ。
 夫にまつわる全てはわたしだけのもの。死の直前にこの写真を焼こう。そうすれば失われた記憶は永遠に、わたしだけのものになるのだから。
 …おかしなことを考えたものです…。そんなに必死にならずとも父は、母だけのものでしたのに。
 確かに、父は私にも色んなことを話してくれました。でも、どれだけかわいがられたところで、娘には父の全てを知ることなど出来るわけがありません。
 私は嫁いだ後になって、ああ、自分は父のことを実は何も知らないでいた。父がどんな男性であったか本当の事を知ることが出来るのは、まことに幸運なあの母だけだったのだと、とくと思い知ったものですのに…。
 それでも尚、浅ましい女の安堵には足らなくて、苦しんでいたものでしょうかしら。


 部屋は静まり返っておりました。鏡台に女の顔が映っているのにふと気がつきました。
 写真を箱に戻して中へ入れ、引き出しを閉じておりますと、女の表情は自然と伏目がちになり、まるで何かを懺悔しているように見えました。



(EOF)

F)
戻る >>