満月




 常に沈着ととられ、迷うことも慌てることもないと思われている私だが心中は焦りに満ちている。
 子供の頃から日頃の生活のある瞬間、ふと我に返るとそれが罠の真っ只中であることがよくあった。
 その瞬間から私は奈落に囚われまい、意に反して血を失うまいともがくことになるのだが、人が獣をつらまえる罠と違って人がはまる罠の狡猾なところは、たとえそこから脱することが出来ても、一旦罠にかかりかけ、今逃れたそれすらさだめの範疇なのではないかという疑惑を抱かせることだ。
 閉じられた箱の中を出口を探して走り回る鼠とは違って、私は総体の思惟をなんとか見抜き、その支配から逃れたく思うが、全ての岐路を分析し尽くすには私の脳髄は絶対的に小さく―――大きな手が襟首を掴み、もういいとそこからつまみ出すとどのつまりに鼠と何の違いがあろう。
 やばいぞやばいぞと唱えながら今日も私は廊下を歩いている。出来立ての和製洋館の長い廊下には延々と白く四角い光が落ちている。
 満月なのだ。普段は灰色の肌に静脈を浮かせて冷め切っている月が、今に限ってはしようのない三十女みたいにありあまる光を世界に振りまいている。
 足が止まらない。やばいことは分かっているのに。これは罠だ、その香りがする。またしても彼らは私に何かとんでもないものをぶつけて、混乱と躊躇と衝動と葛藤とで私をなぶりものにするつもりなのだ。
 だのに体は月の光を踏んでいく。勢いすら増している。学校で習った世間様のジオラマには肉と髪の毛が足りていないことを少しは知っている私である。日曜から土曜まで、カレンダーのように並んだ四角い明かりを一つずつ踏みながら、やばいやばいやばいやばいと唱えるのに足は止まらず馬鹿げた従順さでやがて廊下の果てまでやって来た。
 つきあたりには階段があった。そして満月の本体はそのすぐ外にもったりと巨体を浮かべていた。踊り場の壁に穿たれた窓から柔らかそうな下腹が見え、辺りは白熱灯が灯っているかのように明るかった。
 かすかに、誰かが階段を降りてくる気配がした。心臓が縮み上がった。背中には骨に沿うてびっしり汗が浮き感冒ではないかと疑うほどの寒気が走り抜けたが、その頃には床が足を噛みこんで、もう一歩も動けないのだ。
 降りてくるのが男であろうが女であろうが、それに破滅させられるのに違いないと私は思った。それでいて眼は月に吸い込まれて決して離れようとせず、そのままいればじき視界の中に、踊り場を過ぎて破滅の全貌が現れてくるのに違いなかった。
 床も壁も天井も階段も内通者のように静まり返っていた。足元から浅ましく蔑みのこもった興味が渦を巻いて伝わってくる。彼らは罠の中で人間達がどのように首を振りどのような醜態を見せ付けるか実によく知っているのだ。
 気配は近づいてくる。靴に獣毛の倒される音がする。男か女かまだ分からない。
 頬に血が昇って、ひどく暑かった。私はタイの堅苦しさに顔をしかめ、喘ぐ獣のように、唇を開いて息を吸い込んだ。





(EOF)

F)
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