眼鏡




 深夜。
ようやくと書室は静かになりました。もう女官たちも控えの間でうつらうつらしております。
 私は灯りを消すために、一人立って冷えた廊下を歩いて行きました。
 部屋の中では三人が酔いつぶれて眠っておいででした。お客様はめいめい床に横になっておいでで、あるじは壁にもたれて目を閉じています。
 私は隙間を踏んで部屋の灯りを消して回りました。そして最後にあるじの傍に立った時、ふと、あるじが眼鏡を外していることに気付いたのです。
 眼鏡とは不思議なものです。それをかけている人には畏敬の念を覚えます。
 私は初めてあるじに会った時、その上品な顔立ちを際立たせていたレンズの魔力に、ふるえたものでした。
 あるじのようになるのだとがんばって来ました。昼も夜も勉学して参りました。指にはたこもでき、最近は時折眼が掠れます。
 それが、今になって、あるじが何か躊躇を覚えているとは――
 あるじは私が眼鏡自体に惹きつけられていることを知っており、あまつさえ、触らぬように――と、戒めます。
 なにがいけないのでしょう。
私は無意識のうちに、傍に置かれた眼鏡に手を伸ばし、そのつるを、自分の顔に差し込みました。
 そして、まるで水中でまぶたを開くような決意で、目を開きました。


ぐにょり。
 突如、視界が歪み、私は倒れそうになりました。私はそれまで、眼鏡をかけたことがなかったのです。
 こんなものだとは知りませんでした。視界がまなこの部分で無理やり矯正されるような感じがします。
 それでもこらえて室内を振り向きますと、像がはっきりするどころかかえって焦点が合わず、黄惇様のお顔も柳士敬様のお顔も、めまいのなかでまるで人間の態ではありません。
 黄惇様は小さな目がどこにあるやら分からず、鼻も奇怪につぶれて化け物のよう。柳士敬様などは顎と口の区別がつかず、いびきが上がることはまるで牛の昼寝のようです。
 なんということだ。私は耐え切れず眼鏡を外しました。目の玉がシクシクと痛み、激しい頭痛が私の顔をしかめさせます。


 ――だから、それに触れてはいけないと言ったのに。


 振り向くと、壁にもたれてあるじが悲しげに笑っていました。


 学問を積むと言うことは彼らと仲間になって、その正体を知ると言うことだ。
 お前が悩んでいたのは知っていたよ。
だが誰もお前に完全によい教えを授けることは出来ないし、お前も完全によい成長を遂げることなど出来はしないのだ。


眼鏡を返しなさい。




(EOF)





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