財閥




 昼過ぎに誰かが出て行ったような気配で目が覚めた。
 玄関へ行くとドアの錠が開いている。また内からかけて、頭痛のする頭を抱えながら、居間へ向かった。
 カーテンが閉まって薄暗い。
動物の背中のような白いラグの上で、ヨシプが素っ裸で眠っていた。
 タオルケットが申し訳のように腰のところにかかっているが、どうも位置からして出て行った彼女が「あんまりだ」と思ってかけたもののようだ。
 キッチン周りは意外と片付いていた。誰が気の利く人が整えて行ったのだろう。当家の主人が酔いつぶれてる間に。
 ああ。頭、痛って。
安酒混ぜるとホント、ろくなことねえな。
 水を探して冷蔵庫を開けたが、すっからかんになっていた。傍らのダストボックスが瓶でいっぱいになっている。
 残っているのはコカコーラ社のへどが出るほど甘い炭酸ソーダ(しかも葡萄味)だけだ。
 二日酔いに、ファンタグレープ。
惨めさに襲われつつ、仕方がないのでコップに注いで鬱々と居間へ戻った。
 ソファにずぼっ、と腰を下ろす。この新入り家具は軟体で、来客にはすこぶる評判が悪い。が、自分的には体が沈み込むのが好きだ。
 大人になったらかなえたい夢があるだろう。スプリングつきのベッドで思うさま飛び跳ねるとか、化け物みたいな深いクッションにおぼれかけるとか、でけえピンナップを壁に貼って悦に入るとか。
飽きるんだけどね。
 甘い上に炭酸が抜けたサイアクな飲み物を流し込んで、荒れた喉のご機嫌を取る。自分の周囲を取り巻くアルコール臭が一瞬きついグレープ香になって、この世のものとも思えぬおぞましさだ。
 苦悶のうなり声を上げ、空になったグラスを足元へ置いた。
 ぐにゅぐにゅするソファに上体を投げ出し、頭の後ろに手を当てた。
 まぶたを開くと、目の前に、眠れる青年の裸体がある。
 きれいなものだ。
骨が浮いて、皺のついた、黒ずみが消えなくなっている自分の体と比べると、たった今剥き身にしたばかりの若鶏のような新鮮さ。
 不足でも過剰でもない。生活用の筋がしかるべき場所にしかるべく漲って、血をたたえ、岩のようで、肉である。
 ――こいつはルネサンス時代に生まれても、役者でなきゃ彫刻家の部屋とかに転がり込んで食ったに違いない。
 美しい肉体と精神を持って生まれてくる奴がこの世にはいる。
 今、目の前で眠っているのはそういう人間だ。自分だけでなくみんなが知ってる。だからみんな彼を愛する。
 やろうと思えばいくらでも金を稼げる仕事があるのだとマネジメントを担当しているクリスティナ。
 だが少しでも胡散臭いものを感じると、彼はまるで自尊心の高い牛が突然足を動かさなくなるように、その場に止まってしまうのだそうだ。
 それでいて、金にならない、面白い舞台の仕事ばかり、手抜きすることもなく、当たり前に、真剣に、するんだってさ。


 ――大財閥め。
囁いて、目を閉じた。
 この街には昔から、貧乏人の貴族が作る歴史がある。
 何も持っていないくせに、恋人にも乞食にも全てを与える人間。身一つしか財産がないのに、それもいたって簡単に人に呉れてしまうような人間。
 惜しくないのか。怖くないのか。と普通ならおののくわけだが。
 そんな奴は、その残滓を食いつぶして、いかにもこの街を代表してございと装う詐欺師や馬鹿者の数に比べると本当に少数だが、でも、時代時代に実際にいたし、今もいる。
外国人であることも多い。
 パリは基本クソったれなひどい街だが、その点だけは愛している。
 こいつを見ているとあの「王様と私」のユル・ブリンナーを思い出すよ。極東の出身で、この街でサーカスの空中ブランコ乗りをしていた。
 ある日、地面に墜落して体中をバキバキに。
 でもあの古いフィルムで踊る彼は、本当に美しい。
 無一文の王者。裸の貴族。
身を守ることなんか知らないギフト。
 そういう奴のことが本当に本当に好きだよ。
お前だってそのうち病気にでもなって早死にするかもしれないけどな(ユル・ブリンナーは長生きした)。





「おはよー」
 俺の部屋から、クリスティナが出てきた。上下の下着をつけた上に、彼女自身の白い綿シャツを羽織っている。
 念のために言っとくと自分は物置部屋で寝たからね。
 俺はこの目の前の彫刻男とは違う。そう何でもかんでも与えられるもんじゃない。
「栗毛のコ帰ったの?」
「らしいな」
「なんて名前だっけ?」
「ドミじゃなかった。大学図書館で司書をしてるとかいってたような…。あれ別人だっけ?
 なかなかかわいかったね」
「イヤホン耳に突っ込んでギーターンジャリの朗読ループさせながら寝たわよ」
 広がってしまった髪を後ろでまとめながら眼鏡の彼女は言う。
「こないだサタジットが演ったやつ。修行僧にでもなった気分だった」
「俺にはなんか心地よかった」
「えー?」
「この年になると人の聞いてる方が幸せじゃない? 自分でやるより」
「じじむさいわねー。ちょっと分かるけど」
 彼女は台所の方へ行って、やはり飲み物を探しつつ、「え、もう十二時?」と言った。
「うん。外は完全に昼…」
 立ち上がってカーテンを開くと、一気に光が差し込んできて、網膜をからくした。
「ヨシプ起こしてよ、ジダン。…三時には劇場行かなきゃ。そのコ、仕度に時間かかるのよ」
 日光を浴びるやただの若い、いかにも頭の鈍そうな若者に戻っていくヨシプの顔を見つめながら、俺は上の空で、生返事をした。



(EOF)




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