・・世界に開いた穴・・







 こんな騒ぎになることは最初から分かってた。
大体あの女の目はやばすぎた。同じ姉妹なのに芳枝とはまるで雰囲気が違う。
 初めて顔をあわせた時も、真っ向から目に噛み付いてきたっけ。姉の婚約者を見るときの面映さなど欠片も無い、なんと言うか、世界に開いた穴のような鏡だった。
 その目があの夜も爛々と輝いていた。人の中から光が出ることがあるんだなと、彼女を知って初めて知った。


―――――最近あたし、何もかもが曖昧なんだ。


 勝手に寝間着の前ボタンを探る手を掴んだら、彼女がそう言った。


―――――そう言ったことは高校のカウンセラーにでも相談したら。


 まるで古い時代と一緒にこのまま滅んでいくかのような下町の一角で、性の探り合いが行われることには、激しい嫌悪感があった。俺はできるだけ現代を引っ張り込もうと、風を入れてこの女の匂いを消そうとした。


―――――香水を着けるみたいに感情を言葉でごまかしてなんになんの?


 これは皮肉だと思う。俺は「男のくせに」香水を振り撒ける男だ。煙草の臭気を消したいので。


―――――おねえちゃんみたく、全世界にぼんやりもやをかけてその中で寝たいの? そうじゃないでしょ?
心の中で、ためらってるでしょ?

―――――何?

―――――あたし、激しいことに惹かれる。痛いことにも惹かれる。黒板を爪で引っかくような感じ。あの感じ。あの感じ。あの感じ。ああの感じ。


幾度も言いながら彼女はがくがく髪を振り乱した。何かとり憑いているらしかった。


――――――曖昧なものはイヤ。嫌いなの。反吐が出そうなの。皆があたしまでそんなもやの中へ突っ込もうとする。パパもママも大嫌い。お姉ちゃんも死ねばいい。死ねばちょっとはききれいになる…


 畳の上、爪を立てられるままの俺は知っていた。
「あたし、玲ちゃんの幸せも心から祈ってるよ」
芳枝からそう言われた彼女が、その瞬間世にも恐ろしい侮蔑の表情を浮かべたのを。
 俺が彼女を見ると、彼女も俺を見た。彼女の危うい色をはらんだ瞳の奥に、何か火花のようなものが散ってこっちの網膜を焼いた。
 俺は頭を振ってその時の記憶を消しながら、こんな生臭いのはごめんだと思おうとした。俺は二十一世紀に生きる人間なんだ。結婚やセックスくらいは横文字の中でしたい。


―――――嘘言うの止めよう。ホントはあんたも芳枝のことなんか大嫌いのくせに。無理して抱いてるくせに。腹の中でものすごい軽蔑してるくせに。
当たり前だよ、あいつ馬鹿なんだもの!


―――――…。


―――――それでも結婚すればいいよ。
嘘の中で生きていなかきゃいけないって分かってる。
 でも、本当のものと交信していたいでしょ? 本当のものを感じる手段を残しておきたいでしょ?
だから傷をつけよう。誰にも知られずに。
世界にあたしとあなたしか知らない傷を作るの。
パパもママもお姉ちゃんも知らないの。誰も知らないの。
夜毎それをなぞるたびに、あたし達、きっと安心するよ。涙を流すよ。狂わないで済むよ。
 嘘の中で生きていなかきゃいけないって分かってる。
でもあたし、傷が欲しい。傷がほしいよ。
あんたは?
欲しい? 欲しく――――――


彼女が上で、初めて優しい微笑みを見せる。


―――――ほら、やっぱりあんた、あたしの仲間…。


 鍵穴に相応しい鍵が差し込まれたかのような解決と解放の感触。
本当の乳房。本当の粘膜。本当の快楽。本当の瞳。
ぶるぶる震えながら歯を食いしばったのは涙が出てきたから。
 本心を言い当てられるのを恐れるのと同じくらいの強さで本心を抉られることを望んでいる。付き合いと常識の海に溺れながら、染みを点すような冴え冴えとした孤独な夜のことを知られたがっている。
 それをこんな小娘が。
俺よりも七つも下のこんなガキが…。
俺のことを、真っ向からの俺の目を…。
しなびた田舎天井が視界の中で撓んで落ちた。





 愛だの、許しだの、そういう下らん雑誌ネタから離れて、ただまっすぐに理解されるということに、俺がそんなに飢えていたなんて知らなかった。
 それだけあれば何とか落ち着いて生きていけるものだということも知らなかった。
 勿論、芳枝やその家族から見ればその一件はただただ裏切りの類いでしかなかったから、俺は割とたくさんのガラクタをその後失った。
 だが、「本当の」傷だけは心に残り続け、俺は夜毎それを指の腹でなぞっては、今日も発狂を免れている。










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