・・雛罌粟さんの勝ち・・







 のしかかってくるので反射で抵抗したら「仁科ともしたんだからいいだろう」と言う。もっともだからつべこべ言う気も失せて、ソファにもたれてだらんとしたまま上で男が動くのを眺めていた。
 必死になって、無我夢中になって、髪の毛振り乱して三井が腰を叩きつけるたび、確かに私の体は弓なりにしなるが、その衝撃は臍のところで千切れて死んで、首から上には届かない。三度目を迎えた後にやっと相手は一度脱力した顔を上げ、
「何、お前…。いかないの?」
 その額が汗だらけで不愉快だった。右足で彼の肩を蹴りながら、
「気が済んだらどいてくれる?」
と、私は言う。






 朝、首の周りにタオルを巻きつけて風呂場から出てきた三井が、妙ににこにこしていた。
「発見発見。やっと人間らしいもん発見」
屈み込んでビールの空き缶を潰している私の後ろに立つ。
「何?」
「花。洗面台に飾ってあるやつ」
「ああ…」
 近くの花屋で、一八〇円で売っていた雛罌粟だ。まだつぼみで一つも開いていない。しかし三井は嬉しそうだ。
「なんかほっとするね、ああいうもん飾ってあると。ああ、やっぱ純さんも女の子なんだって」
「ただの雛罌粟じゃん」
「ぐはっ。またそれがキくね。ヒナゲシ? 今時誰がそんな難しい言葉知ってますか。ポピーっていうでしょ、フツー。
 純さん、バラって言う時も漢字でしょ、頭ん中で。あ、それともハングルか?」
 ガラガラ、と音を立てるビニル袋をはしゃぐ男に押し付ける。
「え? 何?」
「今日、缶ごみの日。棄ててきて」
「えー、寒いのにヤダ。自分で行きなさいよ」
「あんたが、飲まなきゃ、缶ごみは、出ないの」
 すると三井はちらりとビニール袋の中に目をやり、数を目算した。その後、上目遣いに私の顔を見た。
「俺こんなに飲んでないよ。仁科の分?」
私が答えないでいると、
「一体、あんた一週間に何人の男と寝てんの?」
と言い、どこか無愛想にゴミ袋を引っ手繰ると、その格好のまま外へ出て行った。やがて、窓の外から奴がやけくそのような声で「おはようございまーす!」と誰かと挨拶しているのが聞こえてきた。







 私は世界の全てに終りを見る。
東京という都会は賑やかだと言われるが、
私には死の町に見える。
 子供を見るとその子が成長して大人になり、
何かに強く幻滅している様を思い浮かべ、
 老人を見ると彼らを取り巻く、
「生きねばならぬ」という空手形を見る。
私は正しさに拘っていないが、
それほど間違ったことを夢想してはいないと思う。
 そして平仮名で下らない習字を書き散らす男より、
橙色の車体の前に人生を投げ出して文明を妨害する悪意の方がまだ、理解できる。
 だがそんなことは、誰にとっても、どうだっていいことだ。








 大学の講義室で荷物をまとめていたら、顔を知った生徒がニ三人固まって近寄ってきた。女が二人、男が一人。
「おはよー、純さん。久しぶりだねー」
と、代表して喋る女の子は原と言って、元気で社交的で、国際交流部とかいう部に入って活躍している。らしい。
 親しくもないのに何故この女に限って詳しいのかと言えば、昨夜三井が聞きもしないのにべらべら喋っていたからだ。
「最近会わないって、朴さんが心配してたよ」
「ふうん」
「……あ、ええっとね」
 慌てたように彼女は手を髪にやると、大きな目を真っ直ぐこちらに向けて気を取り直した。
「あのさ、今度ウチの部で、アフガンの難民救済の学内キャンペーンやる予定なのね。キャンペーンって言ってもそんなに大げさなものじゃなくって、ちょっとしたシンポジウムやって、学内で募金募ったり古着とか古毛布集めたりしてって感じなんだけど」
 私はぼんやりと、懸命に喋る彼女の後ろで不信の眼差しとともに突っ立っている二人の学生の壁を見ていた。
「…からね、結構みんなテストとかと重なっちゃって、今人手が足りない状態なんだぁ。それでね、もし純さん忙しくなかったら、さ来週の木金土なんだけど、手伝ってくれないかな、と思って」
「悪いけど…」
私は鞄のチャックを一筋に締める。
「興味ないから」
「興味なくてもいいよ。最初はみんなそうなの」
 黙ったまま首を振った。すると原は、ちょっと顎を引く。
「…そう」
それから何かを切り落とすかのようにきっぱりと言った。
「オッケー。分かった」
 言葉どおりに受け取って私は彼らの間を擦り抜けた。手にしていたコンビニの袋が机の角にぶつかって、中のカロリーメイトの箱が叩かれる。
「ほら、やっぱりダメだって…」
「…だもん。思いやりとか、そういう人間じゃ……」
 後ろで何か言っていたが、脳に届く前に流しに棄ててしまった。ぴしゃりと扉を後ろ手に閉め、私は冷えた廊下を階段へと歩き出す。



 自販機の前で、三井に捕まった。
「よ。お前もこれからメシ? 一緒に食おうや。いいだろ?」
「…手ぇ離せ」
「ヤダ。お前逃げそうなんだもん」
 一緒に列に並ばされた上、強引に向かいの席へ着席させられる。周りの学生たちが何事かとこっちを見ていた。
「何あんた。缶コーヒーだけ? は? カロリー・メイト? …ダイエットしてんの?」
否定すると、眉を寄せて芝居じみた表情を作った。
「そりゃ違うよなあ。あんたそれ以上痩せたら死ぬよ。昨日思ったけど、全然肉無いじゃん。骨と皮と筋だけ?
 冷蔵庫カラッポだったけど、まさかあんた夜もカロリー・メイトじゃないよね。何食べてんの?」
睡眠薬。
「は? 何ィ?」
 口調とは裏腹に三井は楽しそうだった。
「睡眠薬? おいおいちょっと、それ食いもんじゃないから。分かってないかもしれないけど。
どーなってんのかなー、もう」
 私にしてみれば、三井が今目の前にしているごはん、味噌汁、豚肉のしょうが焼き、豆腐、キャベツといったものどもをみんな口の中へ入れられることの方が脅威だ。十代の頃は人が一心不乱に食物を咀嚼し、全てを飲み込んでいく過程を眺めていると吐気が抑えられなかった。無論今も、そう得意ではない。
「アンタ、ものすごい優秀なんだってね」
 私はふくらむ頬、かみ合わされる口元を出来るだけ避けながら三井を見た。奴は笑う。
「助教授クラスでも尻込みするような数式一発で解けるんだって? 最初に見た時から最終解への道がすっと見通せるっていうじゃない。すごいね。俺、門外漢だけどそりゃなかなかすごいって分かるよ」
 私は黙っていた。お構いなしに三井は続ける。
「でもさ、なんかこう生気というか潤いみたいなもんがないよね、あんた。それともどっかでは一生懸命になったり、ものすご拘ったりしてるのかなあ。みんなが知らんだけの話で」
水を流し込んで口を空にすると、女どもにひどく人気のある、大きな黒い目で三井は私を見た。
「あんたさ、一体なんのために生きてんの?」
 私はやっぱり答えなかったが、頭の中でなぜか、雛罌粟の鮮やかな紅色の薄花びらが揺れる様を想像していた。
 手応えを期待できないと思ったのだろう。三井は座が白けきってしまう前に自分からまた口を開いた。
「俺はね、ちなみに楽しみのために生きてんの。アンタと違って俺には世の中楽しいよ。今が一番楽しいのかも、ガクセーだしい。
 食うのも着るのもヤるのも楽しいね。でも究極はね、ヤること。他の二つはそのためにあるわけ。カッコつけるのも高い服買うのも、うまいもん食うのも栄養つけるのもみんなヤるため。
 …あ、そういやお前今日、原の頼みすげなく断ったでしょ」
くつくつくつ、と三井は肩を揺らした。
「あーいつ怒ってたよ。すっげえ腹立ててたよ。俺は笑っちゃったけど。
 あいつね、ボランティアが生きがいなの。ヒューマンな施しが大好きなの。だからさ、それを褒めてくれない奴がいるとすっげえ怒るのよ。
 だからさ、俺も褒めたよ。褒めまくったよ。
やらしてくれるまで褒めちぎったよ。
 ボランティアの本、三冊も貸してくれた時にはさすがに参ったけど、でもあの顔だし、あの体だし、ヤりたいじゃない。がんばりましたよ僕は」
でも飽きちゃってね。二ヶ月で別れちゃった。
 そう言って箸を投げ出した三井は、食堂を出る時
「今夜空いてる?」
それから、
「今さ、仁科のヤローが三つくらい離れたトコにいたの知ってる? あいつ睨んでたよ。なんかこういうの、楽しいよねえ」





 人々は中央線が止まるたびに迷惑なと顔をしかめ、
身近な駅で飛び込みがある度に覗き込みにいくが、
その同じ顔でアフガン難民に十円玉を恵む。
日本ではただの十円でもあちらでは貴重な価値があるのだといい、
難渋した人々の映画に列をなして殺到す。
 彼等は死を貪っている。
彼等は食い物を咀嚼するように悲劇を追う。
けれどもそれは結局
どこまでいっても他人の死、流行と娯楽なのだ。
 彼等は夢を見ている。
この面倒くさい世の中に同情できるだけの涙を流す機会をいつも、
虎視眈々と貪欲に狙っている。









 あんまりいけいけとうるさいので、私は腹を立てて彼の横面を叩いた。
「うるさい! さっさと済ませれば!」
「テメー、思い切り殴りやがったな。いってえな! いけっつうんだよ!」
 膝を抱え込み、思い切り上体をこちらに密着させてくる。
「なんなんだよ、お前の体は! なんかの機械かよ! 条件反射で濡れてるだけかよ! 気持ちよくなんねえのか! ちょっとくらい感じろよ!」
「原でも抱きに行けば!」
「あんな全世界的な女もう二度とヤだ! でもお前は独り過ぎる…!」
 引いたかと思うと私の体をひっくり返し、背中にのしかかってきた。
「いけよ! いっちまえよ! 一度でもいいからいけ! そしたら次から楽しくなるんだ。怖がるな。リラックスして、俺を受け入れろ! ガキじゃあるまいし、心閉ざすんじゃねえよ!」
喚くだけ喚いて、三井はじきに果てたが、私は草臥れてしかめ面をしているだけだった。
 三井は原を馬鹿にしたが、奴だって同じことだ。相手が自分の幸福論に同調しないと怒りだす。快楽を謳歌するという目的を持たない人間を組み伏しながら、何とか自分の世界に沿わせようとするではないか。
ボランティアの本を押し付けるのとどう違うというのだ――――――。








間違ってるなら教えて欲しい。
私は本当にそう思っている。
けれども人はみな死ぬ。
人間の世界もじき終わる。
誰もそれを否定することは出来ない。
だから私は治らない。








 三井はしつこい男だった。今日は自販機を避けていたら、講義室の出口で待ち伏せされた。私も終いにはおかしくなって、苦笑いを浮かべる。
 講義が始まって人のまばらな一階ロビーのカフェに出かけた。
「あんたさ、自分がわりと美人だってことに気付いてないでしょ」
今日も三井は下らないことを延々と喋る。まるで若い教師かなにかのように。
「その考え方さえちょこっと改めればさ、俺よりもいい男がわんさか寄ってきて、そん中にはすごくいいヤツだなーと思えるような男なんかもいて、きっと幸せになれるのに」
 我ながら珍しく、それに抗して口を開こうとしたその時だった。突然原がカフェに飛び込んでくると、我々のテーブルの前に立ち悲鳴のような声で三井の名前を呼んだ。
「三井君! ひどいよ!!」
 高い天井に跳ね返るほどの声だった。ロビー中の目という目が集まってくるのが分かった。
「なに…。どしたの、原」
三井が驚いて彼女を見る。
「私がまだ全然立ち直んないでいるのに! もう他の女子と私の目の前で! しかもなんでこの女なの?!」
 振り回すヴィトンのハンドバックの角が、私の頬に当たった。あ、と三井が口を開きかけたが、原の勢いがそれをさらった。
「まだ他の子だったらいいよ、分かるよ! なんでよりによってこんな女なの?! こんなどうしようもない女と、なんで仲良くすんの?! あたしへの当てつけ?!」
「なんでそれが当てつけになんだよ…」
 三井はほとほと疲れたような顔をしていたから、彼女が何を考えているのか本当は分かっているのだろう。
「こんな誰でも部屋に入れるような女…! 篤弘、知ってるの? このヒト、仁科ともしてるんだよ?! 他の色んな男とも…! 誰でもいいんだよ!」
「…お前、仁科から聞いたんだな…」
「何、何でなの?! もう何が何だかわかんないよ。何でこいつなの? 私だったら考えられないよ。信じられない!」
 何がなんだかわからないのなら、それは感情が思考を拒否したからに他ならない。彼女には自分が三井にとって単なる場つなぎの一つであったとは、受け入れられないのだ。
「お前、もうちょっと落ち着けよ」
「――――――そうだよ」
 二人とも、原さえ、私が喋るとは思わなかったらしい。私がそう言った途端、急に口を閉じて私を見つめた。
「何も、原さんが怒ること、何もないんじゃないの。私はただの、幕間だし」
 どこかしら呆然としたような二人の目を、私はかわるがわる見返した。
 そうでしょ?
快楽ボランティアの、三井君の現在の標的であるというだけです。私が彼の教理に従順に幸福になれば――――――有体に言えばいけば、彼はすぐに次に行く。原を棄てたその手と全く同じように。
明白なことじゃないか。私はアフガン難民を横取ったりはしていない。
「…別に三井が私のこと、原さんより好きだとかそんなわけじゃないし、付き合ってるわけでも無論ないし、何もそんなに怒るほどのこと―――――――」
「気持ち悪いのよあんたは!!」
 全身を震わして、原が怒鳴った。
「何なのその顔?! 何なの?! 生きてんの?! それでも生きてるつもりなの?!
 カロリーメイト食って睡眠薬とコーヒー飲んで、男とヤってヤってヤってもいかないで!!
 …何なの? あんた何なのよ? 変だ、絶対異常だよ! 人間としてどうかしてるよ!!」
「おい、原!」
「この頭のいいヒトにはねえ!」
止めに入ろうとした三井をきっと振り向いて、原は叫ぶ。
「誰も必要ないの! たった独りで生きていけるの! そんな人間に関わらないでいいよ! もっと篤弘のこと必要と思ってくれる人がいるでしょ? 私でも他の誰でも、こんな女に関わりあっても、どうにもならないじゃない! 変なのが伝染るだけよ!!」
 私は席を立った。四時から研究室で教授と打ち合わせをしなくてはいけないのだ。原のヒステリが三井に向かっている間に、彼女の後ろを抜け、集まっている学生の間を擦り抜けてカフェを出る。
 エレベータを待っていたら、後ろから三井が追いかけてきた。
「お前、怒ってないのか」
と言う。首を振った。
「別に」
 大きなため息とともに、三井はふらついて壁に手をやった。
「…お前、どうしてそう冷めてるの? 素直じゃないの? あんなこと言われて嫌じゃないわけないでしょ。
 お前が在日だから? なんかそういう経験と関係あんのか? それで拗ねてんのかよ」
下らない。私は口を歪めて笑った。
「余計な話くっつけて話ややこしくするなよ、三井。
私はただ…」
言葉の続きを待たれたので、私は仕方なしに終りまで話した。
「生きにくいことを改善したり解決しようとしないだけ。悪いけど私そういうことに、全然真面目になれないの」
 前を向いた。
文字の明かりが二十五階から降りてくる。ゆっくりと。
 三井はもう何も言わなかった。体温が離れていくのが分かった。
私は多分、病気なのだろう。
それは知ってる。
きっと太陽を見すぎたのかもしれない。人生の先にあるにしては、死という解は明快すぎるのかもしれない。
 私は深く何かを求めることがないのだ。
強い欲望や執着を抱くこともない。
別に興奮したくない。抱かれたくもない。
他人が欲しくない。
いきたくもない。
――――――そもそも、幸福になろうと思わない。
生きているがただ、死んでいないだけだ。
そしてその結論が私には、もっとも身近で馴染むのだ。死んでいないだけの人生をのみ、無理なく生きていける。
「じゃあね」
 目を開いたままの三井に言った瞬間、エレベータの扉は閉まった。彼が私の部屋にやってくることはもう無いだろう。だがそんなことも私には正直、心の底から、どうだっていいのだ…。








帰宅は深夜になった。
洗面所に立って明かりをつけると、雛罌粟のつぼみが床に落ち、あふれ出た花びらが見事な円を描いてこちらに顔を向けていた。
 あんた達の勝ちだよ。
私は思った。
あんた達の勝ちだ。
 ―――――――人間たちが自分達の築いた文明にあくせくし、欲望や自尊に汲々としているその間に、あなた達はただ静かに、水を吸っている。一言も喋らずただ敢然と首を上げ、倦むことも狂うこともまるで知らぬように花を咲かす。
 迷いもなく。
 迷いもなく。
その潔さの前に、誰の顔を思い浮かべても笑ってしまう。
原も負け。
仁科も負け。
三井も負け。
キムも負け。
ご先祖が苦労して築いたと言う文明のそのなれの果てが、
睡眠薬臭さと言う茶番な始末さ。
雛罌粟さんの勝ち。
雛罌粟さんの勝ち。




病理はそして内部へ及び、
飢えよりも貧困よりももっと
判読不可能な病に私はひたされている。


ともあれ、解はまた一つまろび出た。
どちらにしても私はこの先、
そう長くは、生きないだろう。










---EOF-









02.02.03
to be continued


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