コントラコスモス -14-
ContraCosmos



「来たようだな」
 仮眠を経て昼過ぎ、鳥の飛ぶ城の最上階の窓から、トラスは門前にたかる銀と青の固まりを見下ろして微かに笑った。その横顔は嬉しそうだ。
 目的のある人生はそれほどにやりがいがある。たとえそれが自他を際限なく傷つける毒の如き目的であっても、それは生きるために飲む薬になるのだ。
 彼は絶望の中に復讐という手段を見つけ、それゆえに生きていた。黒々とした穴を中心に抱えながらもまだ生きていた。
 反面、リップはどこまでもやる気がなかった。今更、あんな連中と殺し合いをしても仕方がない。
「一緒に行くか?」
 という彼の問いに関心なく首を振る。
「殺人マニアどもの顔なんか見たくもないな」
「そうか。じゃあまあ待っててくれ。また戻ってくる」
 掌を上げて挨拶すると、トラスは階段を下りていった。何だか色々と仕掛けをしていたようだから、それなりに長いこと暴れてくるだろう。
 リップは窓から離れ、空いた椅子に腰を下ろし、目を閉じる。久しぶりに一人になった。
 ――静かだった。まるで何も悪いことなど起こっていないかのような静寂だ。
 この無垢で、同時に無責任な時間の中で音もなく人生が狂って壊れていくんだなと思った。
 それは仕方のないことなのだ。人間が老いていくのと同じように、滅びの運命にあるものは滅んでいく。それがいかに理不尽な形を取ろうとも。
 リップはそう考えることで、自らを諦め、世界の不毛さも、他人の不幸さもやり過ごすことに決めていた。世界には物語りもなく、結末もなく、救いもない。だからそれは仕方のないことなのだ。
 平穏で幸福な生活などと言うものは、幾千万の幸運と犠牲がなくては成り立たない。そんなものは、王侯貴族の娘辺りがおもちゃにする幻想だ。
 同じ理由で、リップは自分に近づいた女たちが泣きながら去っていくのも見送ってきた。彼は終わりや不幸に逆らわなかった。そして救いも求めないのだ。
 今もこうして、友人が死に向かおうとしているのに別に悲しくも辛くも、引き止めたいとさえ思わない。
 いつから――。
ふいにそう考えた。
 いつから自分はこんなふうになってしまったのか。
こんなふうに乾いた心を抱き、人の生き死にに無関心になり、自分の行く先さえどうでもいい。
 こんなふうではなかった。
こんなふうではなかった。
 昔王都カステルヴィッツにいた頃は、毎日朝早くから国のために体を鍛え、軍務をこなした。部隊の仲間は三十四人。皆が自分の名前を知っていて朝には互いに挨拶しあった。
 自分は任務のこと、髪型のこと、ご婦人のこと、酒のこと、戦のこと、将来のこと、生きること、死ぬこと、絶え間なしに考え、休みなくしゃべりまくっていた。
 本気で不可解だった。
今となっては、まるで他人の死体を見ているようだ。
 バルトロメオ・リフェンスタインは一度死んだ。
その体が、どういうわけか今も動いていて、それでこんなふうにひどい、出来損ないの人間になってしまったのだろう。
 仕方がない。
もう一度呟いてリップは立ち上がった。
 遠くで剣戟の音が聞こえる。
 しばらく経った後、ゴーン、と城に響き渡るような派手な音がしてすぐに悲鳴が追いかけた。天井か扉でも落としたようだ。
 リップは愉快になって階段のほうへ近づいた。と思うや足音が螺旋を昇って走ってくる。 トラスだった。
 彼は血まみれだった。階段に鮮血の滴を落として走ってきた。
「バルト……」
 赤の中で微笑む彼を見たとき、リップは震えて、美しいと思った。
 本当に、欺瞞やごまかしや見栄や軽薄さが幅をきかすこの下らない世界に比べたら、この赤いたらたら流れる宝石のなんと美しいことだろう。死という断絶が持つ刃先は、なんと鋭く真実で、簡単なのだろう。
 それは久しぶりに彼の真髄までを打つ感動だった。鳥肌が走り、一瞬にして彼の全てがそれに呑まれた。
 一旦彼の脇を通り抜け、北側の開ききった窓の下を確認するように覗き込むと、振り返ってトラスは言う。
「残るか? それとも一緒に行くか?」
 リップは白い歯を見せて笑った。そこにはコルタで彼を知るものが一度として見たことのない、本来の素直な、そして―――
生気に溢れた微笑があった。






 ―――ここから先は、私ことミノスが、後にマヒトから聞いた話である。
 マヒトは王都の蒼騎士団と行動を共にし、ク・サンジュ家所有の城に着いたわけだが、騎士たちに任せておいたらリップが殺されてしまうと思ったらしい。
 何しろ彼等は問答無用だった。彼等に下された命令は初めからトラスを処刑することであり、その目的のためならちょっとくらい遺体が増えても見た目などを気にするふうではなかった。
 実際マヒトが道すがら、懲りずに宿の主人に対する狼藉に文句を言うと、彼等はじろりとマヒトを見やって言ったそうだ。
「我々が気にするのは君主である陛下がお気になさることだけです。そして陛下は多少の犠牲には頓着なさいません」
 当然、城に着いてからもマヒトの存在は無視されていた。彼が待ってくれ、中に人質がいると喚いても彼等はまるで聞いていなかった。
 仕方ないので、というかこれが彼の無謀なところだが、彼は城の外壁についた工事用の鉄枠を辿って、城の中に入り込むことにした。鉄枠は外気に晒されて大抵弱くなっているし、普通でも命綱がないと危険だ。
 重装備の騎兵には絶対に昇れない故に、その進入路はノーマークだったわけだが、まあまともな神経の持ち主ならそれでもそれを使おうとは思わなかっただろう。
 だがマヒトは宗教家である。行ってしまった。上っている間に二つくらい鉄枠が外れたそうだ。それほど高さはなかったというが、よく落ちなかったものである。
 何とかたどり着いた窓から城の外部廊下へ降りることが出来た。そこから室内に入って、しばらく迷った。誰かが酒を飲んだ後のような部屋もあったと言う。
 そのうちどーん! という凄まじい音がして足元が揺れた。心臓が飛び上がりはしたが、そのおかげで戦闘が起きていた場所がなんとなく分かり、勘をたよりに走っていたところ、運良く階段にぶちあったった。
 階段の下のほうからはざわめきと悲鳴が聞こえ、上に向かっては血の跡が着いていた。マヒトは上へ向かった。 
 そしてその最上階へたどり着いたとき、彼は先ほどの異音など比べ物にならないほど驚いたという。
 視界に部屋の有様が映った。と思う刹那、窓からひとつの影が消えた。それはもう、躍り上がったとか飛び込んだとかいう芝居がかったものではなく、冗談のように消えた。
 だからそれが何かの見間違いだったのか、本当に誰かが落ちたのかすら、分からなかったそうだ。
 だが、続いて部屋の中から窓へ駆け寄ろうとした影には反応した。反射的にそれに飛び掛りながら、全身の血が逆流して吐きそうだったと彼は言う。
 動く影の意思ははっきりしていた。
ヘタをすれば巻き添えを食って死ぬ。
 全身を貫く嫌悪感を無理矢理押さえつけて動いたのだから、気分くらい悪くなるだろう。
 とにかく無我夢中で首とズボンの腰の部分を引っつかみ、全体重でもって引きずり下ろさんとした。 外へと向かっていた力と床に落とそうとする力が引き合う。声が出たのは、もう勝負がついてからだった。
「―――おおおお……!!」
 どん。とよろめいた二つの体が一つになって床に落ちる。噴き出した冷たい汗が背中を流れ落ちるのが分かった。
 しばらくは、相手の体を抱えながら、なんとか生きているという感触に息をするのがやっとだった。
「マヒト……?」
 我に返る。目の前に体をねじり、驚いたように自分を見ているリップの顔があった。
 魂が溶けるほど安心した。強張った指をやっとのことで解いて彼の襟元を放す。そして絞り出すように笑った。
「よかった……!!」
 だが、リップはそれに応えなかった。それどころか心底傷ついたかのような顔をして、鋭く命令した。
「放せ」
 慌ててもう一方の手も放す。リップはふらつきながら立ち上がると、窓辺へ進んだ。取り残されたマヒトは怖くなり、再び彼が飛び込もうとするのではないかと……。
 そうだ。マヒトはさっきのめまぐるしい一瞬を思い出した。彼は、間違いなく窓から飛び込もうとしていた。死のうとしていた。
 ――何故。
 狼狽したマヒトが見守る中、リップは呆然とした表情のまま窓から下を見ていた。下は川だった。
 リップはしばらく青い顔で、無言でその場に立っていたが、やがてついと体を反転させた。後ろで待つマヒトの側をすり抜ける時、
「あんまりつまらん真似すんなよなあ……」
 と言った。あまりに彼らしくない、切り下げるような言い方だった。
 マヒトが驚いている間に騎兵達がやって来た。彼等は一瞬リップに構えを取りかけたが、先ほど実際に交戦していたためもあって、人違いと分かったらしい。
 苦々しげに一人がマヒトに尋ねた。
「トラスはどこに行きました?」
 マヒトは答える。
「窓の外です……」
 方角から、騎士はその意味をすぐ察したらしい。つかつかと窓に駆け寄ると下を覗き込んだ。それから不快げに鼻を鳴らし、
「……川を探せ! せめて遺体くらい持ち帰らぬと格好がつかん!」
 号令に兵士たちがきびすを返して階段を下りていく。
「人質にされていたというのは、その男ですか?」
 残った騎士がマヒトに尋ねた。
「あっ。そうです。おかげさまで……」
「すぐに退去なさるよう。それに今度からはこんな事態にならぬよう心得なさい」
 マヒトは口を開けてその男の背中を見送った。なんなんだあれは。あれでも一体、国の軍人だろうか……。
 その戸惑いを言葉にしようとリップを探ると、今までいた場所に彼がいなかった。靴音に視線を転じる。リップは彼を置いて、さっさと階段を下り始めていた。
 マヒトは極楽トンボである。
 さらわれた友人のために聖務も講義もほっぽらかしてこんな場所までやって来た上、外壁すら登ってしまうお人よしである。
 が、さすがにこの扱いは心外だった。何も千語を尽くして感謝して欲しいなどとは思わない。だが、幾らなんでも変だ。何故あんな態度を取るのだろう?
 それに、どうして―――――飛び込むなどと。
 マヒトは彼の後を追った。そして無言で階段を降りるリップの背中に話し掛けた。最初は必死に、途中からは、僅かに怒りのこもった口調で。
「おい、リップ……。疲れてるのか? どこか具合でも悪いのか?
 ……みんな心配したんだぞ。大丈夫だったのか? 俺はお前がいなくなった次の日からコルタを出て、追いかけてきたんだ……」
 螺旋階段は続いていた。
前を行くリップの物言わぬ背中。後ろから追う懸命なマヒトの巨躯。
 どうして返事をしないのか。
晴らされぬ疑問にマヒトは苛立った。死体が黙っていても怒りはしない。だがリップは生きているのに!
「街道の宿で変な噂を聞いた……。お前があの男と一緒に領主の私兵を斬ったと言うんだ……。でも、嘘だろ? 本当だとしても、何か事情があったんだろ……?」
 リップは応えない。顔も見せない。
「おい……!」
 とうとうマヒトの堪え性のなさが手を出した。彼の肩を上からつかみ、力任せに振り向かせる。
 獲得したのは不可解なリップの無表情だった。感情がないというより、死んでいた。
 どうして俺が怒るんだ。自分でもおかしいと思いながらも、やる方なくマヒトは爆発する。
「一体どういうことだ……?! 自分を拉致した男と一緒に兵士を傷つけるのみならず、一緒に死のうとするなんて……!」
 リップの水色の目は動じなかった。彼はただ冷たく言い捨てた。
「お前には分からない」
と。
 これは効いた。なまじ下らない理由を聞かされるよりも、ぐさりと心臓に刺さった。
「……な」
 痛みのあまりマヒトは口ごもる。
「なんだ、それは……?!」
 もう駄目だった。訳が分からなかった。その上、この二日間の苦労とか気疲れとか狼狽とかがよってたかって自己主張し、ただでさえ広くない彼の懐をますます狭いものにしていた。
「それがここまでお前を追って来た人間に対する言葉か?!」
 怒鳴りつける。するとリップの眉も歪み、多分初めて見る――怒りの表情が、そこに現れた。
「誰が頼んだ」
「何だと?!」
「街道の宿屋に言付けを頼んだはずだ」


『追うな』


「お前は字が読めないのか?」
 それは事実だ。故に混乱する。頭の中でぐるぐる何かが回っていた。
「……ト、トラスは十人以上を殺した凶悪犯なんだぞ! お前は脅されていたかもしれないし、心配して当然だろう!」
「大したことじゃないだろ」
 面倒くさげにリップは言った。
「――なに?」
「俺が死んだとしたって大した問題じゃないだろうが!」
 平手がリップの顔を殴った。力任せだった。片足を下の段にかけた状態だったリップは体勢を崩し、肩から壁に落ちた。
 マヒトは自分がそんな乱暴な人間であることに内心で慄き、慌てて掌を押さえながらも、堪えられぬ怒りにもはや冷静さを失っていた。
「……そうか……、そうなのか! 俺が馬鹿だったんだな?!  そんな大したことでもないもののために、わざわざこんな城くんだりまで追いかけて来て! 必死にお前の自殺を止めたりして!!
 ――そうか……、よく分かった……。馬鹿なのはいつも俺かよ……! よく分かった……!!」
 鼻筋に、ぽろりと何かがこぼれた。だが、それよりも顔を上げたリップの赤い頬に流れていく、涙の筋に意識が奪われるのが先だった。
 情報を与えなかった私の言うことではないが、鈍い人間は哀れなものだ。相手が涙を流すまで、相手が傷ついていることが分からない。
 マヒトはその瞬間、ようやくリップが背面に深い海を隠していることを知って、頭の中が真っ白になった。
 ああリップというのは、こういう人間だったのか。こういう人間だったのか。見開いた目の奥で警鐘のように認識が踊るが、今更遅い。
 リップの唇がめくれ上がって白い歯がこぼれた。
「価値があると言うのなら……、救ってやれ……!」
 押し殺した声の中にじわじわと感情が湧きあがってくる。仕方がない、この世は生まれつき不毛な機械なのだから。そう捌けて押さえつけていた、どこまでいっても割り切れぬ思いが、ものすごい熱さで喉元から絞り出された。
「意味があると言うのなら救ってやれよ!! あの無駄に蹂躙された連中を救ってやれ! 今すぐ生き返らせて見せろ!! 彼等から奪われたものを全部返してやれよ! 彼等の生存に意味があると言うのなら!!
 ――出来ないだろう! 出来ないだろう!!
誰にも失われたものを取り返すことなんて出来やしないんだ!! 人生を修復することなんて出来ない!」
 今しがた友人が死んだ。自分は死にそこなった。矛盾は残され、その傷は是非もなくリップに託された。
そこに火をつける馬鹿者もいる。
「ならせめて諦める権利を奪うな! 一体なんのつもりで引き止める!! 責任も取れないのにどうして続かせる! 狭量な正義感で能天気に!!
 お前には傷ひとつないくせに、他人には血を流しながら生きろと命じるのか?! また夢を見るように強いるのか?! 一体何のためだ?! そんなことをして手柄のつもりか!!
 誰が好き好んで絶望する……! 誰が好き好んで死にたがる……! 理由があるんだ……。生きていくことが出来ない……、繕うことの出来ない……」
 理由があるんだ。
 リップは両手で顔を覆った。そして犬のように咆哮した。ふらつきながら階段を下りて、城から馬と共にいなくなった。
 マヒトはというと、簡単に言うと腰を抜かしていた。階段の壁面に背を預けたまま、一歩も動けなかった。
 彼はその時初めて、本当に初めて、この世に救ってはならぬものもあるのだということを思い知ったのだそうだ。
 だから神がいるんだ。と彼は帰ってきて私に言った。
俺は人間だ。その意味が全然分かっていなかった。



 リップはどこに行ったのか分からない。
 日々は続いていく。マヒトの背中を意味もなく流れていく。
 花は待ちきれずに枯れた。



-了-




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