夕方、リュクサンブールの噴水の前で、アランが寝ていた。すり切れたジャンパーにジーンズといういでたちは俺とほとんど一緒だが、どうしようもない倦怠感と崩れがその斜めになった寝顔から滲み出ている。
やれやれまたか、と思いつつ、俺は腰を下ろした。
「おい、アラン。…アラン」
伸び放題の縮れ毛はぴくりとも動かない。むしろ俺は笑い出しそうになった。垂れてくるマフラーを跳ね上げて、お祈りみたいに両手を組む。
「おー、さすがのアランもとうとうくたばりやがったか。艱難辛苦な人生だったな。おやすみなさい」
「…なんでそんなに嬉しそうなんだよ〜…」
ごろん、とアランが寝返りをうった。右腕が俺の靴先に当たったとき、汗くささが鼻にきて、ちょっとだけ眉をしかめる。
「何してんだ」
アランは髭だらけの顔で笑った。
「いやー、この寒さじゃない。部屋のストーブ燃料切れでさあ、暖まろうと思って公園でお昼寝してたわけよ。太陽の出てるうちは極楽だったよ」
「すぐに暗くなるぞ、さっさと家に帰れよ」
と、言っているうちにぱ、ぱ、ぱ、と公園の灯りが瞬き始める。明るいうちは緑の木々も、既に黒々と犯罪の色をしていた。
「やー、それがさー」
アランは不自然なほど白い歯を見せて笑う。
「気付いたら腹が空いて動けなくなってたのなー」
俺は頬に右手を当て、斜め上を仰いだ。コウモリが不安げに飛んでいる。完全な円運動をしようとして失敗しながら、盛んに羽根をばたつかせていた。
「このまま寝てたら凍死するぞ」
「やー、どうだろうね。まだ平気じゃない?」
同じように空を見上げているアランの目には、必死なコウモリの姿など映らないらしい。ただ色を失って白い天井となっている空を、遙か遠くまで見通しているようだった。
俺は立った。
「立てよ」
心底吃驚したみたいにアランはまぶたを見開く。
「え? 俺の寿命を延ばしてくれるの?」
「なんでもいいから立て」
すると彼はにこにこしながら右手を振った。引っ張ってくれと言っているらしい。
こみ上がるため息を殺しながら俺は彼を引っ張り起こした。体重はないのだろうが、元々の骨格はがっしりとしている男だ。並んで歩いていると、妙な品格を感じる。
この男がどういう出自なのか詳しくは知らないが、いいところのおぼっちゃんが身持ちを崩したというのが同窓生の間での統一見解だった。
基本的には無職で、いつも食うや食わずの生活をしている。大学時代からよく人に金を借りていたが、彼は絶対に返済しないことが目に見えているので、彼を迷惑に思う生徒も多くいた。大学を除籍になった今は、一体どうやって生きていっているのかこちらが聞きたいくらいである。
ただ周囲の心配や嫌悪の目を後目に、彼はいつも虚しいほどに明るく、腹立たしいほどなまけ者だった。こんな男の「寿命を延ばす」ことにどうして手を貸しているのか、俺は俺の小心に苦言を呈さざるを得ない。
「まず風呂に入ってこい」
彼を先に部屋の中へ入れ、鍵を閉めながら俺は言った。
「はぁーい」
アランは素直に命令に従い、バスへと消える。何度かうちにも来ているので、勝手は知っているのだ。
部屋に暖房を入れ、上着を脱いだ。やーれやれ、と息を吐きつつ、台所へと向かう。
冷蔵庫を開けて安心した。昨日買い出しに言ったので、今日は暖かいものが作れそうである。野菜もあるし…、そうだ、セロリがある。シチューでも作ろう。
材料を取り出しているときに、呼び鈴が鳴った。続いてノックがあり、
「ジダーン、開けてー?」
マリーの声がする。
彼女を中に入れて、アランが来ているのだというと、
「また?」
と遠慮なく笑った。
「怒った?」
「いいのよ、別に。今日は牛肉が安かったから来ただけだから」
「ビンゴ」
マリーのこう言うところが俺は好きだ。アランも彼女に懐いていた。…こういうとまるきり猫の世話みたいな話になるが。
アランは長風呂な方である。滅多に入浴できないから丹念に洗っていると言うことも考えられるが、大学時代から貧乏なくせに清潔好きな男だった。やはり育ちだろう。
「王侯貧乏ね」
とマリーが笑う。その通りであると思う。
アランがぺしゃんこになった頭を付きだして、鋏をかしてくれと言う。
「あれぇ。アロー、マリー」
マリーはくすくす笑った。
「アロー」
俺は前に彼が使っていった剃刀と鋏を渡す。多分髪を切るのだろう。
「俺の剃刀使うなよ。エイズが移るぞ」
「ジダン、エイズなの?」
「ものの喩えだ、バカヤロー」
湯気のはみ出すバスの扉を閉めた。
風呂から上がってきたアランを半時間ほど待たせた後、夕食になった。アランはシチューを嬉しがる。七つの子どものように嬉しがる。髭を剃ると彼は実際、童顔だ。
「おいしー。もー、おいしーな」
俺は少々照れたせいか、意地悪な口調になった。
「味は普通なの。うまいのはお前の胃が空だから」
「素直に喜べばいいのに」
マリーが横から言うが、俺は目の前の男とは違う。喜怒哀楽のうち初めのと最後のは人前に出しにくいのだ。
「いや、本当にうれしいよー。ありがたいよー」
その弱点を笑い飛ばすようにアランはにこにこしていた。俺はこう言うとき、この男を助けたことを後悔する。
「いつもジダンには世話になりっぱなしだなー。なんでこんなにしてくれんのか分かんないよー」
「え?」
マリーが意外な顔をして、スプーンを止めた。
「あれ? 昔アランがジダンのラブレター、渡してくれたからじゃないの?」
「えっ?」
というアランのきょとんとした顔に、俺は前に突っ込みそうになった。
「ええっ?!」
「ラブレター? そんなもの渡したっけ?」
「お、お前覚えてないのか!!」
愕然とした。
「な、なんだと…」
では俺はなんのためにその思い出にしがみつき、恩返しを続けていたのだ。
「…え? ゴメン、誰に? 渡したっけ、俺?」
マリーがのけぞって大笑いを始めた。その隣で俺はテーブルにがっくりと肘をつく。
…覚えてないだと?!
「えー、あ、そうだったっけ。あ、それでか、それでジダン親切にしてくれるのか。あ、そうだったんだ。ゴメンね、すっかり忘れてたよー」
アランはぽりぽりと頭の後ろを掻いた。
「そんなこと気にしなくてもよかったのにー」
◆
リュクサンブールの雪の上に、点々と落ちた血の先に、うつぶせになってアランが転がっていた。俺は歩み寄り膝を落とす。
「死んだか、アラン」
何回となく繰り返した言葉をまた繰り返すと、何度となく裏切られる期待は今日も裏切られる。
「…痛いから、…まだ生きてるみたい…」
横を向いて笑うので折角ふさがっていた唇の傷がまた切れた。
「あた、あたた」
「どうしたんだ」
「変な若い奴らに絡まれちゃった…」
「犯られなくって良かったじゃないか」
「ホントだねえ…」
くつくつと、何を笑っているのだろうこの男は。何が良かったんだ。一日、一日と転がり落ちて行くばかりじゃないか。
今は一月。外にいたら、間違いなく死んでしまう季節だ。
「………」
そのまま俺が無言でいると、アランは両目を閉じて、なんだか静かな声で、こう言った。
「もういいよ」
吸い込んだ冬の空気が喉を刺す。
「…何がだ」
「もう俺の面倒なんか見ないでいいんだよ。…ラブレターのことは…、忘れてくれ…」
アランは地を覆う雪を見ていた。今の彼に空を見るのは無理だ。
俺は祈るように両手を組んで、額につけた。
もしかしたらアランだってもう死にたいのかもしれない。ラブレターも死にたいのかもしれない。昔の義理にかこつけて、アランを不自由にしているのは自分の方かも知れない…。
…だが、俺は嬉しかったんだ。
初めて書いた恋文を届けてくれて嬉しかったんだ。俺の言葉を運んでくれて本当に、…嬉しかったんだ。
心に兆した感情を紙に書いて、誰かに伝わる喜び。あれが初めの一歩だった。
だから、俺がものを書くようになったのはお前のお陰なんだ。
今俺がここにいるのもお前のお陰なんだ。
それをなんだよ、…忘れろなんて、切ないじゃないか。
俺は書く程素直に言えないんだ。
「うれしーよー」
とは笑えないんだ。お前とは違うから。
俺は無言で彼の腕を掴むと、そのまま引っ張り上げるようにして立ち上がった。
「あらあらあら〜」
彼はとぼけた声を出す。
「また助けてくれるのー? ごめんねー、もう」
冗談抜きで身体が動かないらしかった。俺は彼をほとんど引きずるようにして、リュクサンブールを歩き出した。左で彼がヘラヘラと笑う。
「も〜。ジダンは福の神様だな〜」
俺はがんばって彼を支えながら、
「お前は疫病神だ、畜生め」
けれどもなんだか笑いがこみ上げてきて、俺らは雪の夕刻、異様な明るさで暗くなる公園を後にした。
Fin.
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