** 蠅を生かせ **
一週間前、おかしな夢を見た。 青空の美しい五月の中庭を横切って、俺のぼろアパルトマンにベートーヴェンが越してくるのである。他でもない、あのドイツの獅子頭だ。 もう内容は朧気だが、とにかく彼は大家の部屋でピアノを弾いていた。彼は横に立つ俺や大家などに構わず、ペダルと低音を多用して実に効果的に情熱的に、続けざまに弾いた。 そのうちふと、俺は彼の周りに小うるさい羽虫が一匹飛び回っているのに気がついた。 あれ? …もしかして険しい顔のべー兄さんは、蠅一匹を追い払うためにそんなに名演奏を? べーお兄さんは眉間にしわ寄せて、ますます上体を揺らしまくって弾いている。その周りを蠅はぶんぶんと飛び回る。羽音がやかましいほどに聞こえた。 異様な情景に俺が思わず横からそれを叩き落とそうとしたとき、彼がふいにこちらを見て、黙ったまま首を振った。 ――――なんで駄目なの? と思った瞬間、どおん! という音がして俺は目を覚ました。 眠たい手で時計を引き寄せると午前四時だった。何の物音だったのかは分からない。もしかしたら自分でベッドの横の壁でも蹴飛ばしたのかもしれない。 ぼた、と枕に頭を落とし、また俺はあっさりと眠りに戻ったが、もうベートーヴェンは出てこなかった。 朝になって考えると、なんだか惜しいことをした気がした。 午後三時。練習場に向かおうとしていた俺は、雑踏の中に知り合いの顔を見つけた。 上の部屋に住むアルザス人アダムの恋人、フランだ。相変わらず華奢な少年で、信じられないくらい細い腰をしている。 アダムは昔ボートをしていたとかで、日に灼けて大柄な人間だから、二人が一緒にいるとほとんどガリバー旅行記である。 目があったら挨拶しようかと思ったが、なんだか彼はいつにもまして悄然としていて、そのままふらふらと行ってしまった。 …またアダムの浮気のことでも悩んでいるんだろうか。 彼等の関係はなんだか問題を抱えた夫婦のように一方的なポテンシャルに支配されている。依存のことを考慮すればもっと話は複雑なのだろうが、基本的に支配、被支配なのだ。 たくましいアダムは主として振る舞い、彼に対して一貫して高圧的で、浮気、八つ当たり、金の無心などあらゆる形でフランをないがしろにしている。ところがフランの方はまるで田舎のか弱い女房といった感じで、乱暴な夫にただ黙って耐え忍ぶのは勿論、その支配下にいることに甘んじている。 端から見ると、なんというか、悲劇的な関係に見えるが、アダムは一向改めるでもなし、フランもまた、毎回実に楽しそうに苦悩していた。彼はアダムという悩みの種を抱えていさえすれば、きっと一生退屈せずに暮らしていけるだろう。その悩みに愛を抱いているとなれば尚更だ。 こういう形で築かれる人間関係もある。すぐに人混みに飲まれてしまった彼のすり切れたコートを見送って、俺は歩き出した。 珍しいことにフランとはその日、もう一度会った。俺がバイト先のバーに客として足を運んで、そこでビールを飲んでいたら、向こうから声をかけてきたのである。 「やあ、ジダン…。ここいい?」 中学校の繊細な女の子のようなか細い声でそう言われたら断れない。実は独りで集中したかったのだが、俺はどうぞ、と頷いてテーブル中に散らばった資料を掻き集めた。 「新作?」 空いたところに手にしていたビールのグラスを置きながら彼は言う。 「そう。この月末が〆でね、怖い副演出がいるから、必死になって構想を練ってるところなんだ」 「邪魔してごめんね。でも横から見たら、あまり筆が進んでいなかったみたいだから…」 痛いところを突かれた。顔に出たらしい。 「スランプなの? ずっと順調にやってきても、スランプってあるもの? …たしかヘミングウェイが言ってたよね。書き上げた本は殺した獅子の如きものだって」 「よく知ってるね」 驚いて俺は眼鏡を押し上げた。作家とテーマについてよく引用される語だ。 「でも俺はまだそういうスランプじゃないよ。それはつまり、もうテーマにすべきことが無くなってしまうってことだろう」 そこで俺はふと夢のことを思い出した。揺れる獅子頭に逃げ回る小さき蠅の羽の音。苦笑いが浮かぶ。 「獅子だなんて、そんなに高級じゃないんだ。俺のはまあ、言うならば蠅の悩みでね」 「蠅?」 驚きながらも、どこか夢うつつな表情をするフランに俺は夢の話をした。蠅を追い払うために、ベートーヴェンが鍵盤を叩きまくっていたことを。 「そう言や、あのベー君はなんとなくアダムに似てたな。ドイツ系のイメージなんだろうね」 温くなったビールに口をつけながら俺は続ける。 「同じことなのかな。頭の周りをね、いくつもの蠅が飛び回って俺をつつくんだ。だからそれをただ追い払いたいんだけど…、その羽音が耳に残る」 ――――うけるものを書け、うけるものを書け、うけるものを書け、うけるものを書け…… 彼等はそう宣う。そして俺の筆を鈍らせるのだ。本当に書きたいものが何だったのか分からなくなってしまうほどに。 おもねりの本能と自己の野生の折半。産みの苦しみはいつもしんどい。これは芝居を構築していくのとはまた違う困難だ。 「…殺したいなあ、せめて一匹くらい。でも、これが全然ダメだ。馴れないね。普段は羽音なんか聞こえないんだよ。それが、ものを書き始めると突如コレなんだ」 …ベートーヴェンはひどい耳鳴り持ちだったと言うけど、こんなものだったのかもしれないなあ。あの美しく獣じみた曲の数々も、もしかしたら蠅の耳障りな音を消したくて作ったのかも知れない…。 目の前にフランのいることも忘れて、思考に走っていたが、彼が何かぼそりと呟いたので、我に返った。 「…いいよ」 「え? ごめん、何?」 少年の青が瞳の中で変に凝縮していた。押し固められた銅の結晶ように見える。 「蠅は殺さない方がいいよ」 少年のグラスの中で、気の抜けた泡が時々よたよたと上へ昇っていった。 「呆然としてしまうからね」 「……?」 「…どんなに手の掛かる蠅も、生きて飛び回っている内が華だ。…いなくなったら…いなくなったら…。 …忍耐を切らしてはいけないよ、ジダン…。蠅も獅子も一緒なんだ。殺してしまったら、そこにはもう…、死骸しかない」 ビールに荒れた胃壁が下の方から凍り付いて行くような気がした。けれどそれがなぜだか分からないままに、俺は会話を続けた。 「…何かあったのかい? …君の方こそ何か悩んでる? そう言えば…、アダムは元気かな、どうもここのところ顔をあわせる機会が……」 フランの顔には生気というものがなかった。ただ起き抜けの人のように、不可思議な笑顔をたたえている。 「……フラン……?」 何かに辿り着いて、俺の声が低くなった。 「忘れないで」 彼は死人のように無感動だった。 「蠅を殺しちゃいけないよ」 言い残して、彼は突然席を立つ。ゆっくりと、妙になめらかな動きで、誰にも挨拶せずにバーを出ていった。 「……」 しばらくして俺は手帳を片手に立ち上がると、地下へ降りて公衆電話にコインを入れた。それからうまく動かない指で、アダムの部屋の番号を押す。 出てこない。それでもう一度最初から、今度は大家の部屋へかけた。俺は何と伝えたらいいか分からないでただ、アダムの部屋をのぞいてみてくれと言った。 ベートーヴェンが言ったんだ。 殺してはいけないと。 フランも言ったんだ。 殺してはいけないと。 だから俺は今、わめき散らす者達と闘いながら毎日、書いている。 朝方重たい家具でぶん殴られたアダムは全身血だらけで、……頭にははやくもハエがたかっていたそうだ。 フランはまだ捕まらない。 でも何処に逃げ伸びたとしても、自由になってしまった彼がハエに悩まされる幸福を手にすることはもう、無いだろう。 俺は彼等のことを時々思い出しながらただ、書いている。 Fin. |
01.02.08