L'inutile
28.怒りのあと
一体どうしてこんなことになったんだろう。 ヨシプ・ラシッチは寒い夜の音楽室の中で椅子に座り、一人困り果てている。 目の前にはヴィカ・ダールがいて、彼に背を向け、ものすごい勢いでピアノを弾いている。 ヨシプにさえ分かる、乱暴な演奏だった。気分と旋律に任せて指が鍵盤に叩きつけられ、そのたびごと「ムッシウ」は悲痛な音を闇に放つ。 まるで彼女による老人虐待を見せつけられているようで、ヨシプは思わず、天井を仰いだ。 メアドを交換して以来、二人は週に二度とか三度とか、かなり頻繁に会う仲になっていた。 ヴィカはその年齢に相応しい貪欲さでメールを送ってきたし、ヨシプは何しろ稽古場からの帰り道だから、せいぜいニ、三時間のことなら断る理由もない。 ヴィカはそのたびごと「ムッシウ」を弾いて、何も知らないヨシプに音楽のイロハを教えてくれた。 おかげでヨシプも、疎い分野をたくさん学習――もとい、録画できた。 付き合ってみると、ヴィカは明敏で、感性の鋭い、聡明な少女だった。 ただ、気分の変わりやすいところがあって、人のことを容赦なく批評し無遠慮にこき下ろすかと思えば、驚くほど深い仲間意識を示して親切にしてくれることもあった。 ある日、彼女はヨシプを恥知らずな嘘つきの仲間だと呼ばわった。それは、彼女の厳しい意見に彼がどっちつかずな態度を示した時で、そういう優柔不断は、彼の商売である『役者』がいけないのだという。 「ピアニストは、いつも客席の前に自分の正体をさらしているのよ。逃げも隠れも出来ない。サボっていたら一発でバレる。 でも『役者』はずるいわよね! 衣装をまとって、メイクをして身を守っている上に、『キャラクター』という盾まで持って出てくるんだもの。 その後ろであなた自身は安全。それどころか利益を得たりするんだから」 「利益?」 と、ヨシプ。 「お芝居を真に受けた客から立派な人物だと見なされて尊敬されたり、金品をもらったり、モテたりするでしょ?」 「……」 そんなこと、あったっけ。 ヨシプ自身の記憶は心もとないが、彼女の言っていることはよく分かった。ものすごい好例をテレビ局で何人も見てきたからだ。 彼女はそれ比べてピアニストというものは、感性と技術、さらに本番の集中力だけが頼りのシビアな商売なのであって、常に人生の中の真実と格闘するさだめを負っているのだと言った。 そうでなければ、ピアニストはただの音楽再生機になってしまう。 「もっとも、そーいう似非ピアニストが昨今本当に多いんだけど」 ところがある上機嫌な日には、彼女はヨシプの演技を褒めてくれるのだ。 これは内緒のことだけど、あの映画――彼らが出会うきっかけとなったあの映画の中で、魅力的だったのはあなただけだった。他はみんなぺらぺらして、うすっぺらい、地下鉄の駅前で配られる広告のように、すぐゴミ箱に捨てられる存在だった。 あなただけは、ナイフで三回くらい突き刺しても(彼女はほんとうにこう言った)まだ立っていられそうな底力があった。 「だから逆に、あのはめ込みのピアノの音が、全然合ってなかった。あれピエールよ。すぐ分かる。銀行員の次男坊で、今からもう三流のピアノ教師みたいな演奏すんの。 こんなよ。こんな――」 彼女は彼のピアノのクセを、意地悪く増幅させて弾いてみせた。 ヨシプはピエールの音を覚えていなかったから、それが本当に正しいのかどうかはわからなかったが、こうした数々の行いから、彼女が純粋だがとても気性の激しい、好みのうるさい少女なのだということは分かった。 「あいつ、ピアニストじゃないわ。あれこそ役者よ! 与えられた衣装を着て、髪の毛を整え、そして用意されたキャラクターを盾に、世間を渡っているの。本当は中に何もない。何もない男のクセに――、それを認めずに、まるでいっぱしの教養人の顔をして、反り返ってピアノを弾くの。 どうしてみんな、あんな簡単なカラクリが見抜けないのかしら。ジャンヌも、あいつのことはホントかわいがってて…。 ていうか、パリはみんなそうよね! みんな格好つけるのが好きで、ここは世界の中心で、自分達はその住人だってツラで歩いてるでしょ。でも、本当はがらんどうよ。何もない。ここはただクソ寒いだけ。廃墟のほかは何もない、空っぽの街よ!」 演説する彼女を見ながら、ヨシプは、マダム・ダールの家で見かけた古い作曲家達の顔を思い出していた。 ずらりと並ぶ男達の顔を見たとき、なんだって彼らは、こんなくぐもった陰気な顔をしてるんだろうと思ったのだ。 明るい音楽だって書いただろうに。 何もかもに喜びきれないような悲劇的な顔をして。 ヴィカ・ダールはその仲間だった。 彼女の弁によれば、「人生の真実を知っている」のだという。 さだめし学校の中でも浮いていることだろう。 そして今日。彼女は負のオーラを全身にまとった、恐ろしく不穏な状態で現れた。 例のピエール君と、あわやつかみ合いのひどい喧嘩をして来たらしかった。 今日に限っては通りすがりの人でも、彼女が危険だということはすぐ分かったに違いない。 二、三言葉を交わしたが、どうにもならなかった。彼女はかえって逆上し、いわれなくヨシプに噛み付いた後、ぷいと彼に背を向けて、その怒りの矛先を「ムッシウ」へ移した。 ピアニストは、いつも客の前に、 自分の正体をさらしている。 逃げも隠れも出来ない。 ヨシプはその逃げも隠れも出来ないピアニストの正真の怒りに、手も足も出ず、座り込んだ。 ほとほと困り果てていた。 だがやがて、怒りに任せた長い第一楽章が終わり、 第二楽章が、始まった。 |
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