少女は爆弾を持っている…。 彼女の発言は常識に照らしても、かなり不穏当なものだった。 だが、経済学部第二科、国際経済研究室付きの助教授である才谷氏の反応はと言えばおざなりで、トラッサルディのフレームを指で、ちょいと押し上げたというだけのことだった。 「…なんだって?」 「聞こえませんでしたか」 研究室の扉の前に突っ立ったまま、二十一才の野村美香は挑戦的な態度を崩さない。胸の前に籐のバッグを強く抱きかかえ、鋭い一重の目を一度しばたく。 「もう一度言いましょうか」 乾いた言葉に助教授は軽く左手を振った。 「いや。ちゃんと聞こえたよ」 それから頬杖をついていた顎を少しずらして、右の眉を指でなぞった。そんなに怒っているようにも見えないが、冗談だと笑う気もないようだ。 「…つまりー、毎回の小テストも受けていないし、レポートも出してない、それどころか出席もしていない君に、単位をあげなくちゃならないってことでしょ」 「ええ」 才谷はつと眉間に皺を寄せて、美香をじろじろ眺めた。その視線には欲なんかなかったが、かなり無遠慮だった。 「…うーん。おっかしいなあ。ホントに会ったっけねえ? 歌舞伎町だよね? 覚えてないなあ…」 と、ぽりぽりと頭を掻く。 「どうもそこが引っかかるんだけど、ま、いっか」 才谷は、よっこいしょ、と背もたれから体重を取り戻した。それからまだ新しいポール・スミスの上着のポケットから鍵を取りだす。 車のやら、家のやらが一緒くたになったホルダーをじゃらじゃら鳴らしながら、事務机の一番下の重たい引き出しを無造作に開け、狂いのない動作でそこからA4サイズの茶封筒を取り出すと、 「ほい」 と、美香の方へつきだした。 「?……」 説明が足りない、と不満げな彼女に彼は、 「中に"国際経済学"の成績表データが入ってる。君みたいなのは空欄になってるはずだから、自分で探して自分でマーク塗りつぶして」 と言った。 美香の目が、少しだけ開かれる。 「…それでいいんですか」 「ええ、いいんですよ」 とは言え、美香はなかなか歩き出さなかった。目に見えて警戒し躊躇していたが、しびれを切らした助教授の、 「早く受け取ってよ、腕がだるい」 という声に急かされて、おずおずと動き出した。 彼女が封筒を受け取ると、彼は胸ポケットからボールペンを引き抜いて、 「はい!」 とその上に置いた。まるで誰かに雑用を押しつけたみたいだ。 「それからこれね」 美香はそう言って差しだされた青い大きな空ファイルの上に、本来なら秘密扱いの書類をおずおずと引き出す。学生達の名前も成績も、ひどくあっけらかんと並んでいた。人生などそんなものだと言われたような気がして、美香は一瞬くじけそうになる。 だが自分の名前を二枚目に見つけたときには、さすがに少し脈が鳴って、助かった。不自由な体勢で自分の名前の右に五つ並ぶ楕円の一番左を、ぐりぐりと黒くする。 これで二単位、それから三年次への進級は保障されたのだ。思っていたよりもずっと…、簡単だった。 それでも思わずほっとして顔を離すと、じいっとこちらを眺めている才谷の真剣な二つの目と、交通事故を起こしそうになった。 彼女は厳しい無表情を慌てて取り戻すと、引き出した書類を封筒に戻そうとする。引き抜くときは簡単だったのに、その単純な作業にひどく手間取った。 「…ホントに何処であったっけねえ。忘れるなんて俺も年だ。ねえ君、どういうカッコしてた? 制服?」 「……!」 美香は、危うく頬が紅潮しそうになるところを唇を噛んで我慢した。質問が聞こえないふりをして、封筒に神経を集中する。 「…んー、どうもダメだ、思い出せないや」 一度頭を振って、彼は諦めたらしかった。 美香の手から封筒を受け取ると、また元の引き出しに投げ込み、さっさと鍵をかける。それから椅子を少し回して、臆面もなく真っ向から視線を合わせると、彼女に言った。 「これでいいわけだよね? もう」 あんまりぺらりとした言葉だったので――― 「は、はい」 肯いてしまった後で、彼女はいささか後悔したらしかった。そそくさと一度体重移動をした途端、 ――――ぎゃーっはははは。 と、誰かが廊下の先で大笑いしたのが二人の耳に聞こえた。才谷が顎をしゃくる。 「じゃ、悪いけどお暇してくれる」 「…は、はい…。…あの、失礼します」 と、バカなことを美香は言った。 「はいはい。……あー!!」 急に彼が大声を上げたので、彼女はその場で飛び上がった。とうとうびっくりした顔をして振り返る。 助教授はそんな彼女の胸をボールペンでいきなり差した。 「…ユリカちゃん?」 はっとした美香の震える唇が少し開いて、前歯が見えた。才谷は思いだしたことが嬉しいらしく、笑っている。 「はいはい、思い出した思い出した。やっと分かったよー。まだあそこにいるの?」 ブラウンの髪の毛が横に振れた。彼女は曖昧ながら不愉快な顔をしていたけれど、彼はそんなことにまるで無頓着だった。 「ふーんそっか、もう辞めたのか。まあそういうものだしね。ん、それじゃあね」 くるり、と才谷は椅子を戻す。そしてもう、彼の前には誰もいないかのように、美香の存在を無視してただ出ていくのを待っていた。 ――――ぎゃっははははは。 踏み出した廊下の先で、また同じ声が笑っていた。美香は多分ずっと立っていたせいだろう、ちょとしためまいを覚える。 エレベーターの前で扉が開くのを待ちながら、ポケットに何気なしに手をやると、「念のために」用意しておいた薄い水色のスキンが、マニュキュアの爪先にあたった。 |