才谷、少し説教臭いこと言うで。
俺にも京都につまらん女がおったんよ。これが大人しゅうて目立たん女で、約束すっぽかしても何言うても、文句の一つも言わへん。俺もそれに慣れとったもんやから、結構やりたい放題やりよったん。
ところが一年前や、突然その女が逃げよった。もうついていけそうにない言うて、…急にとゆうか、とにかく唐突やった。
でも俺は別段止めたりせえへんかったよ。そいつがおらんようになったって、俺にはなんの打撃もない思うたしな。離婚やないから金も動きやせん、寧ろうっとおしい関係が終わりになって、清々したような気もした。
…そんで事実、その頃から俺、妙に楽に論文が書けるようになった。元々嫌いな作業やないけど、なんやろうな、そこに連ねられる重みのないスリムな日本語が変に心地ようて自分と合ったのや。
…それがあまりに行き過ぎて、俺はそのうち怖うなってきた。自分がそのまま一直線に仕事中毒になりそうな気がした。
だって毎日論文は進むのに、机を離れると俺は心の中になんの言葉も浮かばんで、日常が信じられん程少なかった。その空虚から逃げるようにまた仕事をする。
気がついたら俺は論文の山に囲まれとったけど、どうしてもぽかーんと宇宙に向かって開いたままの穴が、…埋まらへん。
…結局、焦り狂って一月くらいして気がついた。あいつ黙って去っていきよったけど、一緒に俺の言葉を持って逃げよったので、それで俺はこんなに迷いもなく潤いもない、無感動な生活しとるのやと。
朱江は細い足を組み替え、うっすらと笑った。
才谷。
たぶん、人間喰らうことと捨てることを繰り返して人生進んで行くのや。それはええ。でも、捨ててええもんと取り返しのつかんものがある。
一旦言葉を捨てたら、取り戻すのは並大抵やないで。事実俺はまだ片輪で…これは(特にあいつには)内緒やけどな、後悔しとる。
東京になんか来れんでもよかったわ。
三ケタ後半なんかいらへんかったわ。
ただもうあの時あいつと俺の言葉を、捨てなければ良かったなあって――――。
…なあ才谷、白状せえ。
お前、その雅文体。実は横隔膜が震えて、困っとるのやろ。舌馴染みも良おないし、本当は好きでも何でもあらへんのやろ。
柴崎弁か、美香弁か。
得失なんか関係あらへん。
未来はどっちにしろ妄想にすぎん。
それでも、お前が呼吸する言葉は一体、どっちなのや―――――
*
出来の悪い姉がいた。三つ違いで何もかも先に彼女が味わった。
黒光りする机に、柴崎の顔が逆さに映っていた。その顔は厳しく、目の前に座る才谷を責めるような光で見つめていた。
「…後悔スルヨ、才谷君」
彼女は国立大学に落ちた。その知らせが届いたとき、父が吐いた言葉を弟は覚えている。
『アイツハ駄目ダ』
「君は選択を誤ツテイル」
私立大学に通う彼女が実家に帰ってくることは滅多になかった。やがて大学3年の夏、彼女はとある大学生と結婚をし、
「月並ミナ道ヘ甘んじるつもりカネ」
実家に新しい住所を知らせる電話を掛けた。
『パパとママには知らせないで』
偶然電話を取った弟に、彼女は救われたように言った。
『赤ちゃんが出来たのよ』
「二ヶ月前カラ、ボーナスヲ待チワビルヤウナ生活ヲ?」
才谷は逃げきった姉を両親と同じように軽蔑し、それから
「ええ」
彼女のとてつもない自由さに歯ぎしりするほどの羨望を覚えた。
「僕はいつも、あなた達が正しいことは分かっています」
姉の赤ん坊になりたいと愚にもつかぬ夢に惑うた。
「けれど、うっかり思い出してしまいましてね」
そんな夢を見ながらしかし彼は、姉のようにならぬよう毎夜勉強を重ねたのだ。
「…子供の頃、自分は両親に愛されて幸福だと思ったことが、一度たりともなかったと」
賢人、という名前に込められた呪詛と、あまりの先例に怖じ気づいた少年は成長しても、やってられないそのお里を棄てられない―――――独りでは。
才谷は立ち上がって、多分初めて、柴崎を見下ろすという非礼を犯した。
「気が付いてしまった以上、俺は別の方法で俺の子供時代を取り戻します。…柴崎さん、長らくお世話になりました」
才谷は悲しげに微笑んで、首を傾げる。情けない笑顔で恩人に最後の挨拶をした。
「――――御機嫌やう」
と。
「あのね。ここ、男子トイレやねんけど」
鏡の中、自分の右肩の上の方で腕を組んでいる美香に、朱江はそう呆れたように声を掛ける。
「本当にあんたイノシシやな。そのうちどっかぶつけるで。あんたはええけどやな、ぶつかられた方はええ迷惑や」
「…お礼を言っとこうかと、思ったんじゃない」
ハンカチをしまいながら、男は振り向いた。
「お礼?」
「…昨日夜、電話来て…。…あれ、あなたが、説得してくれたんでしょ」
「別にィ、俺は国立でたまたまポストが空きそうな大学があるって、教えたっただけやで」
肩をそびやかして、朱江はうそぶく。
「それより美香ちゃんなあ。君、最初に会うた時から俺のこと嫌うとるやろ」
「うん」
「なんで? 理由がなんかあるやろ。教えてよ」
壁にもたれ掛かったまま、美香は唇を変に尖らした。
「だってあんた、ホモじゃない」
――――― 一瞬の沈黙の後、
「おーおー」
朱江は目を線にする。
「何でバレてんの?」
「あたし歌舞伎町でバイトしてたのよ。周りそんなのばっかし」
「へー。今度遊びに行こー」
「ヘンタイ」
胸くそ悪そうに、美香は顔をしかめる。
「あっはっは」
笑って揺らめいた朱江の体が、ゆらりと彼女の上に重なった。
「ちょっと? 何すんのよ、相手間違えてるわよ」
唇が迫ってくるので身をよじりながら美香は文句を言った。細く見えても男の腕だ。頑健として苦労を強いられる。
「だって賢人も吸ってんのやろ」
朱江が低い声で懇願した。
「吸わして」
動きを止めた美香の頬に、彼の前髪が解れて落ちた。才谷からでも受けたことがないような優しい接吻に、ぐらついた彼女の体を、朱江は同じように抱き締めた。
「…難儀な体ね、あんた…」
「あいつんこと頼むわ」
もう一度懇願する。
「身軽でない男やから」
「あんたこそ、大丈夫なの?」
一重の目を瞬かせながら、美香は負けず嫌いに言った。
「我慢できなくなっても大学のトイレで生徒襲っちゃだめよ」
「俺はもうへマはせえへんよ」
彼女に見えないところで、朱江の喉がくつくつ笑う。
「なにせ人生自体がヘマやからなあ」
*
ネットと、金と、暇と、誇り。仕事と、旅行と、食事と、ワイン。才能、部屋、威厳、服と名刺、雅文体。…松濤。
相変わらず、魅力的だ。
どれもいいリズムで才谷は未だにみな欲しい。
でも彼はもう気が付かされてしまった。それだけではないのだと。
いや、本当はとうの昔から、それらは幸福の香りを持っているのだけれど、香りに過ぎないということを、どこかで知ってはいたのだ。だから正確に言えば彼は――――思い出したのだ。
過去の自分と現在の女一人に、うっかり足をすくわれてしまった。馬鹿なというか、まあ別の言葉で言えば――――――
「…貴男ガソンナ、『おセンチ』ナ人ダトハ思ツテ居ナカツタワ」
「うん。俺もびっくりよ」
おぼろ月を見上げながら才谷は相槌を打つ。今までになく飾らない言葉で話したが、最後ということでか、電波の先、孝子は寛大だった。
「デモ仕方ナイワネ。元気デネ」
「どーもありがとう、君も」
「孝子ノコトハ心配シナイデ。朱江サンガイラッシャルモノ」
「そうだよね」
…不自由はないか。
もう大分、遠ざかってしまった彼女の言葉を寧ろ懐かしむようにして、彼は薄く笑う。
「セイゼイ働イテオ幸セニネ。…アアサウダ、指輪ハ適当ニ捨テテ頂戴…」
「あー、そうか。分かりました」
「ヂャ、……さようなら」
最後の最後に思いがけなく、孝子が下りてきた。才谷はそれに打たれて顎をちょっと反らす。
…さよなら。
ぴ、と通話を切る。生ぬるい春風に振り返ると、屋上の出入口に美香が立っていた。
「沈没していく船からは鼠が逃げるらしいな」
「あたしは逃げないわよ」
「そして俺が手に入れるのはお前一人か。割に合わねえなあ。こうやって皆、人は平凡な道へ堕ちていくのねー」
才谷はぼやきつつ、左手の薬指からするりと指輪を引き抜いた。ブルガリだぜ、高かったんだぜ。とぶつぶつ言いながら、おもむろに振りかぶって、春休みの大学構内にそれをぶん投げる。
白い軌跡となってそれは落ちていった。まるで彗星のようなその光に、二人は覚えずわくわくしたのだが、やがて下の方からがっちゃーん! と音がするに及んでその笑顔が凍り付く。
欄干に飛びついてのぞき込んだが、屋上から別の建物何ぞ見えるわけがない。ましてや今は夜中である。才谷は額を押さえた。
「…物体は落下する速度に乗じて加速度がねー」
「馬鹿なこと言ってないで逃げた方がいいんじゃない?」
「もつともだ」
次の瞬間、二人は一斉に出口に走った。階段を走り降りながら、腹の底から湧きだしてくる爆発的な笑いに、げらげらと目尻が濡れる。
「…何をやってんのや、あいつらは」
ガラスの破片が飛び散った階段の踊り場で、朱江は呆然としつつ言った。そのバーバリーの靴先に、銀色に光る指輪が一つ転がっていた。
さすがに高いだけはある。ガラスを突き破ってもそれ自体はびくともしていなかった。
「……」
黙ったまま朱江はそれを拾い上げた。するりと滑らかな動作でそれをポケットにしまいながら、中原中也みたいに背を向ける。
彼は自分の言葉を無くしてから物まねが得意になった。きっとすぐ、柴崎の言葉にも慣れるだろう。
孝子はきちんともらうよ。
心配しなくても才谷、言葉を手放した俺は、もうヘマすら出来ない人生なのだ。だから俺はいつまでもお前を羨み、遠く恋慕しながら…やっぱりいつまでも、きっと無意味に元気だろう。
逃げに逃げた暑い襟元で、二人はちゃちい偽物の噴水のある中庭へ寝転がった。汚してはいけないはずの高い背広の背中を冷たい芝に押しつけながら、才谷は酸素への欲求に、思うまま肩を上下さす。
「ねえ、ご両親に紹介してくれんの?」
その横にうつぶせになって、肘をついた美香が聞く。
「いーや、親は君に会わせない」
という言葉に彼女はちょっと意外そうな顔をするが、才谷が握ってきた手を力を込めて握り返した。
「その代わり俺のねーちゃんに会って…、食事でもしよう」
…金にならない、彼女の笑みを見ながら、それに捕まってしまった迂闊で浅はかな才谷は思う。
この女がどんなふうに笑うのか、それだけを見守るためだけに生きるのもまあ…、悪くはないか。それにしても、風俗店に行ったくらいでここまで人生狂わされなくったっていいようなもんだけど。
…でも、もういいか。
理由もないのに、彼は微笑んだ。涙が出そうに歯の付け根が震えて、目の前の女と夜は甘い香りがする。
…もういいんだ。
故郷を捨てられなかった俺のセンチメンタリズムはもう…、
ここまでにするのだから。