サイフォンでコーヒーを入れる旧式な喫茶店で、二人は待ち合わせた。朱江が同僚の「やねこい」飲みの誘いを断って店に向かい、ようやくいつもの壁際の席まで辿り着くと、月子は既に来ていて店に置いてある映画雑誌を読んでいた。
その光景だけ見ても、朱江には彼女がどれほど落ち着いた状態にあるのか分かる。昔は一日に煙草一箱では済まない人間だった。無理をしても、それに沿うために努力する「真っ当」には、体にとってそんな価値もあるのかも知れない。
「お待たせ」
気配を感じて顔を上げた月子に朱江はにっこり微笑んだ。既にここに来るまでにネクタイを外し、暑苦しい上着を脇に挟んでいた。
「待ってないよ。…どうも。顔を合わすのは結構久しぶりだよね」
「お互い忙しいからなあ。歩いて十分なんてところに住んでるのにね」
月子は一旦家に戻って出直したらしい。大学時代にしていたような、洒落てすらりとした服を着ていた。彼女は背が高い方だから、真っ直ぐな黒髪と相まってちょっと近づきがたい程に見える。
実際在学時代から刺すように男を見るので有名な女だった。今もバリバリの実力主義で、彼女の人物評は東京弁を加えていつも容赦ない。
水を持ってやって来たバイトの女の子に、朱江はメニューも見ないで
「ハーブティのB下さい」
と、頼んだ。すると相手は変に口ごもる。
「は、はい。ハーブティのBですね」
いなくなってから音もなく笑う月子に尋ねた。
「俺、なんかしたか?」
「単にアガったんでしょ。私だってバイト先に数矢みたいな客が来たらさぞアガるだろうと思うわよ」
「髪の毛下ろしてんのがあかんのかな」
「撫でつけたら撫でつけたでホストみたいになるくせに。怖がられるよりマシじゃない? 諦めなよ。
…それより、読んだよ。怒りの俳句メール」
もう半分くらいになっているコーヒーをちょっと舐めて、月子はまた笑った。
「災難だったね。折角の幸せな気分が一発よね」
「べっつにえーけどな」
「おー、怒ってる怒ってる」
「俺、こういう趣味の人間としては女とも仲ええ方やと思うけど、お節介なのはアカン。もう最悪や」
「そうだね。あたしもこないださー」
と、先程のバイトちゃんがお茶を運んできたので二人はちょっと口を噤んだ。どことなく緊張した手がカップを配置する最中、月子は鞄を引き寄せて何かを探していたがしまいに、
「あ、しまった。煙草会社に置いて来ちゃった」
と漏らす。朱江はすぐ上着のポケットからマルボーロを取りだして差し出した。彼女が取ると、手慣れた動作で火を点けてやる。
その様子を見ながらバイトちゃんはそそくさと退散した。ライターを戻してから、朱江はまた言う。
「俺、なんかしたか」
「ほっときなさいよ。…勝手に色々想像したんでしょ。男女がペアで差し向かいに座ってれば、寝たか寝ないかを詮索し始めるような人間は、やりたいようにやらせておくしかないわ」
「ふん、まあええわ。月子の話の続きや」
「うん。…昨日ね、うちもちょっと若い人達が集まって飲み会やったんだ。最初はまあ普通のありふれた仕事の話とかしてたんだけど、だんだん話が恋愛の方とかに移ってきて、時間も結構遅かったからどういうわけだか同性愛がどうのって話になってね」
鼻先までカップを持ち上げたところで、朱江は苦い顔をした。遠目にはハーブの青臭さに眉をしかめたように見えた。
「…前にも言ったけど、会社って健全な人達ばかりなのよ。
好きな映画は「スターウォーズ」で「タイタニック」で「スターリングラード」で、音楽はあゆとかラルクとかモー娘とか。
恋愛的に言えば、結婚を先に見据えた建設的で現実的なものを地で行く人達なの。世の中に貢献してるの。実にごく真っ当なの。
―――だから、バイは理解しがたくて気持ち悪いってことも、ごく簡単に言ってしまうわけ」
スー、と月子の口元でフィルタが音を立てた。肺に入れている。
大体おらへんよなあ、周りには。俺見たことないねん。あたしちょっとだけ知ってる。友達の友達がそういうヒトで、男同士でごっつい喧嘩して片方死んじゃったんやてー。うわー、うそー。
でもやっぱそういうヒトって、なんか理由があってそんなふうになってまうのやで。いや、でも気持ち悪いわ。何も世の中にこんなに女の子おるのに、男相手にせんでもええやん……
「男女の恋愛だって退屈の種にするような人達だから、いいんだけどね…」
彼女が内にため込んだ苦味が、有害な紫煙となってあたりに吐き出された。
――――月子と仲良くなった頃、朱江は彼女が顔を歪めて「男って嫌い」と言うのを聞いたことがある。
『女はみんな自分の恋愛対象だと思ってるでしょ。つまりセックスの対象よね。あからさまにそうやって品定めして最初からコイツイイ、とか態度に出すようなそういう思いあがり、だいっっ嫌い』
事実彼女は同期の男子学生に対して非常に冷たく、まともに話をするのも朱江くらいのものだった。当然彼は、どうして自分だけは気に入ってくれているのかと尋ねる。
すると彼女は今とちっとも変わらぬ、真っ黒い瞳をじっと彼に据えて、
『勿論あなたが同志だからでもあるけどー』
と、煙を吐き出した。
『最初はね、あれだな。
一年の時、講義でアフガン内戦のドキュメンタリ見たことあるでしょ。あの時、三つ隣に座って、あなた泣いたでしょう。暗いのをいいことにぼろぼろ泣いてたじゃない。
あたし、この人って無意味な涙をこぼす人だなーと思ったの。ここでこの人が泣いたって、あっちの人が救われるわけじゃないし、ただ疲れるだけだし、目が赤くなってみっともないし。ただの無駄な同情だよね。
…でも、そういう無駄な感じを恥じないところが、なんだか気に入ったの』
笑う朱江と目が合うと、彼女は他の男共が見たらびっくりするような微笑みを浮かべた。
『あたし達って考えてみれば、人類が産み出した最高の無駄じゃない?』
カチン、とガラス製の透き通るカップを置くと、朱江は肘を付き、ため息を漏らした。
「世の中、言われとるよりずっと『まとも』やな」
「…特に会社はね。そういう人達の集まりって感じ」
「……辛いか」
「でも、私も食べて行かなくちゃならないしね。…だから、これは本物に愚痴だよ。ごめんね」
「謝らんでええよ。
…そんな連中のこと、気にするな、月子。お前はただ、堤さんがお前のことどう思うとるのか、それだけ気にしてたらええねん。
ああいう連中は観客みたいに人のこと好き勝手言うけど、誰もその責任を取らへん。烏が騒いどるのと同じや。言葉や思うたらあかんで」
あはは、と月子は煙草を持つ手で口を覆うようにして笑った。
「そこまで言う?」
「言うよ。俺、怒ってるもん。俺の大事な友達、こんなにローにしやがって」
「うわー恥ずかしい」
「俺も恥ずかしい。でも、たまにはええやん」
二人はお互い決まり悪そうに目を合わせ、それから笑いでも堪えるかのような変な表情のまままたそっぽを向いた。
月子は煙草を灰皿に押しつけてから、足を組み直す。
「あんたが女だったら良かったのにね」
「ほんま月子が男だったら楽やのになあ」
そんな言ったところで仕方のない呟きを小耳に挟んだらしいバイトちゃんが、遠くから不可解な目をして二人を眺めていた。
俺に棲む無益が好きだと言った君
俺も好きだ あんたの無益が
ところで月子はその日、それ以上煙草を欲しがらなかった。
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