[ 6 ] 期待 カタン。カタン。と二人分の食器を流しに丁寧に置いて、袖を巻くり上げる。 スポンジを湿らせ、洗剤を垂らした頃、背後で父親が口を開いた。 「あの――な、誠…」 「何?」 誠は普通に返したが、緊張した声を聞いただけで既に嫌になっていた。 常ならず早く帰宅してきた父親の顔を見た瞬間、ほとんどその意図を察してはいたのだ。いつものことだが。 「…もうすぐクリスマスだな。どこかへ出かけようか…。何か予定はあるのか?」 誠は汚れた食器を洗いながら、あらかじめ用意してあった答えを取り出すだけだった。 「主催する側だよ。…ゲームの中で、こっちが夜会を開いて、皆をもてなさないといけないんだ。抜けられない」 「そ、そうか…。楽しそうだな。…じゃ、何かプレゼントとか、欲しくはないのか?」 誠は振り向いて言った。 「いらない」 イナビカリのようだった。 「欲しいものは何もないし、ケーキなんか食って嬉しい年でもないよ。中学に入った時、もうそういうのはいいって話になったでしょ。今更…。 …父さん、どっか出かけるなら行ってくるといいよ。僕のことは気にしないで」 それは寧ろ、自分のことは放っておけという威嚇だった。 誠は昔から、何の問題も起こさない少年だった。学校の成績も優秀で、塾にも行かず、ずっと金のかからない公立で通したし、離婚後は家事までこなす。 自分にはまるで似ていない。自分には過ぎたと思うほどの息子で、父親ながら、感心していた。 それだけに突然こういう鋭い態度を取られると、どうしていいか分からない。同じ戸惑いを、父親はかつて妻にも抱いた。 「誠」 洗い物を済ませ、手際よく水周りを片付けた息子に、いささか少女らしくさえある父親は、言う。 さっさと二階へ上がろうとしていた彼は、首を傾けて少しだけ振り向いた。 「お前はやっぱり…、母さんが、大事か?」 「……」 誠は今度ははっきりと、呆れた顔で父親を見た。実際困り果てていたのだ。 こんなにも、父親が自分を理解していないことについて。 「――よしてよ」 言い残して部屋へ上がっていった。常に息子の手で整然と管理されている台所に父親は一人、何かの罰のように残された。 *
ムチャクチャしんどそうだな…。ああ、びっくりしたよ。無菌室って看護婦も入れないから何でも自分でしないといけないんだってな。そうなんだ、すげえダルいって言ってるのに。怖えな癌って。俺も気をつけよ…。こんな煙草プカプカ吸ってるくせに? 明日から。遅えよ。 そういや、こないだ相田に会ったよ。え? ここで? そう、ここで。結構来てるらしいよ。…あ、そう。元気そうだった? ああ、すこぶる。…つーかあのヒト、今、段原とどういう関係なの? いや、別にどうってことはないんじゃないの。だって曽房と別れたんだろ。…結構、前にね。 …やっぱ…、あれってホントなの? 何が。ほら噂あったじゃん…。相田と、段原がさあ、一時、…不倫してたって…。知ってるけど、知らないよ。まさか相田に聞くわけにもいかないし。そりゃそうだ…。 子供、いたんじゃなかった。いたな。男の子だろ。男の子だ。もう高校生くらい。高校生くらいさ。離婚後は曽房が引き取ってる。だがそれもまた、妙な噂があっ――よせよ …… …… 『付き添いの方々にご連絡申し上げます。あと十五分で本日の面会時刻は終了となります。お間違えのないように、ご準備をお願いいたします』 帰ろうぜ。だな。にしても、ああ、ショックだった。まさか無菌室で真っ白になってる段原見る日が来るなんて思いもしなかったぜ…。移植はいいけどさ、提供された骨髄が定着しないってことも…、あんの? お前な…、そういうこと考えてもいいから、ホイホイ口に出すのはやめろよ…。 彼らの姿が喫煙室からエレベータホールの方へ消えると、自販機のスペースに隠れて姿が見えなかった少年が一人、表に現れた。 中背で、遠視用眼鏡をかけた小学生くらいの男子だった。レンズで拡大された眼を、二人の大人が去っていった方へ、静かに向ける。 口元が少しだけ開いていた。微かに歯と唇の間を駆け抜ける、呼気の音が聞こえた。 * クリスマスから正月までは停戦期間である。口頭での申し合わせではなく、本当に戦争できない仕組みになっている。 だから城主たちはこの時期に城でイベントを催し、普段バラバラに働いている部下達を慰労するのが習慣となっていた。 今年の週末は二二、二三日になったので、どの城もコレ幸いとその二日を夜会日に指定する。 特に北は、陰謀めいた揉め事の挙句血みどろの争奪戦を経たばかりだったので、その過去を跳ね返すように豪華な夜会となった。 管理する側の人間はほぼ全員、これらの会は自分たちが楽しむための催事ではないと分かっていた。 こういった慰労は身内から革命の動きが生まれることへの防止策でもある。市民の不満の解消にローマの政治家がコロッセオを建てたのと同じで、楽しいながらも、お仕事だ。 ところで『ほぼ全員』というのは、約一名、この世の春を謳歌するのに一生懸命な人がいたからだ。 他でもない、アベじいで、彼は新しくできたゲーム内彼女をもてなすことで、手一杯だった。 「えー。何これ、辛ーい。食べらんない」 「えっ? あ。そうだった?」 「辛いのだめだって知ってるでしょー?」 「ご、ごめん。分かんなかった」 「フツー分からない? 色味を見れば、チリだってー。もー」 「ごめんごめん。新しいの取ってくるよ。何がいい?」 遠く離れたところから、フースケと未来はそのやりとりを見守る。フースケはニヤニヤしながら、体を揺すっていた。 「やー、素敵だなあ、アベちゃん。あれが例の一目ぼれの君か。確かにかわいいけどねえ」 「…本当に女なのか?」 ウィスキーの水割りなんてものを手にした未来は、半ば呆れている様子だ。 「さー。できる範囲で確かめたらしいけど、まあ究極は会ってみないと分かんないよねえ。あのバトーさんも騙されてたわけだし」 「何のことだか」 「でも楽しそうだし、いいんじゃねー?」 アベじいはふうふう言いながら食べ物を選んでいる。 「どこか楽しそうなんだよ。汗かいてるじゃないか」 「下心と冷や汗で輝いているじゃない。ははは」 しかしもうたくさんでもあった。二人は同時に体を反転させると、会場となっている白亜の広間をゆっくりと移動した。 たまたま出会って一緒にいたものの、立場上放ってはおかれない。特に未来は方々から声がかかって、すぐさま別のグループに吸収されてしまった。 彼はこの半月で、北州では名を知らぬ者のない、違反狩りの要になっていた。「エリート」というのは本来シテの城の騎士に限る敬称だが、無頓着な人々からおおっぴらにそう呼ばれるほど、その名声は高い。 功績を得、レベルが上がったことで雰囲気も変化していた。今までより軽く、洗練されたデザインの上級武具を身につけ、足元までの瑠璃色のマントだ。 彼の部下達は彼の真似をして、揃って同じ色を身につけていた。その青い背は大勢が集まる夜会の席でも、浮き上がるように目立つ。 一人になったフースケは、負けて大金をスるためにチェスゲームのテーブルについた。相手はおあつらえ向きに、やる気満々の、若い兵士だ。 フースケも鉱床での任で若干の財を築いていたが、まあそれも、このイベントでチャラだろう。 『――未来は、女の子、どうなの?』 駒を動かしながら、フースケはバックグラウンドで未来と会話する。 『俺にも料理を持って飛び回れってか?』 『いやいや。若干、真面目な話』 「ピンとこない」 何の脈略もなくそう呟いた彼に、取り巻きたちが「?」という顔をする。冗談を言いかけたところで固まった一人に、未来は手を振った。 「失礼」 『――ピンとこない』 『そうなの? 中学の時、お前のこと好きだったコいたけど、元気かね』 『…珍しいやつだったな。大抵、俺は女から嫌がられるのに』 『や、嫌がってるというより、単純に怖いんじゃない。未来、体がでっかいから』 『目つきも悪いしな。 そういうお前は昔から女に溶け込むのがうまかったよなあ。愛とも一番仲良しだったし。…本当にこないだの件は忘れてたのか?』 『あーあー。五手でクイーン棄てることになるよ。このお兄さん、下手だなあ』 『コラ』 仕方ないので、別の駒を動かして派手に戦局をかき混ぜた後、フースケは少し口調を変え、静かに聞いた。 『未来。誠は、どこへ行った?』 『――なに…? …あの双子やアンリエット殿と中央テーブルに…』 いなかった。未来は首を回して室内や、窓の開け放たれたバルコニーの辺りを探すが、見当たらない。 深夜に向かって会が盛り上がっていくのに紛れ、目立たぬようにこっそり退席したようだ。 『…どうする。囁いてみるか?』 『ほっといてやれよ。俺だって嫌だもの』 猫背になって頬杖をつきながら、フースケはやんわりと止めた。 『皆の前で二回も刺された半月後に、こんな人出の多い場所にいるの』 未来は思わずフースケのいる方を見た。テーブルの前には人がたかり、曲がった背中くらいしか見えなかった。 『二回?』 その頃マクシムは、階上の書斎にいた。石室とでも言った方がいいような狭い部屋だが、石造りで通気がよく、なにより、静かだ。 開け放した窓の外には月が煌々と光り、ろうそくの明かりなど必要ない澄み渡った冬の空だった。 残り三方は壁で、全て書棚で埋まっている。部屋の中央に置かれた、ルネサンス風の椅子に腰掛けると、敷物が石畳の上で少しよじれた。 階下からは、遠い夜会の喧騒が時折、細かい泡のように上昇してくる。 マクシムはできるだけ早く気分を整えて、下へ戻らねばならぬことを知っていた。どう振舞えばいいのかも分かっていた。だが、その意識とは裏腹に、体の方は沈降していくばかりで、椅子にぐったりともたれかかったまま、いつまでも気力が湧いてきそうにない。 すべては、胸の傷のせいだった。 医学的にはとっくに塞がったはずだが、マクシムは未だに、そこから血液が失われているような気がする。 今も、才気走って小うるさいが愛嬌のある【リコ】と【リタ】、上品で美しい【アンリエット】らに囲まれて、明るい広間で音楽を聴きながら楽しく過ごしていたのに、胸元からはすうすうと力が抜けていく。 不快をこらえてその手ごたえを探ってみると、どうもそれは、失望に近いもののようなのだ。 にぎやかなパーティーの席上で楽しんでいる時、独りそんな暗い思いを抱くのは何故なのか。それにどうして自分は、彼等に笑顔を振り撒き、世話を焼き、自分もこの上なく楽しんでいることを見せるために戻ることができないのだろう。 今までどおりに。――そう、今までどおり…。 永遠に? その長さを思うと、寒気が走った。 馬鹿げた恐怖感だ。 だってまだここは、シテの城ですらない。 どうした。曽房誠。 彼は胸の傷をまさぐった。 お前はこの程度の人間だったのか。 それでも沈んでいく思考を止めるために、彼は眼をつぶった。右手で目元を覆い、痛みをこらえるように背を丸める。 どれくらい経ったのか――、ふと風が動いた。 前髪が泳ぐのに我に返り、振り向く。 扉のところに人影があった。廊下の明かりを背負っていて見分けにくいが、…アンリエットだ。 彼女は今日は甲冑ではなく、白銀の長衣を身につけていた。細かな刺繍がなされた美しい衣服で、肌の白い彼女の、第二の皮膚のようによく似合っていた。 マクシムは何となく声が出なかった。胸の中がすっからかんだったのだ。休憩にはほぼ、なんの薬効もなかった。 アンリエットも黙ったまま、部屋の中へと滑り込んできた。月明かりが頬に滑る。彼女は裾を捌いてマクシムの前に立つと、すっと屈みこんで、彼の唇に口づけをした。 その日アルカンは、たまたまINが遅れた。 最近あまりにゲームに没入しすぎだと危惧した女親から、引き止められていたのだ。 母親は最初咎め口調だったが、じきにおろおろし始め、しまいにはお前が心配なのよと言って泣き出した。 しかし、十六歳の子は終始冷ややかに親を見つめるだけだった。 心配。心配もいいだろう。だが、どうして自分が危険なことをしているのではないかと疑るのだろう? 自分が今まで危険なことを一度でもしたろうか? 衣服や靴を汚したか。物を壊したか。友達を泣かしたり、弱い者をいじめただろうか。 親の金で遊び歩くこともなく、学校で逸脱したこともなく、勉強をサボることもない。 そんな人間が何故、今に限って危ない事をしていると思うのだろう? アルカンはもう知っていた。彼女の心配には際限も根拠もない。本当は父との不仲が原因で、将来が不安なだけなのだ。泡沫のように湧いてつぶれていく一時の苛立ちを、彼女は子供にあてつけているのだ。 アルカンは母親を尊重し、そんな中途半端なものをさらすことはない。だが、母親の方は情け容赦なかった。父との関係が薄れている今、唯一の子供である自分には、怒りから寂しさまで、その心中全てをさらしていいと思っているようだ。 「ほら、母さんはブチまけたわ。あんたも全部ブチまけなさい!」 アホか。 何もかも無駄だった。子どもの頃から積み上げてきた実績も、母親にしてみれば当たり前の供物なのだ。そこに払われた犠牲の価値を理解することもなく、感謝に立ち止まることもない。 だからこの循環は続くだろう。 永遠に。 それに気付いた時から、もう母親に誠意を捧げることを止めた。子として、親の無言の期待に応える仕事を投げ出したのである。 とはいえ体質が変わることはない。だから自分の奉仕に足る主人を探し求めて、二つの世界をさまよい歩いた。 くじ運が悪いのに、珍しく抽選に当たったゲーム「レヴォリュシオン・エリート」で、アルカンは段原一彰という存在に狂喜した。 段原が病気で一時休養となった時には暗然となったが――、ほどなく、それにも劣らぬ新しい主人を得た。 『彼』は年齢も近いし、なにより、自分と同種の人間だった。 他者に奉仕することを、初めから運命づけられてきた種族。頭のいい素直なコ、と人からは言われる。 命令などは必要ない。調練されれば誰だって兵士になれる。命令される前から人の期待を見抜くのが『本物』だ。 家庭、学校、社会、国家。どんな場に身をおこうとも、『本物』は自らに求められていることを即座に理解し、了解し、期待に応えるために全力で働いてしまう。 そしていつかは草臥れるのだ。嫌になる。 アルカンはマクシムの陥った閉塞の仕組みをよく知っていた。簡単なことで、限界なのだ。 誰だって無理してフェアに振舞おうとした相手に胸を刺されれば、親切心も底をつく。首謀者を処刑にしたところで、失われたものは戻ってこない――。 アルカンは、新しい主の椅子の後ろに立ち、彼が同じ筋道をたどって自分の所へ降りてくるのを静かに待っていた。 家族、教師、仲間といえども、自分を害する者には誠意を捧げないこと。二心を抱くこと。切り捨てること。笑みの背後で、憎しみを抱くこと。これらの簡単なわざを覚えること――。 これが、その受難の一族に生まれた者が、いずれたどり着く知恵である。 最初から最後までを、目論んでいたわけではない。それでも全てはまるで自分の思惑に沿うかのように進んでいき、アルカンはやはり――嬉しかった。 その夜、母親のヒステリーによってアルカンが接続を引き止められている間に、滑り込んできた白銀の裾がマクシムの頬をやわらかく撫ぜるまでは。 -eof-
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