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 父親にだけ、彼は無慾だと伝えた。
そしてマラインは七面倒くさい正式な民族衣装を脱ぎ、いつもの活動的な服へ戻る。
 朝、離れへ行ったがすでに彼の姿はなかった。荷物はあるので慌てもしないで、馬番の男に行き先を尋ねた。
「夜明けとおんなじくらいにどこか辺りを見渡せるところはないかとお尋ねになりましたので」
 東の見張り台をお教えしましたよ。と、男は彼女に手綱を渡した。そしてちらりと彼女の引き締まった体に目をやる。
 出かけようとしたところに、ジンクが馬で姿を見せた。
あのよそ者とやったのか、という彼の問いに、彼女は
「あなたの知ったことじゃないわ」
と素っ気なく答える。
「あの男を信用しない方がいい。こんな紙が出回っているんだ。今朝、あの宿屋で渡された」
 彼が差し出した粗悪な茶色っぽい紙には、印字された文字でこうあった。
『尋ね人。
名前 : カイン・G・ヘキガティウス。
一二三六年イステル公国生まれ。
中肉中背、眼鏡、稀に口髭。
瞳 : 鳶色   髪 : 濃い銀色 
*上記人物を見かけた者は、イステル公国内務部まで連絡のこと。謝礼相当。』
 マラインは音もなく笑いを漏らして紙を畳む。
「逃れてきた科人かもしれん」
「だとすれば随分医術に長けた悪者ね」
「西の連中は信用できない!」
 ジンクの強い否定に、彼女は右手首を動かした。
「ならこの紙切れも」





 高台に昇ると風はやや強くなった。しかし寒いほどではない。太陽の光を体中に受けると寧ろ、衣服の下で肌が汗ばむほどだ。細い木と太い木とを見事に組み合わせて建設されたその見張り台は、大変華奢に見えるのに実際は驚くほど丈夫だった。
 板の張られた頂上へ辿り着くと、カインは目の前に開けた光景にどうしても言葉を無くす。
 ――――森。
どこまでも続いていく永遠たる森。
 その深緑に時々まどかが開いているのは、きっと集落か畑なのだろう。西へ頭をめぐらすと、やはり幾つかの穴が見えたが、その先に一本、まるで定規で引いたかのような直線がかすかに見えた。
 街道だ。
だが夜道を馬で走ってきたので、そこまでどうやれば辿り着くのか分からなかった。
 確かに彼は東部にいた。
自らを取り巻いてきた文明から遠く離れた地――。
 だが一瞬の感慨から帰ってくると、彼はため息をついて腰を下ろした。陽だまりの中、背骨を柱に沿わせ、ひどく長い間ひどく遠くを眺めていた。
 東部を育み、かつ苦しめてきた森。西部では決して見ることの出来ない、神の――――
 いいや。
カインは目を閉じたまま首を振った。
 あれは常緑針葉樹の集合体に過ぎない。何千年も前から、……人類が存在するよりも遥か以前から、光景は変わらず力強く続いて来たのだから。そしておそらく、人類が滅んだ後にもなんら変わることなく……。
 瞼を閉じて、半分眠るか死ぬかしていた処に、馬の嘶きが聞こえた。あの時と同じだ。彼は下を覗き込みもしないで、ぎしぎしとはしごが撓るのを黙って待っていた。
「朝ごはんも食べないでこんなところへ上ったりして」
 やってきたマラインは、今日はこざっぱりした格好をしている。
「本当にあなたって分からないわ。二日酔いでもないんでしょう?」
 カインは無反応で、開いた瞼の前を前髪がちらちらするのにも構わないでいた。彼女は彼の側へどっかりと腰を下ろすと、膨らんだポケットから紅い実を取り出した。
「林檎」
 小さな折り畳みナイフで手際よく二つにすると、片方を彼に差し出す。カインはやっと顔を向けて、それを受け取った。
「……嘘つきだ」
「え?」
「湖など無いじゃないか」
「……ああ、本気にしたの? 言葉のあやがわからない人ね。昔話なのよ」
「これからは本当のことだけ教えてくれ」
「別に嘘は言ってないけど、何?」
「……君はいつから、ああいう『役割』を?」
「真面目に教えて欲しいの? それとも興味?」
「前だ」
「そう? 生まれた時からよ」
 林檎をかじる彼女はこともなげに言う。
「戸長の次女はその役割を負うことが決められているの。でもずっとじゃないのよ、各村で持ち回りだし、期限は本人が成人して二十五になるまでと決められているわ。
 そもそも客人なんて一年に一回来るか来ないかだし、私はあなたで三人目。そしてきっともう最後、あと二月で二十五だから」
「その後は?」
「普通の女と一緒よ。結婚して子供を産むの」
 カインは手の中で赤い林檎に口をつけた。人々の努力の結果だろう。驚くほど甘い果肉。
「……昨夜、ジンクという青年に小突かれた。彼は君の未来の夫になるのか?」
「彼はそのつもりみたいね」
「嫌いじゃない?」
「彼の性格の全てであるところのあの嫉妬深さを除けばね。でも結婚は無理よ」
 問い掛ける視線に、彼女は肩を竦めた。
「彼の母親が反対するわ。よそ者の相手をした女には、いい赤ん坊が産めないって信じてるの」
「……君は、人々のために務めを果たしているんじゃなかったのか」
「忘れっぽい人はどこにでもいるわ」
 マラインは立ち上がった。そして、恐れもしないで振りかぶると、手に残った林檎の芯を、力いっぱい虚空へと放り投げる。
「……しつこい人間もな」
 点になったそれがとうとう見えなくなってしまう頃、カインが後ろでぼそりと呟いた。
「そういった人から逃げてきたの?」
 マラインの手の中で、落とされる紙。次の瞬間、カインの筋張って大きな手がそれをひったくった。
 ばりばり、と音がする。
二人はめいめい手の中に紙の端を持ったまま、しばらく見つめあった。
「……本名を名乗るんじゃなかったと思ってるんでしょう。稀に口髭って言うのが、おかしいわね」
 ため息と共に、カインは右手の力を抜いた。風に流されて、ちぎれた紙切れが空へ流れていく。残った一方を手の中で丸めながら、マラインは首を振った。
「悪いことは言わないわ。いた処へ帰った方がいいわよ、あなた……」
 風が鳴る。
矢倉はびくともしなかったが、取り付けられたはしごがカタカタと音を立てた。
 帰ることは出来ない。
カインの目は再び遠くへ注がれる。
「ここより先には何がある?」
マラインの返答は容赦なかった。
「冬よ」
「まだ十月終りだ。動けるだろう」
「物分りのいい冬を過ごして来たのね。でも、もう半月も待たないうちに、ここも雪に閉ざされるわよ」
「雪? 馬鹿な、こんなに暖かいのに――――」
 はらり、とカインの耳の下を通って胸元に、白いものが落ちた。そして彼の体温に溶けて見えなくなると同時に、マラインの唇が笑う。
 信じられない思いで、彼は空を振り返った。先ほどまで確かに跳ね返るかのような薄い青空だったのに、いつの間にか風が雲を運び、太陽の光を覆い隠そうとしていた。
 とは言えまだ気温は高い。どうしてこんな不自然な雪が降るのか、全く理解の範囲外だった。
「……なんだこれは……」
 控えめながら、小さな雪の塊が次から次へと落ちてくる中で、学者は唖然として呟いた。
「ナイカル」
「え?」
「『警鐘』よ。人々が冬ごもりの支度を仕損じないように、親神がほんの少しだけ雪をこぼして知らせてくれるの。長い冬の到来を」
「…………」
 カインは少し難しい顔をして、辺りを見回した。その目つきは、最初横たわる患者に触れたときのそれに似ていた。
「何か仕組みがあるはずだ」
「かもね。ナイカルはもう二、三回降るわ。そしてある日それがいつまで経っても止まない雪となり、……本当の冬が来るの。
 吹雪と氷の世界よ、よその人に太刀打ち出来る寒さじゃないわ。今のうちにお帰りなさい」
 先触れであるその雪が降っていたのは、実際ほんの五分程度のことだった。灰色の雲は流れ去り、一時の寒々しい光景など嘘のように、再び昼は陽光に溢れる。
 塔から降りた時、カインは当然のように自分に付きまとう彼女に、しばらく世話はいらないと伝えた。
「それは、……私の顔はしばらく見たくないってことね」
 カインははっきりとは答えなかったが、彼女は気を悪くした風もなく捌けていた。
「誰か別の人間が必要?」
 再び彼が答えないと、
「独りがいいってことね」
ちょっと笑って馬に上る。
「安心して、もうあなたを煩わせないわよ。でもこれだけは言っておくわ。出来るだけ早く、お帰りなさい」
 塔の下でカインは独り、彼女の馬が小さくなっていく様を黙って見送った。







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