コントラコスモス -10-
ContraCosmos




 こないだの一件が尾を引いて毎日マヒトのうるさいことと言ったら。
 マヒトの弁によると、危ないところを助けてくれたことは感謝しているとのこと。(実のところ、林檎の方がマヒトより遥かに危険な局面にあった上、しかも我々はそちらをまともに救助しなかったという事実は面倒くさいので内緒にしておく。)
 しかしそれはそれ、これはこれ。自分を救ったものが悪魔なら一息ついた後やはりそれを糾弾にかかるのが、宗教関係者の潔癖で石頭なところだ。リップのように
「助かったならいいじゃない」
などといい加減には考えられないのである。
 殊に彼が看過出来ないでいるのは、私があの犬みたいな堕落坊主に加えたちょっとした傷のことで、あまりの精神的ショックにあの男は未だに寝込んでいるそうだ。その行いが非人間的だと彼は私を責める。
 少ない時間の中で情報を引き出すために最低限度の傷だったと思うのだが、まあ部位が部位だからマヒトには衝撃なのだろう。
「どこに? 傷をつけたんですって?」
 お気楽林檎が赤いほっぺで素朴に尋ねると、マヒトは途端に黙り込んでしまった。視線が回ってきたって私も答えない。最後に二日酔いでだらだらしているリップに流れると、彼は不真面目な笑みを浮かべてご親切にも教えてやった。
「足の付け根だよ。つまりまあ、人間として貴重なもんが着いてる辺りだね」
 ニヤついた口元を手で押さえる。
 思いもよらなかった生々しい解に、林檎の身体ががたっ、と音を立てて引いた。妄想が爆走する前に私は釘を刺す。
「現物に傷をつけた訳じゃないぞ。その行為が連想される線にほんの少し刃を当てただけだ。目をえぐるなんて脅すよりもずっと話が早いんだよ」
 その部位への脅迫は、目隠しをしているとより効果的だ。男でも女でも変らないが、経験によれば男性の方がより効くように思える。
「男は普段あんまりそういう攻撃にさらされないから、実は弱いよね。性的恐怖を押し付けられる立場に転落しているって事実自体がショック。それで頭真っ白でしょ。特に女を押し倒すことしか考えてない純情君は」
「そもそも去勢に対して恐ろしく敏感だよな。何か? 男はあれがないと生きていけないのか?」
「というか、男に落とされるんならまだしも、女に落とされるのは二倍ましで嫌だと思う。
 傷つくよ。だってよく分かってないでしょ。男にとってそれがどういうことか」
「妊娠する女の気持ちが男に分かるか?」
「そうね。それはお互い様だが、とにかく目の前で子供に宝くじを捨てられるような気分だと思うねえ。 『いらないとか言うな! 捨てるな! 俺の話を聞け!』」
 笑ったのは私とリップだけだ。林檎はサイテー光線で我々を見ているし、マヒトは頭を抱えるようにしている。午後三時台からこう話題におやじが入っては無理も無いだろう。でかい図体にこういう語はアンバランスで、はっきり言って気持ち悪いが、彼は初心(うぶ)なのだ。
「いいか、そういう話以前に、軽々しく神の子である人の身体に傷をつけるということは――。喩えそれが罪人の身体であっても――」
 右手から回復して説教を始めようとしたマヒトの努力を跳ね飛ばすように、ばーんと店の扉が開く。午後の日差しを背負って現れたのはヤナギの医師である。
「いらっしゃいせんせ……」
 林檎の挨拶も無視してカウンターに突進してきた。なにやら尋常の勢いではない。この夏日に道を走ってきたのかどうなのか、頬は上気し、汗をかいているし、目はきらきらとゆーか。
 ……ぎらぎらしている。
「神の慈悲は全てを――」
 説教を続けるマヒトとリップの間に割り込むようにしてカウンターに上体を投げ出す。肩で腕をどつかれたマヒトが思わず口を噤むと、この無免許医は大声で言った。
「ミノス! とびきりの強精薬を売ってくれ!」
「――はいはい、強精薬ね」
 と、私が言うまでの十秒間、店の中は北国みたいに静まり返っていた。いや、正確に言うならマヒトの表情が北国だったわけだが。
「イヤー、今日は下世話日和ですなあ」
 リップが本気で感心する。
「どうしたの? 先生、いきなり。確かあんた『まともに出来ない』とか言ってなかった?」
「そうともさ。奥を無くしてはや七年。やばいなあとは思いつつまあ奥さんに操を立ててる訳だからまあいいかなどと自分を誤魔化してきたわけだ」
「誤魔化しだったんだ」
「当たり前だろう! 誰が好きこのんで半人前に留まるか!
 しかし俺もいい年だからよ、慎ましい生活するのもまあいいかーと思ってたのよ、ほんの一週間前まで!」
「ああ、カノジョが出来たの?」
「そうだ! 若くて優しいのが! こうなっては貞節とか言ってられるか、やらないでどうする! ここ一番だ! 出来なかったじゃすまん! 何が何でも俺はやり遂げねばならん!!」
 またえらく燃えてるな。
その背に押されるマヒトがミイラみたいだが。
 その時、林檎が
「あたしもうイヤー!!」
と絶叫したかと思うとほうきを引っつかんで表へ飛び出していった。掃除でもしてくるのだろう。まあ思春期に五十近いおっさんの下半身の話は辛い。私も昔は辛かった。
 気を取り直して、薬草屋としての義務から口を開く。
「言っとくがこの手の薬は心臓に負担をかけるぞ。あんたの心臓が叩く鐘の数は初めから決まっている。それを無理に鼓舞して打ち鳴らそうというのだからいつか必ずツケが回ってくる。
 それはやり終わった後かもしれんし、半年後かも、五年後かもしれん。分かってるだろうな?」
「分かってる。それでも構わん。俺に一晩だけでも夢を売ってくれ」
「……待ってろ」
 なんともまあ、入れ込んでいることだ。大したことをやる訳じゃないのに、どうして男というのはあれをプライドと人生をかけた大仰なものにしたがるのだろう。
 過大評価だよな、などと呟きながら店の奥のトビラを開け、地下室に下りていった。
「恋しちゃってるねえ、ヤナギ先生。子供みたいだよ」
「おーう、笑わば笑え。この嬉しさはお前らにはまだ分からんぞ〜。四十過ぎてのときめきは結構命取りだ。そうと分かっていても逆らえん。
 君は分かるか、マヒト?」
「……え、分かるよ。恋をするとそういう風になるんだろ?」
「頭じゃないよ、肌で分かるかってことだよ。そりゃ神の家に住むには無用だろうが、司祭になるならこれくらい知らないと、市井の人の相談に乗れんぞ」
「誰か異性の顔を思い浮かべて胸が苦しくなったりしたことはないのか? 例えばミノスとか?」
「言うに事欠いて、何であれだ」
 と、心外そうな声を出すヤナギ。
「だって今マヒトがプライベートで会う女なんて、あいつか林檎くらいだろ。他はみんな尼僧か信徒か」
「うわあ寂しい」
「あ! 確かにミノスのことを考えると――」
 パン、と手を打つ音がした。
「おっ?」
「冷や汗が出て胸はズキズキするし頭が重くなるが」
 私が調合した薬を手に地上に戻ると、マヒト以外の男どもがのた打ち回って笑いのめしていた。
 失礼な奴らだ。
検体にしてやろうか。





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