コントラコスモス -19-
ContraCosmos



「確かにあれはレトリックだよなあ。正直に『それがどの一点で安定するか分からない』と書けばいいもンを、『神の見えざる手』なんぞと格好つけやがってさ。
 神様と同じように、見えもしないのに信じさせちまうつもりだよ。間抜けな連中があれを普遍の真理だと勘違いしたらどーすんだろ」
 月見の会は、結局珍しい取り合わせになった。最初に花屋が相談に来たときから私と林檎が行くことは決まっていたが、リップが迎えに来たとき丁度居合わせたヤナギの医師が「行く行く」と喚いたもので一緒になる。
 屋上に着いてみるとちゃっかりマヒトがいやがり、これで総勢六人だ。初対面三人を含めて五人の客を微笑み一つで迎え入れた花屋の主人は、実に懐が広い。
 しかし面子が面子なだけに酒はやたら進むし、その上マヒトの失敗談に端を発して座は結構濃い話になっていた。
「え? 普遍の真理じゃないの?」
 目を点にした神学生(と林檎)に、ご機嫌のヤナギは遠慮なく、
「馬ッ鹿だねえ、マヒトくーん」
と吹っかける。
「アレはあくまでも完全に自由な取引が行われていることが前提の理論なのよ? 規制という規制が全くない、完全な無菌状態での競争では、ああいう風に拮抗するはずっていう理論なのよ?」
「何でオネエ言葉なんだ」
 リップの呟きを蝿でも追い払うように手を振って無視する。
「然るにどこの世の中に規制のない無菌状態の市場が存在するね? 俺的にはそんなものの具現は不可能だと思うねえ。どんな統治体もてめえの財源確保のために必ず市場に仕掛けを作るもんさ。聖庁も塩やら専売してんだろ? 関税の完全撤廃なんて二千年経っても為るかどーか。
 だからコルベチーノのアレはまさに天国の話。飢えも死も病もない天国で、神様がどんなふうにお暮らしになっているかって、そういう話なの」
「えー?」
 勢いづいたヤナギに折角反省していたところをまぜっかえされて、マヒトは苦しそうに額に手をやった。
 だが、まだ今の話を続けようとするだけさすがに彼は神学生だ。私の隣の林檎などは、ワケが分からなくなった時点でもはや手綱を放して、反対側の花屋と嬉しそうに食べ物の話をしている。
「じゃあ何でそんな理論が一般常識として流布してるんだ? 政府や商人の間で実際に使われてるんだろ?」
 ヤナギは変な形に手を動かした。
「誰も使えないとは言ってないよーん。使えるのとものの真理は違うってこと」
「分からん!」
「お前、四角形の内角の和は何度だ」
 と、私。混乱したマヒトは当初、視線を合わせづらそうにしていたことも忘れて、犬みたいな目で私の顔を見る。
「360度」
「じゃあ五年前、ヴェリア船籍の船がとうとう西回りで世界一周しちまったのを知ってるな?」
「勿論」
「この星は丸い、今や常識だな?」
「ああ」
「すると我々は球体の表層に張り付いて生きているわけだ。こういう感じで」
 私は果物の籠の中から丸い林檎を一つ取り出す。
「で、ここに四角形を作るだろ」
 もう片方の手でナイフを拝借し、林檎の表皮をその刃に押し付けるようにして大きく「#」の傷跡をつけた。線は撓むから、四隅の角度も広げられる。
「内角の和は360度か?」
「いや、だってそれは直線じゃないじゃないか」
「だから、あの世界一周のせいで私らが扱う『直線』が『直』じゃないことが判明しちまったんだよ。
 球体の表層にある限り、どんなに微細でも必ずその線は曲がっている。今までの幾何の常識は根底からあやしくなる。言ってること分かるか?
 だが宇宙規模でどうであれ、普通人間が暮らすのにそれらの常識は相変わらず使用に耐える。だからみんな混乱せずに続きをやってる。コルベチーノのもそう。
 それだけのことさ」
「…………」
 マヒトは片手で頬を押さえたまま曰く言いがたい顔をしている。本人は苦労して学生をやっているのに、部外者から意地悪な話ばかり聞かされて混乱が増したのだろう。
 ヤナギも私も彼の心の平安なんて気にしないでズカズカ理論のための理論を展開しているだけだ。彼が着いてこられないのも承知でやっている。一言でいうなら、知識はあっても(私は特に)思いやりがない。
「皆はいつもそんな物事の裏表を考えながら生きてるのか? 俺にはとても着いていけんし、講義を聴くだけでも精一杯なのに同時にそんなことは考えられんよ」
 泣き言を漏らすマヒトに助け舟を出した者がいる。
 花屋だ。
「昔はこの地面が球体だなんて言ったら、倫理委員がその人を火あぶりにしたものですよね」
 と、彼のグラスに赤葡萄酒を注いでやりながら微笑する。
「皆さんが言いたいのはそういうのはつまらない真似だということですよ。時が移れば『真理』は変わる。だからマヒトさん、教室での失敗なんかもう気にしないで下さい」
「は……」
「やさし――ッ!」
 突然林檎が大声を出したんでいじめっ子たちは皆、飛び上がった。見ると甘いからちょっと飲む? とグラス一杯注いでもらっていた黒すぐりのお酒が、すっかり空になっている。
「ああ、お約束……」
 私の嘆息を弾き飛ばすように立ち上がると、林檎は花屋の腕をぐいぐい引っ張る。
「あたしこんなお姉さんがずーっと欲しかったんですー! ねえ、あっちで一緒に星見ましょう!! 人生の先輩として、昔の話とか聞かせてください!!」
「おい林檎……」
 宥めそうになったリップに、「大丈夫よ」と笑っておいて、花屋は親切にも彼女と一緒に屋上の端まで移動していった。
「一杯であそこまで行けるんだ。経済的だなー」
 いっそ感心したように酒を舐めるリップの体を、こちらもそろそろ出来上がってきたヤナギががんと小突く。
「てッ!」
「いーコじゃないのよ、リップちゃん」
「なんかあんたオネエ入ってない?」
「あんなコ泣かしたら天罰もんだよ?!」
「あ、それは俺も同意見だなあ」
 マヒトが大きな掌を見せる。
「実にいい人だ。大切にすべきだ。無論分かってるだろうが……」
「お鉢が回って来てヨカッタナー」
「お前のトコまで回してやってもいいんだぜ」
 席の近い私とリップはぼそぼそ会話をする。
 と、その時天の助けがあった。
 時刻は午後九時半を過ぎ、天の白い満月が肉眼でもはっきり分かるほど大きく欠けて来ていたのだ。林檎が、屋上の端で、
「ホラホラ欠けてますよ! すごい欠けてます!」
と大声を出し、こちらの注意まで強引に喚起した。
 我々はめいめい体をねじって空を見る。虫除けの香の煙が流れる上に、左から既に3/4ほど影に食われた月が浮かんでいた。
「ああ、ホントだ。一時間前まで満月だったのに……」
「すごいですねー! 私初めて!! でもどうしてこんな風に欠けるんですかァ?!」
「先生が説明してあげよう!!」
 ヤナギがぴょーんと椅子を飛び越して林檎たちのほうへ向かった。もっとも着地に失敗してちょっと膝を折っていたが。
「あの薀蓄はただのオヤジだな」
 と、リップ。
「ミノスのは?」
「こいつのはいじめ」
 否定しない私にちょっと恨みのこもった眼差しを向けたマヒトだが、まあ自分にも失言の過去があることを思い出したのだろう。不承不承引っ込める。
 そしてまたさっきの話題に立ち返った。どうやら彼は先ほどの人生相談の間に、花屋の人柄にいたく感じ入ったらしいのである。つたない語彙で彼女の魅力を説明しようと四苦八苦していた。
「俺、あんなふうに慰めてもらったことなかったから嬉しくてさ。勿論そこに安住しちゃいけないのは分かってるんだが、その気持ち自体が嬉しいというか……。
 俺は女性一般にまるで詳しくない方だけど、それでもああいう人が滅多にいないってことは何となく分かるよ」
 彼は今まで無意味に獣道ばかり歩いてきたから、確かにああいう理知的でしかも嘘のない、優しい女性に触れる機会はあまりなかっただろう。
 かく言う私だって花屋がよく出来た女性であることは異議なしで認める。そしてその彼女が、静かな湖のような聡明な愛情で、既にリップの膝下までを浸していることも。
 今までの女達は皆、彼に親切めいた素振りはしながらもこんな用のないところには絶対近寄ってこなかった。
 ただ生きる上での孤独や枯渇を埋めてもらいさえすればいいのだから、何故我々なんかと無駄に関わって面倒な思いをする必要がある。
 しかも自宅に招き入れてまで。
 しない。そんなことは生半可な好意では絶対にしない。その湖の深さや質は、リップにも分かっているはずだ。
 だから今も、彼にしては考え込むような面持ちで下を向いたまま、何も答えないし反対もしないのだろう。
 彼は最初からヤナギのペースに付き合って手加減なしに飲んでいた。それでいて全く効いていないように見える。多分、自らに疑問があるから、酔えないのだ。
「結婚とか、考えないのか?」
 ――私は、マヒトは別段頭が悪いわけではないと思う。今日したという失言にしても、それを鵜呑みにして何かを習得した気になる学生よりも寧ろ、本質を見ているだろう。
 ただ問題は、彼が自分を愚鈍だと思い込んでその刃の使い方をまるでものにしておらず、毎度おっかなびっくり振り回して周りを傷つける点だ。
 花屋ならもっと自信を持って余裕のある方法を取れる。相手が得意の場所へ、痛くない言葉で、相手が受け取れるように手加減してものを投げられるだろう。
 それに憧れていながらマヒトは、相手の準備も出来ていないところに思いついた岩をぽんぽん投げつけるだけだ。私もやられたし、大学の講師もやられたそれを、今度はリップが受ける。
 私は思わず息を止めて、彼の出方を窺ってしまった。
「……マヒト、そういうものにはな」
 リップは長い間黙っていたが、いつまで経ってもマヒトが真面目な顔を崩さないで待っているのを知って、苦笑しつつ口を開いた。
「信仰がいるんだよ」
「信仰?」
「『自分は』……」
 テーブル中央に置かれた蝋燭の灯りが、リップの水色の目の中に映っていた。
「『愛する人間を、殺しなどしない』」
 夜が黒い薄絹を被いたかのように、ふっと辺りが暗くなった。
「わあ……!」
 林檎のだけではなく、同時にあちこちの屋上からため息のような歓声が漏れる。
 空を見ると、さっきまでほとんど姿を無くしていた月が、今度は完全な円の形を取り戻して、尚且つぼんやりとした濃い赤に染められ、中空に浮かんでいる。折角なので蝋燭を吹き消してその暗さを味わった。
 月蝕は、太陽の光を受けて出来た地球の影の中に月が入り込んで、地上からは「食」われたように見える現象だと言われている。
 その論に基づき天文学者が計算した日にきちんと月蝕が起こるからには、恐らくそう大きく違えてはいないのだろう。
 だがそれでも、一度消えていった月がどうしてこの瞬間赤く、沈んだ姿で現れるのかという問題は未だ解明されていない。理屈では影に入っているはずなのに、何故その中に赤い光があるのか。
 結局――我々はまだ、人間の知能が知りえることの半分も、理解していないということなのだろう。
 意地悪と呼ばれた薀蓄でそう言うと、テーブルの対面でマヒトがため息をついた。俺はもうその半分で充分あっぷあっぷだと弱音をこぼす。
「月の光が弱い上に、自分の体で影まで作るんだから世話はないな。全く……」
 寂しそうな笑みで肩をすくめた。
「自分の手すらどこにあるやら分からないよ」
 私は小さな声で私もだ、と呟き、反応があるより先に、柵のほうへ視線をやった。
 ヤナギと林檎と花屋の影が見える。その向こうに、人の心臓のように赤い月が、謎を湛えてぼんやりと浮かんでいた。





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