深夜三時。
退路を塞がれた状態で私は一歩一歩追われ、今では完全に詰んでいた。
どれだけ話しても、ヤライは殺さなければ殺すと言う。殺さなければ殺される。私ではなく、林檎やマヒトや花屋が。彼ら自身には何らの理由もないままに。
「外務院二等書記官バラシン?」
標的の名前を聞いて、私は怪訝な顔をした。小物だ。何故そんな官位の低い人間に対してわざわざ刺客が放たれるのか。
他国の人材を毒殺するのは娯楽ではない。非常なリスクが伴う「戦争」にも似た外交的選択だ。
「小物のくせにしゃしゃり出て、王都のハト派と情報交換を始めている。聖庁と外交的に対立することは、北ヴァンタスの内政にとって有益だ。
にも関わらず、それを私利私欲から妨害しようとする連中を牽制するのが目的だ」
「――ハト派の牽制?」
その為に他国の一介の書記官を殺す? おかしな話だった。私が知る限り、そもそも部下の宗旨など意に介さない王キサイアスがそのような発想をしたことはないし、そのために内務部がわざわざ人を派遣して下級官吏を殺すなどという、耳の奥に綿棒を突っ込むような真似を画策したこともない。
ひどく私刑的な、或いはあてつけ的な感触の話に聞こえた。思わず私は聞く。
「……あなたは本当に、今も北ヴァンタス王国の所属なのか? 内務部の命令を受けて、動いているのか?」
ヤライは、嘲笑でそれに応えた。
私の迂闊さを笑っているのだろう。
今ごろ気がついたのかと。
「そうであろうがなかろうが、お前の立場に変化はない。違うか?」
ヤライはもはや動かなかった。ただ氷の置物のように、工房で私のことを見張り、時折脅しさえすればいいのだ。
私は毒を作った。とても上質品とは言えなかったが、充分人が死ぬものを作った。
深夜までに時刻があったので、その間、ヤライは再び私を辱めた。何故かというに、彼に黙ってレジナルド・クレスと通じたためだそうだ。
純真な女のふりをして誘ったんだろうが。嬉しげに声を上げて腰を振ったんだろうがと彼は言う。
そんなことが出来れば、私は今こんな立場にいはしないだろう。そもそも彼の元を、逃げ出したりもしなかっただろう。
私は私自身の甘さのためにこの男の手に落ちた。父の夢も家族の夢も、何一つ見ないでただ自分だけを固持していれば、道端に突然現れた父親のことになど構いはしなかったろう。
或いは最終的に関わることになったとしても、今のような一方的な関係ではなかったはずだ。
だから私は、私自身の甘さが招いた事態に、偶然居合わせた彼らを死なすことは出来ない。それはヤライのわけの分からない理論と嫉妬の矛先に、偶然収まりかけたクレスを死なすわけにはいかなかったのと同じだ。
では、私はヤライを殺すべきなのか。
ヤライを殺せば、全てはまるく収まるのか。
そうかもしれない。私のこの、消そうとすれば燃え盛る宗教心のような情を除けば。
たった一人。たった一人。
ヤライは世界に、たった一人しかいない。
私はその事実を思うとき、立ちすくむ。
自分の臆病さにぶち当たって停止する。
どうしても彼を殺せないというなら……。後は自分を、殺すか。
それも手だ。
だが私は手のつけられない愚物で、今まで死にたいなどと一度も思ったことがない。どんな悲惨な目に遭っても、手足をもがれた昆虫のように、神経に最後の光が流れなくなるまでもがくだろう。
――死にたくない。
これは、林檎やマヒトや花屋の主人を殺したくない、というのと同じくらい強烈な本心であり、これによって私の退路は自然と塞がれてしまう。
そして、私の疲弊した思考は、自棄の火が燃える地獄の地平に辿り着くのだ。結局私は、誰も殺さないで存在することが出来ない。
ならば何を迷うことがある。
人を殺して生きる。それが毒物師の本質ではないか。
そこに生まれつきながら、甘い夢を見たお前が悪いのだ。一抹の道理と幸福を求めたお前が悪い。
ふいに、暗闇の中に音もなく立つポワントスの姿を思い出した。孤高で、傲慢で、迷いもなく、闇そのもののように透き通って世界に溶けていたあの男。
あれが、本当の毒物師なのだろう。
そうだ。私は道に迷った。工房から寮へ至る二十分ほどの路程の半ばで大道を反れた。
最初から私が毒そのもののように完全に中立であり、孤独をその皮膚として全ての因果に身を沈める覚悟があれば、こんなことにはならない。教書にあるように、他人の死も自分のそれも、出来事の一つとして淡々と受け入れられるのだろう。
それが、中途半端な情に迷った挙句、このように乱れた心で粗悪な毒を造り、下劣な男の言いなりになって公務ですらない汚れ仕事を代行する。
私は、今やカナスが揶揄したところの、下らない「毒屋」に成り果てたのだ……。
宿命から逃れられるとでも思ったのか?
夜の来たりてそう告げた。
私はその問いに今、追いつかれていた。
「行って来い。友好的にコーノスの顔を見るのもこれが最後になるからな、よく拝んでおけよ」
切れ長の目が私を冷たく見据える。私の思考はとうに麻痺している。
「万が一逃亡でもしてみろ。お前のかわいい林檎ちゃんは、耳殺ぎ落とされて川に浮かぶぞ」
宿命から逃れることは出来ない。
緊張の頂点にあるときは、心臓に異常は出ないものだ。頻脈も動悸も、緊張が解けた直後に訪れる。
いっそ心臓が止まればいいのにな、と思いながら私は階段を上り、一階の店に出た。
勿論灯りはすっかり消えている。月光で、外のほうが寧ろ明るい。
カウンターを抜け、店を横切ろうとした私はその時、扉の向こうで物音がするので、踏み込んだなり動きを止めた。
ごそごそ、と音がしたかと思うと、右の窓を人影が通って消えて行った。足音が薄くなるのを待って、私はまた歩を進める。
震える指で錠を外し、ドアを開けると、足元のほうに小さな紙包みがあってくしゃりと音を立てた。
夜の外気の中に手を突っ込み、拾い上げる。
露店で渡されるようなありきたりの紙袋だった。中には薬草と紙切れが入っていた。
その時、背後で物音がしたように思って私はびくりと外へ押し出される。慌てた紙袋は外套の中でつぶされて中身だけがポケットへ落ちた。
私は人のいなくなった舞台のように冷ややかな街を、そのちょうど中央、巨大な礼拝堂と聖庁のある地点へと、たった一人で歩き始めた。
-つづく-
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